Air pocket
あわい(間)
第1話 時間を奪う女
午前の業務が少し落ち着いた頃、同僚の女は意を決したように彼女のデスクに近づいた。手には昨日提出された資料のファイルを持っている。
「この資料なんですけど……」
同僚の女が気まずそうに彼女を見る。オフィスの蛍光灯の下で、彼女は几帳面に書類を整理している。
「はい」
彼女は顔を上げると、いつものように丁寧な口調で応えた。同僚の女の顔に緊張感が走る。
「なんでこんなに複製があるんですか?」
普通の質問をしているのだ。こんなに心構えをする必要なんてない。
しかし指摘をした女の瞳は、これから起こり得る面倒事を想像してどんよりとしている。周囲の同僚たちも、この会話の行く末を察して、なんとなく忙しそうに自分の作業に集中し始めた。
「……これだと、最新がどれかわかりませんよね?」
言い出しにくそうに切り出す。
彼女はファイルを受け取ると、いとおしげに眺めた。
「最新は分かりますよ。他のものは修正の途中の履歴として残しておきたくて」
当然でしょう、とでも言いたげな口調だった。
「……なんのために?」
「え?質問の意味がわかりません」
どうして理解できないのかが理解できないと、彼女の眉が下る。
同僚の女は内心でため息をついた。またいつものパターンが始まろうとしている。
「どういう経緯で修正があったのか分かっておかないと、次に意図を知らない別の人が指示役だった場合、最終確認まで行って戻ってくるでしょう?」
彼女の声には確信に満ちた響きがある。
言っていることは一理ある。
「ちなみに、1つのファイルにつき何カ所ぐらい違いがあるんですか?」
「一カ所ずつくらいかしら?」
同僚の女は頭を抱えた。
「……では修正の意図や傾向だけ別のシートに記録しておいてはいかがでしょう?」
そっと提案してみた。だが彼女の表情は一変し、明らかに受け入れがたいものとして扱われた。
「あら、だめよ。それだと人によって解釈の余白があるもの。指示されたことに対するアウトプットのブレない正解の見本がないと、みんな間違えてしまうわ」
同僚は言葉を失った。彼女だけはそれに気づかず、確信に満ちた表情のまま。
時計の針が真上を指す。
「……そうですか」
同僚の女は諦めたように頷いた。彼女は加えてデータに関する他の注意事項の解説も始める。
コミュニケーションにこんなに時間をかけるつもりもなく、ただ不要なファイルだけを消して最終のデータだけに整理してほしかっただけなのに。
人の言葉をからめとる持論には整然とした彼女なりのルールがある。
意に沿わなかった場合は、一方的に納得させられ延々と時間を奪われる。これはもうこの課のゆがんだ日常となっていた。
同僚たちは皆、彼女に関わる案件を避けるようになっていたが、営業事務という職種柄、関わることを完全に逃れることはできない。
彼女はいつも持論を振りかざしながら、無意識に周囲の時間を削り取っていく。
■■■
週末の午後、駅前のカフェは適度に賑わっていた。
窓際の席で、彼女は親友の向かいに座りながら、コーヒーカップを両手で包むように持っていた。
「彼とはこの間4年目を迎えてね、結婚も考えてるんだけど……会うたびにお母さんの話ばかりで」
その声には疲れが滲んでいる。
彼女はスプーンでカプチーノの泡をゆっくり混ぜながら、興味深そうに親友を見つめた。
「結婚しても苦労が見えてるかもね」
彼女の声は同情的だが、どこか分析を楽しむ響きを含んでいる。
「あはは……そうだよね。なんとなくそんな気はしてる」
親友はため息をついた。恋人への不満を口にすることに、少し罪悪感を感じているようだった。
「わかってる?」
彼女が言葉を選ぶように切り出した。
「彼の中で一番大切な女性は、お母さんなの。あなたじゃない」
「え……」
「結婚したところで、その序列は変わらない」
静かな瞳で淡々と続ける。
「最終的には、彼はお母さんを選ぶ。だってそれが自然だもの」
親友は反論しようとしたが、言葉が出ない。だんだんと表情が曇っていく。
