第二章「現実」 1

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 朝六時半にアラームが鳴って目が覚めると、隣には誰もいませんでした。眠い目をこすりながらリビングに行くと、もう既に身支度を終えていた彼が最後の持ち物確認をしながら、眠い目をこすっている私を待ち受けていました。朝早いからといってさほど急いでいる様子はなく、どちらかというと朝をバタバタしないようにするために少し早めに起きたという風で、朝の時間の一コマでさえこうやって私に笑いかけてくるゆとりを持とうというのは、髪をセットしてスーツに身を包み、少し大人に見えるようになっても変わらないようです。

「遅いじゃないですか茜さん、ネクタイ一緒に結ぶって約束したのに」

 そう言って彼は片手にネクタイを持って、私を待ち受けていたのです。彼は就職活動を今までにしたことがなく、中学時代も高校時代も元々結んであるタイプのネクタイが制服だったため、単刀直入に言うとネクタイを結ぶのが下手でした。それについて彼はギリギリまで私にカミングアウトをするのを躊躇ためらったようですが、さすがに機会が機会だということもあって、ちょっとお恥ずかしい話ではありますが、最近は私と一緒に練習しているのです。ただ練習するのはいつも夜なので、今朝は形だけ作ってあげて後は彼に託すという風にしています。一応自力でも結べるには結べるようなのですが、形がまだまだ不格好なので、今日みたいにちゃんと仕事に行く日は私が手助けをすると、昨日の夜に約束したのです。

「朝ご飯はもう食べた?」

「いえ、途中でコンビニ寄っていくので大丈夫です」

 出来上がったネクタイを首に程よく締めながら、最後の朝の準備を整えました。

「帰るのはどれくらいになりそう?」

「ちょっとまだわからないですけど、茜さんと同じくらいには帰れると思います」

「うん、わかった」

 そのまま私はまだ朝ご飯も食べていないくらいの早い時間に、彼を見送りました。

 あんまりこうやって心配風を吹かせると皆様に過保護だとお𠮟りを受けそうなのでこれ以上は自重するよう心掛けますが、最近の彼は今までとは打って変わって、家にいる時間が著しく減りました。その理由は皆様もお察しの通り、彼が就職したからです。就職先は彼がずっとアルバイトのために登録していた人材派遣の会社で、様々な現場での実績から以前より社員にならないかという誘いはあったようなのですが、今回遂に彼はその誘いを受けたようで、そうして年度明けを待たずして、彼も社会人の一員になりました。

 就職するにあたって、それこそ社会保険や厚生年金などの行政上の手続きをちゃんと整理し、吉祥寺の実家から使えそうなスーツやネクタイを準備していると、彼は就職するべくして就職するのだと、やはり現実で生きていく以上、避けられない道なのだと改めて自覚しました。もちろんそれは、最初から無理なのだから夢などそもそも追いかけなければよかった、などという話ではありません。彼が目指している道である新人賞を受賞してからの小説家としてデビューすることは、社会人として過ごしながらでも充分に狙えるという一つの事実があり、急にオーディションや撮影が入ったりする俳優業だとか、作曲やライブなどの時間の確保に迫られる音楽業とは異なった強みでもあります。当然社会人の中にも、限られた時間の中でそれぞれの道での成功を夢見て活動されている方々は多くいらっしゃると思うので一概には言えませんが、純粋に小説を書く活動に絞ると、年に四冊も五冊も書くのでなければ隙間の時間でも充分だと言って、就職しても小説家としての夢を諦めたわけではないと、彼は決意の言葉を口にしていました。

 だからこそ二年という歳月は、一つの節目でもありました。明確に執筆することだけに集中する、結果を出すための二年間、純粋に物語を創ることだけに集中する、彼の夢を叶えるための二年間、その夢を支えることによって、彼の側に居続けられた二年間──、こう見ると、やはり二年が限界なのでした。

