第4話 秘密が集まる女
彼女はドアが開くのを待つ間、姿勢を正した。
(……落ち着いて、絶対にバレないはず)
緊張が高まって血の廻らない指が胸ポケット辺りを探る。ペン型のカメラに触れ、無意識に位置を調整した。指先が細かく震えているのに気づき、強く握りしめる。
(……またひどくなってる。薬が合わないの?それとも量が足りないの…)
チカチカと視線の先で光が散った。小さく深呼吸する。
体の不調もここ数ヶ月で慣れつつあり、問題は薬を受け取るタイミングだけと彼女は諦観していた。靴の先に視線を落とし、立ちくらみをやり過ごしていると、ドアが大きく開かれた。
現れた男は、アーティストのロゴ入りの黒いシャツに細身のパンツ。白いスニーカー。一見ノリの良い若者に見える。
彼女が何気に視線を下ろすと腕には彫り物の輪郭がびっしりと走っていた。思わず目を逸らす。
「どうぞ」
その声は低く、少し小馬鹿にしたような軽薄さも含んでいた。首元のチェーンネックレスを指で弄びながら笑顔を見せているがその目は笑っていない。
「え?え……と」
彼女の声が震えた。じっと見つめられる。
(この人は彼女の恋人、じゃないわよね……?恋人の知り合いだとしても、こんな人が……?全く結びつかない)
彼女は自分を見つめる男の口角が上がっていることに気づいて息をのむ。
この人物は相手をバカにしているわけではなく、相手を格下と完全に定義しているように感じた。
嫌な汗が滲む。湿気を帯びた手で鞄の持ち手を握りしめる。
先に病院に寄ってから来れば良かったと後悔する。
指先の震えがまた強くなった。
■■■
ほんの数日前の昼休み。
「あれ、君、吸うんだっけ?喫煙室で見かけないから、知らなかったよ」
課長は灰皿の隣に立つと、いつもの調子で軽く笑った。人懐っこい笑顔を見ながら彼女は少し羨ましい気持ちになる。
計算などないのだろう。自然と相手の懐に入り込み、先輩からも後輩からも慕われている。
「そうなんです。以前やめて……最近また吸い始めたんです」
柔らかく笑みを返す。もう癖のようなものだ、と彼女は心の中で自嘲した。
「お?なんか辛いことでもあった?」
課長の表情が少し真剣になる。話を聞いてあげようという善意が滲んでいた。
「いえ、特にそういうわけでは」
何かあったら相談に乗るよと向けられた笑顔に、胸の奥がざわざわと音を立てる。
随分前から、他人と対峙する時のボタンがずれるようになった。
もともとコミュニケーションは得意な方だった。居心地のいい雰囲気を作れば、相手は自然と心を開いてくれる。それが彼女の強みだったはずだ。
けれど、いつからか会話の中にほんのわずかなボタンの掛け違いを見つけてしまうようになった。
最初は小さな違和感。
ある日、取引先との会食の帰りに個人的に連絡先を渡された。下心かと思ったが、その彼だけではなかった。
男女ともに、彼女のもとへは相談事がたびたび持ち込まれるようになった。
「あなただから話せた」
「一人では抱えられなかったからありがとう」
誰もが彼女に信頼を寄せてくる。良い人間関係を築いている証拠かもしれない。
状況に息苦しさを覚え、同僚に打ち明けてみたことがある。
すると返ってきたのは「すごいね。やっぱりあなたはできる人だから、みんなから頼られるんだ」という言葉だった。
その言葉を聞いたときに別の悩みの扉が開いた。
知らない者からしたら、妬みさえ感じるような、贅沢な悩みに見えるのではないかという罪悪感も一緒にやってくる。
彼女を都合よく話し相手に使おうとする魂胆が見える人は自衛できるのでまだいい。
しかし、その自覚のない人のほうが圧倒的に多いと気づく。ちょっとした雑談のつもりが、いつの間にか相手は深刻な話を始めている。
聞いてしまったあとで「あ、この話はオフレコで」「誰にも言わないでほしいんだけど」と付け加えられれば、彼女はもう逃げられない。相手に「あ、ごめん、重い話しちゃったね」と気まずそうに笑われると、反射的に「ううん、全然大丈夫だよ。大変だったね」と答えてしまう。
数が多すぎる。彼女自身が誘発しているのではないかと疑いすらした。