「生まれたときから一緒にいる人と、数年前に出会った人。どちらが大切かなんて、考えるまでもないわ」
彼女は顔を上げないまま、目の前の白いお皿のミルフィーユをフォークでつついた。綺麗に盛られたいちごがバランスを崩して転げ落ちる。
親友が思わずそれに目を落とすと、彼女が顔を上げて呟いた。
「マザコン」
「……え?」
一瞬ぽかんと呆ける。
透き通った声で伝えられたその単語があまりにも現実離れしていて意識の上をすべる。
「あ、え?……いや、それって」
喉が張り付いて言葉が出てこない。
「どのくらいのトーン?あなたの言ってるのって……」
目を泳がせ、親友は頭をフル回転させる。
だって、私の好きな人はいたって普通のはず。認めたくない思いが交錯する。
「だ…男性なら誰しも少なからず持っている要素って言うし……」
口では言いながらも自信が持てない。
「違うわ。私が言っているのは『かなり重度』の方よ」
親友は心の奥で疑念が膨らんでいくのを感じた。
■■■
それから数日後、恋人と待ち合わせをしてファミリーレストランに入る。席につくなり彼は嬉しそうに紙袋を差し出した。
「母さん、大分に旅行行ってきたんだって。はい、お前にもお土産」
「……ありがとう」
温泉地ならではの時代遅れのキーホルダーを受け取って、戸惑った。
先日の彼女の言葉が頭をよぎる。
「…何?」
彼は親友の表情の変化に気づいた。
「え?……ありがたいなって」
「はしゃぎたい人なんだよ。でもまあ、たしかに一度会っただけの俺の彼女にもお土産を用意するなんて、なかなかできない気遣いだよな」
彼の声には誇らしげな響きがある。
「……たぶん、一緒に住んでもお前に気を遣わせないと思うよ」
彼氏は目を細めながら将来の話を持ち出した。それに少し居心地が悪くなる。
やはり彼女の分析が正しかったのだろうか。
思考を泳がせながらコーヒーをゆっくり飲む。なかなか胃に入っていかない。
「やっぱりご両親と一緒に住むほうが良いんだ?」
無意識に声の温度が下がり、彼は驚いたような顔をした。
「何?不満そうだな」
「ううん、別に」
なんとなく空気が悪くなって、その後に行った映画も内容が頭に入らずぼんやりとする。
彼が心配そうな顔をしたけれど、沈んだ気分のままその日は早めに帰った。
それから数日、彼からの連絡は来ていない。
今までは小さないざこざがあると毎回仲直りは自分がリードしてきた。
彼から歩み寄ることはほぼないからだ。
自分の心に整理がついたら連絡をする。どちらが悪いとも明らかにしない。それがうまく付き合うコツだと思っているから。
しかし問題は、今回はいつまでもモヤモヤと心の整理がつかないことだ。
自分のアパートでソファに身を沈めながら、彼と写っている写真を画面の右から左に流していく。目では追っているが見てはいない。
『かなり重度の』
「……マザコン」
気がつけば彼女の言葉を反芻していた。
■■■
呼び出された彼女は向かいに座る親友を見る。その表情は前回より深刻だった。
先日と同じカフェで、テーブルの上にはまだ手をつけていないカフェラテ。
白い泡がゆっくりと沈んでいく。
親友がぽつりぽつりと話すデートの様子を穏やかな表情で聞いている。
いつものようにカップを両手で包み込み、まるで温もりを確かめるように指先を動かした。
「ほら?やっぱり本性が出てきたじゃない」
その声には、まるで予言が的中したことを喜んでいるような響きがあった。
「うん…でも、まだわからない。もしかしたら私の思い過ごしかも……」
親友は最後の希望にすがるように言った。
目元が赤く、声が震えている。
彼女は少し考えるように視線を落とし、小さく頷いたあと、カップをソーサーに置いた。
「結婚って本来、お互いを高め合う関係でしょ?」
親友の耳に染み込ませるようにそっと言葉を注ぐ。
親友はうなづきながら自分のカップに手を伸ばした。
コーヒーは既に冷めていた。
「旦那様が疲れて帰ってきたとき、『今日どうだった?』って聞くでしょ?」