 でも彼はこれからも、私の夢を叶えてくれるはずです。だって彼はこれからも小説を書き続けてくれるのですし、物語を創り続けてくれるでしょう。もちろん私のためではないのはわかっています。自らの夢を叶えるため、自らの希望を実現するために彼は小説を書き、物語を創るのです。そうして今までの二年間と何も変わらず、私にその小説や物語の話を聞かせてくれるでしょう。あの二年間のように、朝起きて、彼が起きてきて、一緒に朝食を食べて、彼に見送られて、仕事から帰ると彼が出迎えてくれて、買い物袋をリビングまで持ってくれて、たまに夕食を作るのを手伝ってくれて、お風呂に入ったら少しテレビを一緒に見て、それが済むとベランダで今日一日あったことや、日によっては彼の作品のことを話して、眠くなったら二人で布団に入って、最後に口付けを交わして電気を消す──、そんな日々はもう来ないのは重々承知しています。だけどその一欠片かけらでも分け与えてもらえるのならば、例えば「一緒に朝食を食べて」だとか、「彼が出迎えてくれて」だとか、「ベランダで今日一日あったことや、日によっては彼の作品のことを話して」だとか、「最後に口付けを交わして電気を消す」だとか、何か一つでもこれからの日々に実現することがあるのならば、やはり私は幸せを感じられるでしょう。

 これから私たちの前に訪れるのは、遥かなる現実です。都合よく塗り替えられる夢ではなく、果てしなく美しい物語でもありません。真っさらで真っ白で、いや、もう既に何色かに染まっているのかもしれませんが、それすらわからない未知なる現実という世界です。

 それでも私たちは、この道を選びました。二年という歳月の末に、この答えを出しました。家族や会社の人達にとやかく言われたからだとか、家計が苦しくなってきたといった現実ではなく、私たちがずっと一緒に見てきた「夢」と真正面から相対する、「現実」と戦うのです。私たちの夢を現実に換えるため、私たちは現実に身を乗り出すのです。


「お帰り。ご飯は食べてきたんだっけ?」

「一応食べたんですけど時間が早かったので、……ちょっとお腹減ってます」

「わかった。じゃあ軽く何か作るね」

 結局彼はその日、予想していたよりも一時間程遅くに帰ってきました。退勤が近くなった頃に飛び込みの案件が入り、その分帰宅時間も延びたようです。確かにそういうことは度々私も経験してきましたが、彼はまだ新入社員同然であって、そういった境遇をかんがみるといつになく自然と、彼に優しい言葉を投げかけていました。明日も朝が早いそうなのでさすがに今日はベランダでの会話は望みませんでしたが、アルバイトの頃とは比べ物にならない疲れた顔を見ていると、逆に少しは話した方がいいのではないかとお節介な感情を抱いてしまいます。

「……やっぱり、前髪って上げた方がいいですよね?」

「え?」

 すると、こぼすような声で彼の方から話を振ってきました。

「あ、すいません、邪魔でしたね」

「あ、うん。私もわざわざ手止めてごめんね」

 思わず軽い夕食の準備の手を止めたので、彼は気をつかったようです。それ以降彼は口をつぐんだのですが、果たしてそれがいつまで続くのか、私が反射的に手を止めたせいで、彼は話したい話題を引っ込めてしまったのではないか、そんなこんなで注意が散漫して、それこそ準備どころではなくなりそうでした。

「いい匂い、してきましたね」

 しかし彼はそんな憂慮さえも見通したように、先ほどのお返しとばかりに優しい言葉を投げかけてきました。

「今日昼休みにインスタで美味しそうなの見つけて、レシピも載ってたからちょっと真似してみたんだ」

「そうなんですね。すごい良いことなんですけど、茜さんがすっかりSNSに染まってちょっと寂しいです」

「どういう意味よそれ」

 いつの間にか会話は日常の中に溶け込んでいきましたが、やはり彼がいつもとは違う空気をまとっていることは、なんとなくわかります。ですが言いたいことを溜め込んでいるのか、はたまた出し切った後にポツンと一つのわだかまりが浮かんだのか、そこまではわかりませんでした。まだ彼も私も現実という長い道のりの出発点に立ったばかりなので、その先が一本道なのか、もしくは曲がりくねった蛇の道なのか、私たちはまだ知る由もありませんでした。