望んでもいないのに、漏らせない情報が積み重さなった。人の秘密を知るほどに、自分がボロを出さないか気が気でない。
心の許容値をこえて一時的な休職から復帰したのが3ヶ月前。
いまでも心の置き所は調整中で、誰のそばも安心できない。
(――こんなこと誰にも知られたくない。)
無責任に相談に乗ると言われても、課長のような性格の人には理解しようもない。そんな自分の沈黙が長引くのを感じながら、視線を落とした。
数秒もしないうちに課長が話題を変える。
「そういえば最近ほんとツイてなくてさ。家でも職場でも、どこでも地雷踏むんだよな~」
周囲を嫌な気分にさせないバランスのいい自虐はもはや才能で、そういう器用さがまさに求心力と言える。
――ただ、この日は少し違った。
「あの子――営業事務の、知ってるよね?」
聞いた名前は社内でも少し有名な人物だった。可愛らしい顔の作りに、神経質な雰囲気を纏う女性の姿が脳裏に浮かぶ。自分ルールが強くて周りの人間が辟易していた。進んでかかわりたくはない人物。それは社内の共通認識でもある。
課長は火を点け直すと、煙を吐き出しながら視線を遠くに向けた。
「あの子、ちょっと面倒でさ……。俺も悪いんだけど、情が移っちゃって。……わかる?」
彼女は反射的に相槌を打つ。「ああ、そういうことってありますよね」と、部下との関係に悩む上司の話だと受け流そうとしていた。
「この間なんか、生理が来ないって嘘つかれて大変だったんだから。いやー、ドラマかよと思ったね」
それは、唐突だった。「情が移っちゃって」から「生理が来ない」への飛躍が、彼女の脳を戸惑わせる。
課長は笑いに持っていこうとしているが、察知してしまった嫌な予感に彼女の気持ちは沈むばかりだった。これ以上のこの話を聞かせるのはどうかやめてほしいと視線を泳がせる。
「彼女が言うには、嘘じゃないらしいけど。親密になるための儀式?だったかな、よくわかんない。面倒なところも前はかわいいと思ってたんだけど……」
煙を吐き、促してもいないのに続きを話し始める課長。会話の単語がどんどん繋ぎ合わさって一つの答えに集約した。課長は既婚者だ。背筋が凍った。
彼女は灰を落とすふりをして視線を逸らした。
切り込みづらい話題だから相手が黙って聞いてくれることを期待しているのか。その意図に少し嫌悪感が混じった。
(勘弁して……)
沈黙が数秒あった後、課長の声のトーンが、ふと沈んだ。
「この間、俺の子供に会いたいって言い出してさ」
(……やめて)
「子どもにまで話が行ったら、俺ほんと終わりだよ」
彼女の喉の奥が、ひくっと鳴った。
慌ただしく吸いかけのタバコを灰皿に落とし、火を消してしまう。
「私、そろそろ失……」
立ち上がろうとして――改めて課長の顔をしっかり見た。
いつもの朗らかさはなく、目元が濡れている。弱った表情がそこにあった。
(……え)
一瞬、足が止まった。そのまま彼女は、その顔から目を逸らせなくなる。
「俺が悪いんだ、ほんとに。彼女の方から誘われてさ、浮かれてたんだよ」
視界の端で、課長の煙草を持つ手がかすかに震えた。
「実は子どもがさ、最近口きいてくれなくてさ。バレてないとはおもうけど、女の子だし、多感な時期だしね。情けないだろ?」
子どもとすら距離ができるほどの後悔——その痛みは人との距離を見失う感覚、それは自分にも覚えのある痛みだと感じた。完璧に見えていた人物の、もっとも脆い部分を見てしまった気がした。
逃げ出したい気持ちと、見て見ぬふりをしてはいけないという心がせめぎ合っている。
状況も良くなかった。
普段ならすし詰め状態のはずの喫煙室が、今日はがら空きで、2人しかいない状況で話を聞かないことを選択すれば、薄情者と思われるだろう。鈍い頭で考えながら、今度は一度は背を向けようとしたことが気まずくなってくる。
「家族のことは本当に大切なんだ」
心底反省しているような気弱な声を意識の遠くで聞きながら自分の中で何かが静かに傾き始めるのを感じた。
(心から反省しているのね……。お子さんだって、親の秘密を知ったら……大きな傷になる)
