おかえり、失楽園

 海の風は、どことなくべたついていた。潮を含んだそれの不快感に顔を顰めると、彼女はなぜか愉快そうに笑う。海が好きだ、と言っていたことを思い出した。ああ、気が合わない人だ。気が合わないのだから、捨て去ってくれればよかった。会わなければよかった。そういえばよかったものを。彼女はいつも、なぜかとても楽しそうだった。そこに幸福があるとでも思っているように。


「海の底には、楽園があるんですって」


 その話は知っていた。少しだけ考えてから、口を開く。


「ニライカナイ、とか言ったっけな。……沖縄だったか」

「そう。まあ、名前とかはいいの……ねえ、あなた」


 手を引かれる。靴が濡れる。ズボンの裾まで濡らしてなお、彼女は止まらない。俺もまた、引きずられるままに海へと向かう。


「だから、心中するなら海がいいな、って。あなた一人でも、私一人でも、少しだけ軽くて海の底には辿り着けなさそうだもの。だから」


 少しだけ躊躇ってから、彼女が指を絡めて手を繋ぎ直す。恋人繋ぎだな、と。少し遠くに思った。手のひらの体温が、生温い。俺も、彼女も、今は同じ温度なのだろう。だからこんなにも、手のひらが自分の一部のように思えてしまう。


「だから、手を繋いでお願いね。……離れないで。離さないで」

「…………離れないでほしかったのは、こっちだよ」

「知ってる!だけどそれは、私もなの。お願いだから、一緒にいてね」


 懇願するように囁きながらも、足は止まらない。足首が浸かる。少し、歩きづらくなってくる。

 歩き、づらい。足が止まる。彼女の手が、ゆっくりと離れている。こちらよりも少しだけ深い場所で立ち止まった彼女が、振り返る。指先が冷たい。


「……楽園はお嫌い?」

「…………わからない」

「生きていたい?」

「わからない、……わからない、けれど」

「うん」

「冷蔵庫の中、鶏肉入ってたから、たぶん腐る」

「あら」

「それに、……エアコンつけっぱなしで出てきた気がする」

「あらま!」


 楽園とやらに行くのなら、関係のない話だ。けれど、彼女の手首を掴んだ。少し、熱い気がする。わからない、けれど。手を引く。陸に向かって。砂浜に向かって。足を取られながら、歩いていく。


「……楽園よりも現実で生きていきたいなら、まだもう少し前を向いてね」

「人間の顔は前しか見れない構造になってる。梟じゃないんだから」

「あはは、それなら……安心かな」


 そう、そうだ。だから、どれだけ暗い方を見ても、それは前なのだ。前しか見えない。見えないのなら、まだ歩くしかない。


「あなたがいるなら、地獄みたいな現実でも、私はちゃんと大丈夫よ」


 少しだけ振り返る。海を見る。その下に楽園があるのならば。その先で、幸福になれるのならば。そこまで考えてから、思考を止めた。今はまだ。

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