上品なネイルをほどこした指の先がリズムをつけるようにテーブルをたたく。
親友は意図が正確に読み取れず、彼女の指の動きを追う。
彼女は迷子のような親友の目を見つめた。
「対等な関係だから、相手の話を聞こうとするのよ」
「でもね」
少し間を置いて、声のトーンを落とす。
「例えば熱を出したときに、大抵の大人はひとりで病院に行くわよね?」
親友は身を引いて背もたれに身を預ける。
彼が風邪をひいたときのことを思い出した。
自分が付き添おうとしたら、母親が看病するからいいと彼が言ったこと。その時は温かいと感じたのに――。
「え、あ……」
曖昧に反応する。
「『病院行けば?』って言うのも、冷たく聞こえるかもしれないけど――」
彼女は人差し指を立てて、強調するように振った。
「これって、一人の大人として尊重してくれてるの」
親友は咄嗟に視線を逸らした。店内のどこか別の場所に目をやる。ウェイターが誰かの注文を取っている。その声が遠く聞こえる。
「じゃ、これは想像できる?」
彼女の声が親友の意識を引き戻す。
「お母さんが具合悪くなったら、仕事を休んででも看病する人が一定数いるの。」
親友が戸惑った表情で、遅れて首を傾げる。
「言い方はいろいろあるわ」
彼女は指を折りながら、一つ一つ挙げていく。
「『もう年齢が高いから心配』」
「『育ててもらった恩義があるから当然のことじゃない?』」
そこで彼女はカップを持ち上げ、一口飲んだ。そしてゆっくりとカップを置き、視線を親友に戻す。
親友は目を合わせられず、テーブルの上に落とした。どれもこれも彼の口から発せられたことのある言葉だ。
カップの中の白い泡は完全に消えていた。
「お母さんの愛は居心地が良いけど――」
彼女の目が、わずかに鋭さを増す。
「人間として対等に尊重し合える夫婦関係の方が、理想的よね?」
テーブルに両手を置き、身を乗り出した。
親友も無意識に身を乗り出してしまった。距離が縮まる。
「彼にそれを気づかせてあげられるのは、あなただけ」
親友の目が見開かれる。
「これは、妻としての大切な役目なの。あなたにしかできないことなのよ」
その言葉を聞いた瞬間、親友の呼吸が浅くなった。
彼女は親友の手に、そっと自分の手を重ねた。
温かい手だった。
「本当の愛情って――」
親友は彼女の顔をまっすぐ見つめ始めた。もう目が離せない。
「相手を甘やかすことじゃなくて、自立を促すことだと思うの」
その手の動きは、まるで儀式のように見えた。
言い終えると、彼女は満足そうに微笑んだ。まるで、完璧な答えを導き出した教師のように。
彼女の言葉は悩んでいた自分を出口へと導くようだ。暗い澱のような感情が明るく押し上げられる。
「そうよね……そうなのよね……私にしか、できないのよね」
声に力が宿り始める。涙を浮かべながら何度も頷いていた。
「私が、彼を変えてあげなきゃ」
「そうよ。あなたなら、きっとできるわ」
彼女は優しく微笑みながら、親友の手を握った。
親友の目には、もう迷いはなかった。
使命感のような光が宿っている。
「ありがとう。あなたに相談して、本当に良かった」
窓の外では、夕暮れの光がオレンジ色に染まり始めていた。
ふと壁の時計を見ると、もう3時間も経っていた
■■■
彼女との会話を思い出す。
「早速。試してみるのは?」
試すという行為は少し気がひけた。しかし親友の心の奥にある疑念を代弁するかのような提案に興味が湧く。抗えなかった。
「彼が本当にあなたを愛しているなら、お母さんよりあなたを優先してくれるはず。」
彼女は一度カップに口をつけ親友を真っ直ぐ見る。
「それとも、結婚してからずっとお母さんの影に怯えて生きていく?」
親友は決心したように喉を鳴らした。
1ヶ月後の週末、彼に小さな「テスト」を仕掛けた。
「日曜に久しぶりにドライブに連れて行ってよ。この間一緒にテレビで見たコーヒー豆が気になるから一緒に買いにいきたい」
そう誘ったあと、わざと同じ日に彼の母親が好む和菓子のイベントがあると話題に出した。