彼女の中に先ほどまで張り巡らされていた警戒心の糸が、少しずつほぐれていく。人間関係に疲弊した自分だからこそ見える、相手の苦しみがあるのだと感じていた。
「悪いのは俺だよ。でも、あの子も、いろいろあったんだ。だからせめて最後に整理だけはしておきたいんだ」
彼女は自分の気持ちに折り合いをつけようとする。
(……話を聞くだけなら大丈夫。)
惰性で話だけは聞くことを決意した。額に浮かんだ嫌な汗をハンカチで拭う。
「それでね、俺も反省してるんだけどさ。あの子、ちょっと情緒が不安定というか……。円満に清算したいんだけど連絡が途切れがちなんだよね」
しかし次の瞬間、課長の言葉は予想外の方向へ進んでいく。
「ココだけの話、探偵まで雇ってるんだよ、俺。
反省の色を示していたはずの課長の瞳は子どものように輝きはじめる。
「……探偵、ですか」
新たな情報にまたじわりと嫌な汗が彼女の手のひらに滲んだ。
「そう。あ、いや、怖い話じゃないよ?」
そう言って笑う課長の顔は自虐すら武器に変えるいつもの無自覚の狡猾さを含んでいた。
「調べたらなんと彼女、俺の他にも付き合ってる人が居るみたいで。お互いのために早々に整理したいんだけど…連絡がつかないのだけ、ほんとに困ってんだ」
喫煙室全体に白い煙が立ちのぼる。
(相手方も一方的な被害者というわけではないのね……)
「で、この間、探偵から『良いご報告が出来そうです』って連絡もらったんだけど、詳しくはまだなんだ。で、あの子の様子を一度見てきてくれないかな。……その時に、あの子がいたら、連絡くれるように説得してもらえればさ」
彼女は相槌を打つ。「良いご報告」が何を意味するのか、課長自身も完全には理解していないことに気づく。
(……この人、何も掴んでいない。ただ不安なだけだ)
その脆さが、自分にも覚えのあるものに思えた。
「返事くれないからね……連絡が取れないと、こっちもさ…」
課長の言葉は曖昧に途切れながら続けられる。
(……話を聞くだけなら。様子を見るだけなら。大丈夫……)
彼女も流されるままに相槌をうつ。意識の輪郭がぼやけていく。
自分がいつの間にか相手の世界に踏み入れていることに気づかない。
言葉の意味だけが耳に残り、煙の向こうで誰が話しているのかわからなくなる。
「……わかりました。私でできる範囲なら、協力します。」
そう言った声の冷たさが、
かつて自分を追い詰めた「いい人でいなければ」という呪縛の声に、完全に一致していた。
■■■
その部屋に入った途端、彼女は違和感に気づいた。
缶ビールが転がり、お菓子の袋が破れて食べかすが床に散らばっている。油染みのついたソファには、長く人が沈んだ跡があり、その足元に割れたガラスが散乱しているのを見つけて息を飲んだ。
視線を上げると、観葉植物は枯れ果てて茶色く萎びていた。
(…やっぱりおかしい)
ふとリビングの奥の部屋から漏れる微かな異臭を感じ取り、彼女の呼吸は浅くなる。
鼻孔を刺激するその臭いは古い血液のようでもあり、長く放置された生ごみのようでもあった。息が苦しくなったような気がして、本能的に身を引こうとする。
「あの……やっぱり、また改めて……」
踵をかえそうとした瞬間、男の手が両肩を掴んで彼女の動きを阻む。手から伝わる体温は氷のように冷たく、その感触に反射的に身を強ばる。
「せっかく来たんだから、ゆっくりしてけよ」
耳もとで響くその声は、まるで底冷えのように肌を刺した。生暖かい息が首元をかすめ、男の存在の生々しさを感じた。
頭の中に課長からの指示を思い浮かべる。
書類とか何とか適当な嘘で女性と話す機会を作って、課長に連絡をよこすよう説得すること。もし彼女がいない場合は様子を念の為記録すること。
(やっぱりあのとき断っていれば——)
喉の奥で後悔が泡立った。
「で?書類ってどんな?」
握り込む握力が強く、掴まれた肩の骨が軋む音さえ聞こえそうだ。彼女は息を殺した。
「それは……」
その声は震えていた。
「あ、あの!封筒に入ってるみたいで。」
「ふぅん」
男の手がようやく肩から離れた。彼女は深く息を吸い込んだが、まだ肩の痛みは残っている。