「週末、どこか行きたい場所とかあります?」

 ちょうど最後の盛り付けをし終えたところで、再び彼の言葉が投げかけられました。日常と非日常の狭間辺りにある、至って平凡な恋人同士の会話です。

「うーんどうかな、寛也くんもまだ仕事慣れてなくて疲れてるだろうし、今週はゆっくりしてもいいんじゃない?」

「とか言って、ホントはインスタで流行りの場所とかこっそり調べてるんじゃないんですか?」

「そんなずっとスマホばっかり見てないよ」

 彼が待っているテーブルの上に料理を置いて、少し得意げな顔で茶々を返しました。

「めちゃくちゃおいしそうですね! いただきます!」

 テーブルの反対側に座り、本当に美味しそうに私の料理を口に運ぶ彼を見て、お風呂に入ったように体の疲れが取れていきました。

「でも、確かに今週はゆっくりしてもいいかもしれませんね」

「こら、食べてるときに喋らない」

「……すみません」

 こんな会話で彼も気が休まるのならば、私は夜通しだって付き合います。その中に彼の夢の話があるのならば、私は仕事を休んでだって、彼の物語に付き合います。

「やっぱりさ、週末はのんびり過ごそう」

「はい」

「それでさ、今週あったこと、いっぱい話そう」

「はい」

 さっき怒ったのが意外に効いたのか、彼は最低限の受け答え以外はおとなしくしていました。

「私も、いっぱい、話したいことあるから」

 彼は最後の一口をスプーンですくい、ゆっくりと、口元に運びました。

 口に入れ、嚙みほぐし、ゆっくりと飲み込んでから、その一言を口にしました。

「はい、茜さん」

 その名前を呼ぶために、彼は口を開く。その名前を聞くために、私は耳を貸す。

 これを物語と呼んでいいのならば、私たちの夢は、永遠に醒めることはないのかもしれません。


 そういうわけでいたずらに時は流れていき、気が付けば週末はあっという間に訪れました。宣言通り土曜日曜はどこにも出掛ける予定は立てませんでしたが、金曜の夜だけはちょっと贅沢して、彼の地元でもある吉祥寺のちょっとお高めなお寿司屋さんに繰り出し、彼の社会人デビューを祝福しました。いくら地元といっても吉祥寺はたくさんお店があるので彼もそのお寿司屋さんに行くのは初めてだったそうですが、アウェイながら事前に予約を取って彼をエスコートすると、まさに一本取られたというようにその後は私の言うこと言うことに付き従ったので、思わず私も年甲斐もなく時間を忘れて吉祥寺の夜を堪能しました。バーや居酒屋を何件か巡り、当たり前のように終電を逃し、しかし酔いが回って気分が高揚していたので、帰りはタクシーを使わず彼にお世話になりながら、一駅分を自宅まで歩きました。途中、彼がかつて通学路に使っていたらしい吾妻あづま通りという道を通り、道中にあった公園で少し休んでから帰ったみたいなのですが、いかんせん恋人の思い出深き故郷の道も、束の間の自然に触れた休息も、そもそもそんな会話を交わしたことも頭の中から消しゴムで消したように記憶が葬り去られていました。こんなに酩酊めいていしたのは実に久しぶりで、これが現実の世界でのある意味では「夢」なのだと、有頂天に浸りながら彼の隣で深い眠りに就きました。本当にそんな状態でないと陥らないような意味不明な思考回路でしたが、翌日に酷い二日酔いに見舞われても悪い気はしないほど、現実離れした夜であったのは間違いありません。

 ただそんなわけで、土曜日は自然と体が言うことを聞かない状態になったため、半強制的に家に一日中引きこもっていました。起きたのは正午を少し過ぎた頃で、彼は先に起きてリビングで映画を観ていたのですが、そこにまだ前日の酔いが少し残った状態で浮かれ気分で合流すると、彼は映画を止めて私に身体を預け、そのままソファで身を寄せ合いながら再び眠りました。再び起きたのはすっかり夕方で、映画の続きが残っていたのですっかり日が沈むまで観ていると、彼のお腹の音が聴こえました。それからは映画の内容そっちのけで夕飯に何を食べるかの話題が席巻し、放映がとっくに終わって静かになったテレビの前で、最近流行りのお笑い芸人のネタがなぜ世間に受け入れられているのかという議論を始めるほど、お話に集中していました。結局家にあったものだけで作った夜ご飯を食べたのは夜の九時頃で、その後は順番にお風呂に入り、テレビをつけたら先ほど話題にしたお笑い芸人が出ていたのでしばし観覧し、それを踏まえてベランダに繰り出してお話を再開し、三十分くらい経ったところで話題は「今週あったこと」に変わり、まだ研修の段階ですが実際にはどんなことをしているのかだとか、アルバイトから正社員になったことで何が変わったのかだとか、その上で社会人の先輩としてのアドバイスを求められたので、私なりに経験してきた嬉しかったことや嫌だったことを話していると、いつの間にか日付が変わっていました。