「へー、綺麗だな。母さん、こういう細かい手仕事好きなんだよなぁ」
彼は無邪気に笑った。
「……そうなんだね、どうしようか?同じ日は、さすがに慌ただしくなっちゃうかもね」
親友は努めて軽い調子を装いながら尋ねた。
その瞬間、彼の笑顔が揺らぐ。両手のスマホを弄びながら、目が泳いだ。
「……えっと……じゃあ、日曜は、母さんと行ってこようかな。ごめん。お前とは別の日にも行けるし」
小さな裏切りが胸を刺した。親友の唇は乾き、声が出なかった。
沈黙に気づいた彼が慌てて付け足す。
「ちがうんだよ。ただ、母さん一人じゃ行きづらいだろうし……」
それでも「母親を優先した」という事実は消えなかった。
彼女の言葉が、耳の奥でくすぶり始める。
やはりかと肩を落とす。試す前から何となく答えはわかっていたのに辛い気持ちを抑えられない。
二人の間に沈黙が続く。話さなくなった相手に居心地が悪くなり、彼は違和感をそのまま吐き出す。
「なぁ、なんか変じゃない?……もしかして俺のこと、試した?」
ビクッと肩が震える。
「なんで俺を試すようなことをするんだ?」
図星をさされて今度は親友の方が慌てる。
「……それは」
彼の声には傷ついた響きがある。同時に怒りが混じっていた。
「そんなに信じられないなら、最初から付き合わなければよかっただろう」
親友は自分が何をしてしまったのか、彼の傷ついた声を聞いてようやく理解し始めた。
■■■
彼は実家のリビングで、テレビのリモコンを乱暴に操作していた。
どのチャンネルも面白くない。腹立たしくて仕方がなかった。
「どうしたの?」
母親がお茶を手に、珍しく不機嫌な息子の様子を見て尋ねた。
「彼女に試されたんだ。何を疑ってるのかよくわからないけど、俺と母さんの関係を変に思ってるみたいで」
「あら」
母親は苦笑いした。
その表情には、息子の恋人の心境への理解が浮かんでいた。
「まぁ、よっぽどあんたのことが好きなのね。そこまで思われるなんて、いいことじゃないの」
母親の屈託のない笑顔に、彼は少し拍子抜けした。この人にはいつも友人が多く、さっぱりとした気質で周囲から愛されている。
彼が尊敬する母親だった。自分の彼女が気にするような不穏な空気など、この家には微塵も感じられない。
暗い部屋の中、ベッドに倒れ込んで先程の母親の言葉を思い出す。
「よっぽど好き……」
母親の言葉は複雑な感情をもたらしていた。
彼は本当に理解できなかった。どうして彼女があんな行動に出たのか。
あれからすぐにスマホには短い謝罪メッセージが入っていた。2週間経過した今も返信はしていない。
彼の中には少しずつ罪悪感が生まれていた。
スマホに映る短い謝罪メッセージを何度も読み返す。
彼女は何に不安を感じていたのか。
母親との関係が本当に問題なのか。
それとも、自分たちの関係そのものに不信があったのか。
眠れない夜が続く。彼は今までの思い出を手繰り寄せた。
――初めて出会ったとき、人懐っこい笑顔で「よろしくね」と言ってきた声。
――夏祭りの夜、浴衣姿で「似合う?」と照れ笑いを浮かべた表情。
彼女の寝顔を見ながら、2人の将来を想像したこと。
どれも、彼の中に大切にしまわれている記憶だった。
心がざらついている今でも、その笑顔を思い出すだけで胸が温かくなる。
「……やっぱり俺は、あいつが好きなんだ」
小さく呟いた言葉は、自分を奮い立たせるように響いた。
母親を優先したことを後悔していた。
同時に、彼女が試すほど自分たちの関係に不安を感じていたこと。
不安を抱かせた自分を責めてもいた。
だからこそ、はっきりと伝えなければならない。
――一緒に、この先もずっと一緒にいてほしい
決意してからの行動は早かった。
花屋に行き、彼女の好きな白いバラを予約する。
気合を入れて購入した指輪は何度もケースを開いて眺め、光にかざしては握りしめた。
胸の奥で未来の幸せを思い描けば、プリズムのように光る。
すべての準備を整えたその夜、彼は彼女にメールを送った。
『来週の日曜、いつも記念日に食べに行くレストラン。あそこに19時に来てほしい。大事な話があるから』