(適当に探すふりだけして帰ろう……)
「大きさは?」
「……そこまではきいてなくて、すみません」
疑わしい目を向けてくる男。彼女は警戒されないよう愛想のいい笑顔を向けるが、自分の唇の端が痙攣しているのを感じる。
男は微動だにせず、彼女の顔を見つめていた。その視線は首元から胸元へと絡みつくようで、言葉にならない不快さが彼女の肌を這う。
値踏みされているような、そんな感覚に全身が粟立った。彼女の背中がゾクゾクと戦慄く。
「まあいい、一緒に探そう。」
その言葉は一見優しく聞こえたが、奥にある仄暗さを認めて、彼女の中の恐怖を自覚させた。
「ありがとうございます……」
焦りが声に出ないように必死に抑え込む。
家主は不在なので、長く嘘はもたないかもしれない。彼女の指は焦燥感で冷たくなり、額には薄い汗が浮かび始めている。
「書類関係は書斎だな。ついてこい」
男は廊下へ歩み出た。廊下の壁の下の方には何かの黒ずみが、点々と散りばめられているように見えた。その色に目を留めて立ち止まってしまう。
(……色褪せてるけど、血?)
もう一度見つめ直そうとした矢先、男の声がかかった。
「構わねぇ、この家は今は俺が借りてるんだ」
着いてくるまでに時間差のあった彼女を見て男は安心させるような声色で話す。
「……え、そうなんですか」
だからと言って家探ししていい理由にはならないと思いながらも、ほかにどうしようもなく男についていく。
自分もこれから一緒に家探しすることを考えると気まずい。
男の背中から視線を外さないようにしながら、ペン型のカメラを操作するために指を動かす。録画スイッチがカチリと音を立てた。
書斎に入ると、彼女は息を呑む。
間接照明に照らされたダークウッドの机、整然と並べられたセンスのいいオブジェや洋書。ここだけは高級誌から抜け出したような完璧さで、リビングの荒れ具合とはあまりに対照的だった。
「そこの棚か、机の引き出しか……」
部屋の中を顎で指し示した後、男が机に近づき引き出しをあけた。
領収書とメモ、レシートがごちゃりと折り重なっている。封筒も見当たらないし、特に変わった様子もなかった。この整然とした部屋の雰囲気とは異なって机の中はどことなく漁られたような跡があった。
「……無さそうだな」
「あ、わたしは棚を探します……」
(都合よくあるわけないけど……)
男の視線を感じながら棚に向かう。一歩一歩を毛足の長いラグが包むがその柔らかさとは対象的に彼女の心臓は早鐘をうつ。
その鼓動は自分の耳に響き、段々とボリュームが上がって行くように鼓膜をたたく。
肉食動物に睨まれているようなそんな本能的な恐怖が全身を支配していた。
棚に立てかけてある本やインテリアを触るが、その指の動きはぎこちなく、紙の感触さえ不安定に思えた。しばらく無言で作業を続ける二人。空気は重く、時間は異常に遅くなったかのように思える。
彼女が棚を探している間、男は収納スペースを見に行き、何も無いと判断して最初に見ていた机の引き出しに戻った。指でその縁をなぞっている。男の動きが止まった。
「おい。こっち来てみろ。」
その呼び声に、彼女は棚から身を引く。男の表情は変わっていなかったが、その瞳には何かが灯っているようだった。
足元まで4段ほどある引き出しの一番深い段を、男が指で指し示した。
彼女も机に近づき、深い引き出しに手を伸ばした。底に指が届くほど、腕全体を沈める。
その時、指の腹が何かに触れた。引き出しの底とは異なる、奥行きがある。段差だ。指の先でその端をなぞると、金属製の取手のようなものが浮き上がった。冷たい感触が指を刺す。
(—二重構造の引き出しだ。)
「やっぱなんか、あんのか?」
男の問いに視線を向けた。彼女は一瞬、返事をすることを忘れた。
息を詰めて、その取手をゆっくりと自分の方へ引いた。カチリと音がして、隠された空間が滑り出す。
限界まで引きだされた空間の中に、折れ曲がった茶色の封筒が無造作に置いてある。雑誌も入りそうな大きめの封筒は厚みのあるものが詰まっているようで中から押されて膨れている。
(うそ……ほんとに、あった……!)