 ですがまだ全然眠くなかったのでその旨を伝えると、彼はベッドに行きたいと言いました。もう少し話したい気持ちが全くなかったと言ったら嘘になりますが、いつものように二人で布団に入って、口付けを交わして電気を消すと、私は何もかも忘れてしまうのです。元々ほとんど覚えていなかった今日観た映画の内容も、テレビ番組でお笑い芸人がどんなネタを披露したかも、今日の夕食のメニューも、昨日食べたお寿司のネタも、今週あった嬉しかったことや嫌だったことも、そして、今日話したことも、これから彼の隣で見る夢の中に紛れ込んで、はかなく消えてしまうのです。彼の隣で見る夢によって、私の記憶は塗り替えられてしまうのです。

 だからもし忘れたい嫌な出来事があったなら彼は力を貸してくれますし、忘れたくない素敵な思い出ができたなら、襲い来る眠気に耐えなければなりません。今日という一日を記憶に留めたいと言うのなら、今日という一日の半分を費やした睡眠の貯金をここで使い、覚醒した状態で朝を迎えなければなりません。それなのに私は、布団を被って瞳を閉じると、五分もしないうちに眠りに落ちました。まるで今日という一日に全く未練などないかのように、私の意識は遠のいていきました。せっかく彼と一日中一緒に過ごせたのに、ゆっくりといっぱい話ができたのに、私はあっさりと今日の思い出を、夢の中に溶け込ませたのです。

 翌朝、私が起きたのは九時頃でそこまで遅くはなかったのですが、彼はその一時間近く前には起きていたようで、既に朝食を食べ終えていました。それから出掛ける準備をしていたのでどこに行くのかと訊いてみると、どうやら午前中に美容院の予約をしていたらしく、そのためにそこそこの時間に起きて朝の準備をしていたのだそうです。今思い返すと、日付が変わってもベランダで話していたのを中断してベッドに向かったのは、明日は午前中から美容院に行く用事があるからと聞いていたはずなのですが、見事にすっかり忘れていました。ということで家を出た彼を見送り、遅めの朝ご飯を食べた後で来週の仕事の準備を少しして、彼の帰りを待ちました。昨日は外の天気など気にならなかったのですが、今日は爽やかな秋晴れが澄み渡っており、こんな気持ちの良い日に家でのんびりしているのももったいないなという気持ちも若干ありましたが、これもこれで私たちらしいのではないかと納得する気持ちもありました。

 するとお昼近くになって彼が帰ってくると、セットした髪型は前髪を上げるスタイルに変わっていました。耳にかかっていた部分もすっきりと刈り込んで、酔ったり寝ぼけている状態だと別人に見間違えそうになるほどのイメージチェンジを遂げていました。その動機はなんとなく想像できましたが、似合ってるよとだけ伝えて、お昼は何が食べたいとだけ訊いて、せっかく整えたんだから後で散歩に行かないかとだけ提案して、新しい彼を受け入れました。彼はありがとうとだけ言って、オムライスが食べたいとだけ答えて、観たい映画が一本あるから、それを観終わったら行きましょうとだけ、私の希望に応えました。

 そのようにして日曜の午後ものんびりと過ごし、彼と同じ時間を共有し、ただ歩いている時間にもたくさんのことを話し、帰って夕食を食べ、それぞれがお風呂に入った後にテレビを少し見て、その後に話し足りなかった分をベランダで満たし、この日はちゃんと眠くなったので二人の意のままにベッドに向かって、明日の起きる時間を確認し、明日の仕事内容を確認し、最後に口付けを交わし合って、今日という一日は終わりました。正に私たちらしいといった理想的な休日で、こんな日が来週も再来週も続いてくれればいいなと頭では考えていましたが、やはり今日も何の未練もなく、私は眠りに就きました。来週や再来週は違った日になってはいないかとおぼろげに願いながら、私は眠りに落ちました。

 来週や再来週は、束の間の休日に執筆をしている彼をこっそりと見守り、そうして夜のベランダでは、今日はどんな展開や演出を思いついたかだとか、それに至る繋がりが上手くいったかだとかの話を聞けることを願いながら、私は今日という日を終わらせるのです。

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