メッセージを受けた親友は動揺した。
(大事な話。別れ話?それとも……)
彼が試されたことをどう思っているのか、結局最後まで聞かなかった。
淡い期待が心をかすめて落ち着かなくなった。
■■■
日曜日の夕方、不安ながらも綺麗なワンピースに袖を通した。
最近はおしゃれをしてわざわざ出かけることもなくなったから着る機会がなかったとっておき。
時計は午後5時を指していた。そわそわと落ち着かない。
家でじっとしていられないから、とりあえず街に出てみようか……そう思ったところに
「彼女」からメッセージが届いた。
『最近、落ち込んでるみたいだから美味しいものでも食べに行かない?元気を出してほしいの』
不安な気持ちの中で彼女の優しさに素直にほっとした。お茶ぐらいならできそうと誘いに乗ることにした。
カフェの扉を開けると、彼女はすでに席で待っていた。
「あら、かわいいわね。その色、あなたによく似合ってる」
会うなり、明るい表情でワンピースを褒めてくれる。
「ありがとう」
親友は小さく微笑んで、いつものようにテーブル席に向かった。
椅子に座ると、彼女が何気なく尋ねる。
「このあと何か予定があるの?」
親友の手元には、いつもより小ぶりのバッグ。髪も少し丁寧にセットされている。
いつもと違う様子を見逃さない彼女の視線に、親友は少し迷った。
彼女にはこれまでアドバイスをいろいろしてもらったけれど、彼の今日の誘いには不安だけれど希望があると思いたい。
彼女の話は妙に説得力があるから、弱い自分はきっと流されてしまう。
「うん。だから今日はちょっとだけ。ごめんね」
ぎこちなくそうだけ返して席についた。
「いいのよ、急に誘ったのはこちらだから」
彼女は優しく微笑み、メニューに目を移した。
「私はダージリンティーで」
「じゃあ、私はカフェオレを」
注文を済ませると、彼女が静かに口を開いた。
「彼からは連絡あったのかしら?」
「うん。まぁ……」
親友はスプーンをゆっくりかきまぜながら視線を落とす。
どこかうわの空な親友の様子に、彼女が心配そうな声で続ける。
「ごめんなさいね、あなたが元気ないの、私のせいね」
泣きそうに眉を下げて、ポツリとこぼす。
「彼を信じられなくなってるわよね?あなたが心配なあまり、いろんな可能性を考えて伝えたけど、よくなかった。反省してる」
「そんなことない。あなたは親身になってくれて……」
「でもね」
彼女は身を乗り出し、親友の手に自分の手を重ねた。
「私、気になってることがあるの」
親友が顔を上げる。
「最近、彼と会えてる?」
「う……うん。でも、前ほどじゃないかも」
「そう……」
彼女は意味深に頷き、カップに口をつけた。
「それって、もしかして彼の方から減ってきた?」
「え……そう言われると、たしかに」
親友の表情が曇る。
「いえ、深い意味はないのよ。ただ」
彼女は声を落とした。
「関係が変わる時期って、必ずあるものなの」
テーブルを指先で軽く叩きながら、リズムをつけるように話し続ける。
「最初はすごく会いたがってたのに、だんだん『当たり前』になっていく」
親友は息を呑む。
「それって……冷めたってこと?」
「冷めたというより――」
彼女は少し考えるように間を置いた。
「安心しちゃったのかもしれないわね。『この人は自分から離れない』って」
「でも……」
親友が反論しようとしたが、彼女は優しく首を振った。
「あなたがいつも彼の都合に合わせてるから、彼も『大丈夫』って思ってるのよ」
その言葉が、胸に刺さる。
「人って、手に入ったものには興味を失いやすいの。残酷だけど、それが現実」
彼女は静かにそう言った。
その言葉が、胸に刺さる。
親友はバッグの中から、こっそりスマートフォンを取り出した。
画面には、彼からのメッセージ。
『今日、楽しみにしてる。19時に店前にいるね』
時刻を見ると、18時45分。
「ああ、もう時間……」
親友が立ち上がろうとすると、彼女が静かに言った。