封筒をそのまま立ててみると、封の赤い紐がほどけて、重さでべろんと口が開く。
中を覗くと薄い紙が何枚も重ねられ束ねられた塊が3つ。
「……え?お金……?」
戸惑う彼女の横から男の手が伸びてきて、躊躇なく封筒を掴んだ。自分の胸元まで雑に持ち上げ、中をちらりと覗くと唇を合わせて笑った。
札束を帯から解き、嬉しそうに指でぱたぱたとめくっていく。
その仕草は無邪気で、それでいてどこか病的だった。手のひらいっぱいに広げた札束を鼻に近づけ、その匂いを嗅ぐ。眼の前で札束を嬉しそうに触る男に、彼女は唖然と立ち尽くした。
「へぇ、300万。……これ、借りるわ」
「え?」
「他にもなにか入ってんな、……あぁ。あんたが取りに来たのって、これ?」
男が封筒から写真を取り出した。その手つきは丁寧だった。
その写真には課長と彼女が食事をする姿が映っていた。次の一枚は夜道を手を繋ぐ姿。その直接的な証拠に彼女の胸がえぐられる思いがする。知っていてなお、その現実が残酷に思えた。
「……!」
震えながらこくりと頷く。血の気が自分の顔から引いていくのを感じた。言葉は出ない。
「じゃあこれはあんたにやる」
男が写真を彼女に差し出した。受け取った手は震えていた。カバンに無理やり詰め込む。
「あ、ありがとうございました。わ、わたしはこれで失礼します」
警鐘がなる。
彼女は男に背を向けて急いで廊下へ足を踏み出す。
これは警告だ。全身が悲鳴を上げている。逃げろ、逃げろ、とその本能からの意識に集中する。
(ここを出なければ、はやく——)
「ウケる」
低い声が不穏に揺れた。その笑い声の中に含まれた何かに、彼女の足がギクリと止まった。
「え?……何、ですか……?」
「何って。普通に帰ろうとしてるし?」
ニヤニヤしながらゆっくり近づいてくる男。その笑顔は子どもじみていて、それでいて掠奪的だった。彼女足は動かない。
前に回り込まれて一歩後ずさった。
「返すわけないだろ?あんた相当バカだなー。ホイホイ男の部屋に入ってきて」
男は一歩、二歩と近づいてくる。彼女は後退しようとするが、すでに廊下の壁が彼女の背後を塞いでいた。
その時、彼女は理解した。自分はとんでもない誤りを犯したのだと。
逃げ道はない。
肩のあたりに腕が伸びてきた。
「!!」
反射的に避けようとすると、男の指が彼女の髪を掴んだ。その瞬間強い力で引かれる。
「痛ぁっ!……離して!!」
そのまま廊下へと引きづられる。足が床を擦る音。髪が引き抜かれるほどの痛みに顔がゆがむ。悲鳴が喉から溢れるが、それは誰にも届かない。
リビングまで戻ってくると、男は奥まで進み、歪んだ仕切り戸の前まで彼女を引きずってきた。
乱暴に戸を開くとバキバキと大きな音をたてて戸が歪む。
「キャン!キャン!!」
ふいに部屋の奥から犬の鳴き声が響いた。金属がぶつかる音が何度も響く。ケージの中で暴れているようだ。
部屋に足を踏み入れた瞬間、先程感じたゴミのようななんとも言えない匂いが濃くなった。
脳の警鐘が更に大きく鳴り響く。
彼女を思わす自分の鼻と口を押さえた。
「うぇ……!」
吐き気が込み上げて倒れそうになるが、男の腕は緩むことはなく、そのまま部屋の奥へズルズルと引き込まれていく。
彼女の視界にベッドが映り込む。ここは寝室だ。一瞬の沈黙の中で、青ざめて身体が硬直する。
「!!嫌です!いやぁ離して!!」
必死に身を捩って抵抗する。
「キャン!!キャン!キャン!!」
物音に反応して犬もとめどなく吠え続けた。
「……チッ。うるせー」
暴れる彼女の髪を掴んだまま、犬のケージを蹴り上げた。
「ギャン!!」
「……ひ!」
大きな音が耳朶に叩きつけられ、目の前で暴力を見せつけられたことで彼女の心は一気にしぼむ。足が震えだした。
頭が真っ白になっていくのを感じながら視線を彷徨わせると、ベッドの端の隙間に何かが横たわっているのを見つけた。
(え……?)
布に適当にくるまれている。動かない。明らかに人間の形。足が見えている。赤黒いシミが浮かんでいて、思考が追いつかない。何度も何度の視線でなぞる。
思考が混乱した。意識が歪む。その布の中身が何なのか、彼女は理解してしまった。
「……ひ!」
悲鳴にもならない声が、彼女の口から漏れた。
「ほらよっ!」
急に後ろから抱き上げられベッドに放りなげられる。
すぐさま彼女の上にのしかかって来た男の手がシャツの首元にかかり、勢いよく引きちぎった。
「いやああああ!!」
「はは!……うまそーな身体。悪いなぁベッドはこの部屋にしか無くてよ。」
半狂乱になって暴れるが大きな体は壁のようにびくともしない。
「隣で寝てる友達は気にすんなよ。……あいつ、もう起きねぇから」
「……ひっ……ひっ」
喉で音がなっている。震えで前歯がカチカチとなる。
涙が溢れて自分ではしゃくりあげる声を止めることも出来ない。異常事態を察して体は固まり防御に徹しようとする。
(逃げなきゃ、逃げ……!)
重くなった手足を必死に動かして男の腕から逃れようとする。
「っは!あばれんな……っ、よ!」
彼女の顔のすぐ横を男の拳がかすめる。枕の端が勢いよく沈んだ。
「ひっ……!」
強い風圧が頬をなでで髪を揺らす。喉からは引きつったような声が上がった。冷や汗が止まらない。
「そうそう、いい子にしてろよ」
男は彼女の胸の谷間をべろりと舐めあげると、ニヤニヤしながら彼女の両手と右足をベッドにくくりつけた。
締め上げられる手首の痛み。
細縄のざらついた感触が皮膚を削り、骨の軋む音が頭の奥で響く。
チリッとした摩擦の熱さは意識した次の瞬間にはふわりと消えた。
男の顔が近づいてくる。焦点がゆれて、輪郭がどろりと溶けた。
呼吸が浅くなり、視界の端が暗く沈む。
水に潜ったようにすべての音が遠い。
彼女の意識は、いつの間にか別の場所へ逃げていった。
(……薬、あと一錠しかなかった)
(飲まなきゃ……明日、仕事……)
「……ひっく、」
■■■
男のスマホが鳴る。
煙草を一服し終えた男は金の入った封筒を掴んで、車のキーをポケットに入れる。
マンションのドアを片手で押し開けながら通話ボタンを押して耳に押し付けた。
「……はい、はい。……あ?意味わかんねぇ。…はぁ、わかりました。一旦切るわ。」
「三百万──何に使うかな」
キーを回す男の足取りは軽い。運転席に乗り込むと、封筒を隣のシートのうえに軽く放り投げる。
薄く笑った。
御曹司のマンションのゲストスペースから、黒いワンボックスがゆっくりと発進する。
バックミラーには落ちかけた夕日が映っている。半分雲に飲み込まれながら、橙が滲む様子は自由を奪われてもがく哀れさを連想させた。先程味わった女の姿が重なり男は笑みを深める。
薄暗い車内でスマホの画面がぼうっと光る。
さっきの通話と同じ番号から、短いメッセージが届いていた。
《場所は変わった。地図を確認しろ》
添付された位置情報をアプリが点滅して指し示す。
男は舌打ちして、スマホを助手席に放り投げた。
「うるせぇ、わかってるよ」
苛立ちながらペダルを踏む。エンジンが軽く唸り、車体が滑り出す。街を抜け、車はやがて人気のない山道に入っていく。
舗装の途切れたカーブで、タイヤが小石を弾く。避けなければ危ない大きさのものは無いが、数が多く鬱陶しい。
狭い道を強引に曲がるたび、車体の底が地面を擦った。
ガリッ、と鈍い音が響く。
「チッ、なんで山なんだよ……だりぃ」
男の苛立ちは増すばかりだ。
中腹あたりにさしかかると、ライトが照らす路面が、ところどころ濡れていた。雨は降っていない。
タイヤが水溜まりを踏む。
視界の端を、小さな白いものがふわりと横切る。反射的に目で追うが、それはすぐに闇に溶けた。
(……獣か?)