「ねえ、今日は会わない方がいいんじゃない?」
「え?」
「だって、あなた、まだ心の整理がついてないでしょう?」
親友の手が震える。
「でも、約束したから……」
「約束って、お互いの気持ちが整ったときに意味があるものよ」
彼女は穏やかな笑みを浮かべたまま続ける。
「彼、あなたの気持ちを考えてる? あなたが不安に思ってるって、わかってる?」
「それは……」
「返信しないのも、一つのメッセージになるわ」
「でも……」
親友の指が、返信ボタンに触れる。
「待って」
彼女が手を伸ばし、親友のスマートフォンをそっと押さえた。
「今返信したら、また同じことの繰り返しになるわよ」
「同じこと……?」
「あなたが我慢して、彼の都合に合わせて、結局あなたの気持ちは置き去りにされる」
親友の目に涙が浮かぶ。
「少し距離を置いてみたら? それで彼がどう反応するかで、本当の気持ちがわかるわ」
時計の針は、19時を指そうとしていた。
親友はスマートフォンを見つめたまま、動けなくなっている。
「大丈夫。あなたは間違ってないわ」
彼女の声が、耳に染み込んでくる。
「自分を大切にすることは、わがままじゃないのよ」
親友は、ゆっくりとスマートフォンをバッグにしまった。
返信は、しなかった。
窓の外では、暗くなり始めた空に街灯が灯り始めている。
彼女は満足そうに微笑み、紅茶をひと口飲んだ。
「ね、もう少しお話ししましょう? 時間、大丈夫?」
親友は小さく頷いた。
もう、断る気力が残っていなかった。彼女の分析は止まらない。
「彼のお母様って、どんな方なの?」
「優しい人……だと思う」
「優しい、ね」
彼女は意味深に繰り返した。
「優しさって、時に呪いになるのよ」
「え?」
「息子を手放せない母親の優しさは、本当の優しさじゃないわ」
親友の心に、小さな毒が注がれていく。
「彼が結婚を考えてるって言ったとき、お母様はなんて?」
「『あなたが幸せならいいのよ』って……」
「本当にそう思ってるのかしら?」
彼女の目が、鋭く光る。
「本当に手放す気があるなら、もっと距離を取るはずよ」
「でも……」
親友が反論しようとするたびに、彼女の論理は隙間を埋めていく。
だんだん彼女の声が遠くなり、意識の間を流れていく。
時計の針は、21時を回っていた。
カフェの店員が、片付けを始める気配を見せている。
「あら、もうこんな時間」
彼女が時計を見て、驚いたように声を上げた。
「ごめんなさい、つい話し込んじゃって」
親友はスマートフォンを取り出した。
画面には、彼からの着信履歴が5件。
メッセージも複数届いている。
『どうしたの?』
『大丈夫?』
『心配してる』
『返事くれないかな』
最後のメッセージは、30分前。
『わかった。また連絡するね』
親友の手が震える。
「ほら、見て」
彼女が親友の画面を覗き込む。
「結局、自分の都合でしか考えてないでしょう?」
「え……?」
「『心配してる』『返事くれないかな』――全部、自分の不安を解消したいだけ」
「でも……」
「あなたの気持ちを聞こうとはしてないでしょう?」
「そう言われると、確かに……」
親友は、もう彼をかばう言葉を何も言えなくなっていた。
二人がカフェを出たとき、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
「今日は、ゆっくり休んでね」
彼女は優しく微笑んで、親友の肩を抱いた。
「大丈夫。あなたは正しいことをしてるわ」
親友は、ただ頷くことしかできなかった。
駅への道を歩く。
足が、ふと止まり、レストランの方向に意識を向ける。
彼はまだ待っているだろうか。
返信していないことに気づいているだろうか。
返信しないままの気まずさ。このまま彼の気持ちを確かめたい思い。
また彼女の言葉が聞こえた。
「彼は自分の気持ちしか見ていない」
「あなたが我慢して、彼の都合に合わせて」
親友は足を動かした。
レストランへではなく、自分の家へ。
帰宅しても、親友はスマートフォンを握ったまま、