舌の裏が妙に乾く。ペダルを軽く踏み直した。
ハンドルを握る手が、じっとりと汗ばんでいる。不安が漠然と膜のように広がる。
シフトレバーに手をかけ、ギアを一段落とした。エンジン音が低く変わる。
「……なんだ、今の」
カーブの手前、ブレーキを踏む。
――軽い。
空気を踏みこんだみたいにスカスカだった。
もう一度、深く押し込む。沈むだけで、車体は減速しない。
焦げたような匂いが鼻をついた。
「……は?」
両手でハンドルを握り直す。手のひらが滑る。ペダルを何度も踏み込むが、もう床に張り付いたまま動かない。喉の奥がひくりと震える。フロントガラスの向こうでは道が途切れていく。ガードレールの先は、ただ黒い空だけだった。
「やべ──」
視界の先に、ガードレールが途切れた先の暗がりが迫る。
眼の前に迫る崖。木々のシルエットが、奈落へ続く境界線をなぞっている。
「あ──」
口から出た声は、思っていたよりも小さかった。
次の瞬間、体が宙に放り出され全身が一瞬無重力になる。
胃が喉まで押し上げられ、車体ごと宙に放り出された感覚に、思考が追いつかない。
シートベルトが肩を食い込み、金属がきしむ音。
宙を舞う封筒が、ヘッドライトの光を受けて金色に輝いた。景色が反転するまでの間、男はまだその封筒を見ていた。
封筒がシートから滑り落ちる。
紙幣の束が封筒から零れ、まるで羽のように舞う。落ちていく感覚の中で、思わず手を伸ばす。
指先が紙の端に触れた──三百万。
(まだ何も使っていない。これは俺の金だ──)
その瞬間、音がしなくなった。
車体が地面に激突する刹那、男の視界は金色に染まったまま、世界が無音の闇に呑まれた。
■■■
玄関のドアが締まる音で彼女は目を覚ます。
薄暗い天井と、積み上げられた段ボールが見えた。使われなくなった物置のようにものが散乱した寝室。
緩慢な動きで時計を見ると時刻は18時を過ぎていた。意識を手放してから半日ほど経過していた。
体中の不快感と胃から上がってきた酸味を抑え込み彼女は腕を動かした。手首でくくられた細縄がベッドに振動を伝える。
(……病院、いかなきゃ……)
引き裂かれたシャツの残骸は衣服の体を成さない。空気に晒された胸も腹も冷え切っていた。鈍い頭で考えられることなどせいぜいひとつだった。
(……くすりが、切れてる……)
指先が震え、爪の下がじんじんと脈打つ。思考が散って、目の前の光が滲む。
頭の内側で、膜が一枚はがれるような感覚がした。意識がふわりと浮上し、同時に世界の音が異常に大きく聞こえ始める。
遠くで水が流れているような、階下で響く誰かの足音が耳の奥で鳴っている。舌が乾いて動かず、唾を飲み込もうとしても喉が拒む。
手首を拘束する縄の右手側は少し緩んでいて、指三本ほどの隙間があった。男のずさんな性格と散々暴れた結果の一筋の光だ。
彼女はそれを見つめながら、ふいに微笑んだ。
「……すごい、ぬける……」
自分の声に驚いて、息を呑む。
泣く代わりに笑っていた。その笑いが止まらない。喉がひくひくと震える。
ガンガンガン!と無理やり腕を引く。
縄が食い込み、乾いた血が再び裂ける。痛みが走るたびに、心が生き返っていくような感覚だった。
「……ああ、生きてる。ちゃんと、生きてる……」
ポツリ、ポツリとつぶやきながら、呼吸が荒くなるたび、胸の奥でめまいが渦を巻く。視界の端が白く滲む。
震える指で縄を引き、渾身の力で腕を引き抜く。皮膚が裂ける感触に涙がにじんだ。
(――抜けた!)
手首から肩まで、血の気がどっと引いていく。その軽さに驚きながらも、彼女は左手の縄にも手を伸ばした。
しかし結び目は固く、爪が割れるほど引いても緩まない。焦りが再び頭の奥を叩く。
「はぁっ……はぁっ……!」
右手で縄を叩きつける。ガン、ガンと木枠にぶつかる音が響く。
声にならない叫びが喉を突き破る。それは泣き声とも笑い声ともつかない、低く長い咆哮に変わる。涙と唾が混ざって頬を伝う。叫びの残響が部屋にこだました。
「あぁ!あ―――――!!!」
息が荒く、耳の奥で自分の鼓動だけが鳴っている。その残響の中で、ふと視線が動いた。
男に蹴りあげられたケージは歪んで不自然に傾いていた。
中で座り込む犬は静かにこちらを見ている。格子の数本が枠から外れ、鉄線が外側へ飛び出している。
先端は潰れて尖り、光を受けて鈍く光った。
彼女はそれに気づき、這い寄った。左手の縄をその先端に引っかけ、ギシ、ギシと擦る。
繊維が焼けるような匂いと、自分の血の鉄臭さが混ざる。
(……切れろ……)
息が詰まるほど力を込め、腕を前後に揺する。金属がきしむたび、音が耳に刺さった。
なかなかほつれない。焦燥と痛みが一気にのぼってくる。
「……う、あああああ!!」
腕を振り回すように引く。腕の筋が浮き上がり、汗と血で縄が滑る。縄の中に小さな亀裂が走った。
やがてそこから繊維が少しずつ裂け、彼女はそのわずかなほころびを掴んで、力任せに引きちぎった。
――左手が、自由になった。
「ひっ…ひぅ…!」
手が自由になった瞬間、転がるように床に落ち、膝を擦りながらカバンへ這い寄った。
左足はまだ縛り上げられたままだが、気に止める余裕もない。
乱暴に留め金を開け、手探りで錠剤を取り出す。
指先が震えて一錠を床に落としたが、拾う余裕もなく口に放り込み、水なしで嚥下した。錠剤の苦味が喉に貼りつく。
最後の一粒。
それを思い出した瞬間、心臓が急に冷えた。
スマホを掴み、登録された番号を押す。呼び出し音のあと、無機質なアナウンスが流れた。
「本日の診療は終了しました。受付時間は──」
分かっていた。夜だから。もう誰も出ない。けれど彼女は電話を切ることが出来ない。
「ふ……、ぅう〜……」
惨めな気持ちが込み上げて喉が鳴る。
静かに涙をこぼしながら、電話の向こうに誰かの声を聞けるまで耳に押し当てていた。
その異常さに、自分でも気づけないまま。
■■■
『……続いて、都内のニュースです。昨夜、八王子市の山中で乗用車が崖下に転落し、運転していた男性が死亡しました。警察によりますと、ブレーキの故障による単独事故とみられています。
朝の交通はおおむね順調です。主要幹線では大きな渋滞もなく、電車も平常通りのダイヤで運行されています。通勤・通学の方は、時間にゆとりを持ってお出かけください。』
洗面所の鏡に映る自分の顔をぼんやり見ながら、彼女は、歯ブラシを動かしていた。
テレビからは天気と交通情報。やわらかい声が、いつも通りの調子で続く。
鏡越しに視線を落とすと、足首の皮膚が赤く擦れていた。ベッドにくくりつけられた時の跡が、まだ薄く残っている。
触れると、ヒリヒリとした感覚が広がった。
反響するように長めのシャツの袖の下で、傷がかすかに疼く。袖を引き下ろすと、手首にも同じような跡があった。
(見えないように……)
そう思ってのカフスボタンを留める指先が、少し震えた。
ストッキングを引き上げようとして、ふと手を止める。想定していた濃いベージュでも、足首の跡が透けて見える。
彼女は一度脱いで、黒い色つきのストッキングを選び直して手早く足を通した。
始業の時間が迫っている。
化粧ポーチ、スマホ、鍵。鞄の中身を確認していく。彼女の指先に昨夜、最後の一粒を飲み干したあとの空の薬ケースが触れる。
一瞬、手が止まり、洗面台の脇に静かに置かれた。
朝食をとる気にはなれず、家の鍵をつかんでマンションのドアを押した。
今日は、コンビニではなく、コーヒースタンドに寄ろう。
豆の豊かな香りを感じたい。
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