返信ボタンを見つめるだけだった。
心の中で、何かが壊れていく音がした。
■■■
レストランの窓際の席で、彼は待っていた。
テーブルには白いバラの花束。
キャンドルの炎が揺らいでいる。
ポケットには指輪。
待ち合わせの時間を過ぎても彼女は現れない。
十分、二十分……やがて一時間。
キャンドルの炎が短くなり、グラスの水滴がぬるくなっていく。
既読になったメッセージは返信されることはなかった。
約束の時間から丁度3時間。時計は22時を指していた。
店員が気まずげに声をかける。
「お客様」
かすかに首を振るしかなかった。
店員に花束の処分をお願いしてノロノロと店を出る。
スマホの画面には「既読」がついたまま返信されないメッセージが並んでいた。
その夜、指輪の箱は開かれることなく、彼のポケットの中で冷えたまま転がる。
交わされるはずだった言葉が宙に消え、代わりに深い孤独だけが残った。
痛い胸を抱えてふらふらと夜の街を歩く。たどり着いたのは、小さなバーだった。
暗い照明の中、彼はカウンターに座った。
隣の席に、年上らしき女性がいた。
「あれ?初めて見る顔。…もしかして落ち込んでる?」
女性が、さりげなく声をかけた。
彼は何も言わず、ウイスキーを飲んだ。一気に煽ったせいで盛大にむせた。
「げほっげほ!」
「え?大丈夫?!」
女性が慌てて背中をさする。
「話さなくてもいいけど、もし離したければ聞くよ。」
困ったように静かにかけられたその言葉に、彼の心は崩れた。
待っていたこと。
返信がなかったこと。
プロポーズを考えていたこと。
彼が話す言葉を女性は何も言わず聞いてくれる。
否定も、分析も、アドバイスもない。
「その人のこと、大切だったんだね」
その簡潔な言葉が、彼には何よりも優しかった。
バーの薄暗い照明の下で、彼は久しぶりに心の平穏を感じた。
外は小雨が降っており、窓ガラスを流れる雫が街の明かりを歪ませている。
女性はただそこにいて、彼の痛みを受け止めてくれるだけだった。
それは新しい始まりの予感でもあった。
以後、プロポーズまで考えた彼女へ彼が連絡することはなかった。
■■■
数週間後、彼女は近所に住む年上の女性の家を訪れていた。小さい頃からお世話になっているこの人が、介護の問題で悩んでいると聞いたからだ。
「最近、母の物忘れがひどくて……」
お姉さんは疲れた顔で話している。
その時、彼女のスマホが鳴った。
画面には親友の名前が表示されている。鳴り止まない着信音が部屋に響く中、彼女はスマホを裏返した。
「……出なくていいの?」
お姉さんが問う。
テーブルに置かれたスマホが震え続けている様子を見て少し戸惑う。
彼女は首を横に振り、ふんわり笑った。
「今は受け取れない状態だから、そっとしておいてあげるの。…ね?そのほうが優しいでしょう?」
違和感は確かにあるのに、彼女の微笑みの前では、なぜか言葉が霧のように散ってしまう。
「わたしはこだわりが強いほうだと自覚しているの。でも自分の状態を自覚できない人もいる。絶対に自分のためになると わかっていても、他の人のアドバイスが受け取れない瞬間ってあるでしょう?」
お姉さんは少し考えた。確かに、そういうことはある。だけど何か引っかかるものがあって、言葉にならない。
「そんなときは時間が解決してくれる。そっとしておいてあげるのが優しさときもあるわよね?」
お姉さんがその言葉に曖昧に相槌を打つ間も、テーブルの上のスマートフォンは鳴り続けている。
「泣いたり怒ったりしてる人には、対話できないの」
彼女は穏やかに微笑みながら言った。論理は一見正しく聞こえる。
幼さを残す顔つきの彼女がふんわり微笑むと疑いを持った自分の考えが偏っているように感じられる。
「でもね、お姉さんは違う。私と今、話すべき人なの」
彼女の声には、いつものように確信が込められていた。
そして時計の針は、彼女の笑みに合わせるように進んでいく。
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