第一章「夢」 6-①

6-①


 日中の執筆を終えて夕方に差し掛かると、散歩がてら軽く近所へ繰り出しました。冒頭に少しだけ触れた話なのでもうお忘れかと思いますが、今日は一応土曜日なので私も一日家に居て、彼の執筆が一段落するのをテレビを見ながら待っていました。

 せっかくの休日ならば二人の時間を取るべきだろうと思われるかもしれませんが、明日はお出掛けする予定なのでご容赦ください。本当は今日もどこかに出掛けようかと彼が提案してくれたのですが、私には夕方のお散歩で束の間の分かち合いは充分ですし、執筆している彼の姿を見ているのも、私にとっては特別な時間なのです。見られているのを意識すると手が止まってしまうようなのであからさまにはできませんが、テレビを見ているフリをして遠目でパソコンと向かい合う彼の後ろ姿を見ている時間は、何よりも休日を感じる瞬間です。そのうちに眠くなってきてソファでお昼寝をして、夕方になって彼に起こされ、無様な寝姿を彼に笑われたときなどは、性交の絶頂時よりも彼との繋がりを強く感じます。今日は珍しく睡魔に襲われなかったのでそんな快感は味わえませんでしたが、散歩中には私の相変わらずのダラダラ模様を冷やかされ、対抗してこれからはご飯を作るのをやめるなどと脅して、彼との繋がりを感じました。生活の関係性については、彼も自虐の一端にできるほど開けた話題でした。むしろその方が話題が広がることもあったのですが、やはりその先の話になると、私たちは示し合わせたように話題を変えるのでした。

「今はどんな作品書いてるの?」

 駅前のスーパーで買い物を終えて帰る道中、少しいじらしく彼に訊ねてみました。

「えー、誰にも流出しないって約束できます?」

 そうやって彼もいじらしい返しをして、今執筆している小説の内容や、今日はどんな話を考え付いたかなどをも嬉しそうに語ってくれるのです。今読んでいる彼の小説で気になった箇所を訊くと、さも小さな子供になぞなぞを与えるかのような口振りを挟みつつ、私の予想を上回る答えを示してくれるのです。ですから彼の書いた小説については、何もかもを知っているつもりでした。

「次の小説で何個目なんだっけ?」

 ふと、何の考えもなしにそんなことを訊いてみました。

「うーんと……、何個目だったかな……」

 すると、意外にも彼の返答は詰まりました。

「七個目じゃなかった?」

 質問しておいて私から答えの提案をすると、彼は依然として悩みました。芝居やとぼけではなく、本当に悩んだような様子が彼にはありました。

「六個か七個……、だったような気がします」

 これまで読んだ作品の数が五個だったのは確実に憶えていたので、その情報に従えば、次は六個目というのが妥当な答えでした。

 しかし私はもう一つ、まだ読んでいない心当たりのある作品がありました。以前に彼が執筆をほのめかし、私も完成を心待ちにしていたとある作品があったはずなのですが、私の勘定ではそれを含めた七個目で、彼の勘定ではおそらく、その作品の存在を認めるかどうか、それで六個目か七個目で悩んだのだと思います。

 ではなぜ、彼はその一つがあるかないかで悩んだのか。その心当たりのある作品が、彼にとってどんな意味を持ち、私にとって、どんな結末を導くのか。おそらく、この一つの差は、些細に見えて──、いや、今はまだ、些細のままでいいのでしょう。今はまだ、その作品は彼と私の間を彷徨さまよっているくらいが、ちょうどいいのでしょう。心当たりがあると言っても、本当に会話の中の一言二言ですし、──それが、以前私が体調を崩し、その際に彼が電話をかけてきてくれた、あのときの会話だったとしても──今はまだ、知らない方が幸せなのかもしれません。

「ううん、ごめん。たぶん六個目だね」

 そう言いながら彼の腕に身を寄せると、悩んだ顔は微笑みに換わりました。

「早く、七個目も見せられるようにしますね」

 一瞬、触れている腕に力が入り、またすぐに、いつもの柔らかい腕に戻っていきました。

 まるで、何かを心に決めたかのように。

「帰りましょう、茜さん」

 優しく私の名前を呼ぶ声が、過ぎていく四月の風に乗り、新しい一年の訪れを予感させます。

 確信ではありません。私が彼の声から受け取ったのは、これまでの二年間の繰り返しではなく、新しく動き出す一年の予感でした。それはもしかしたら、今この瞬間が来年の今頃には様変わりしているという、日常の終わりなのかもしれません。

「……ちょっと痛いです、茜さん」

 無意識に力を込めたのも、そのまま何も言えなくなったのも、たった一年後の彼が、たった一年後の自分が、こんなにも想像できなかったことなど初めてだったからでした。

 幸せを感じた今だからこそ、彼にこの上なく触れている今だからこそ、私は、彼を見失ったのです。

「でも、なんかいいですね、こういう時間」

 周りに誰もいない住宅地ほど、この瞬間に相応しい場所はありません。

 何でもないふと思いついた呟きほど、この場所に相応しい言の葉はありません。

「帰りましょ、茜さん」

 彼の姿が、瞳に映りました。ようやく私は、彼を取り戻しました。

「帰ろっか、寛也くん」

 やはり私にとって一番幸せな瞬間は、性交のときでも、同衾どうきんのときでもないようです。

 こうやって歩いている時間が、こうやって歩いている時間ならば、一年後でも、十年後でも、また訪れてくれるはずです。

「はい、茜さん」

 私は春は好きですが、秋は嫌いです。永遠に春だけが続けばと、ずっと思っています。

 春は、色々なことが始まり、秋は、終わる季節です。私たちの出会いが始まり、私たちの惹かれ合いが始まり、私たちの生活が始まり、そうして、秋に、いずれかは──。

 だから私は、もう少し春を堪能してから、彼との日々を先に進めたいと思います。


 宣言通り、四月を越え、五月を越え、雨天と夏の始まりを感じさせる六月を越え、それから七月に突入しました。今のところ私たちの生活に大きな変化はありませんが、四月から執筆していた作品が完成したようで、早速私も読み漁り、いつものように感想と感傷を共有しました。次の作品はまだいつから執筆するかは決めていないようですが、しばらくは期間を空けると言っていたので、よってその間は映画や小説で題材を蓄えるとか、苦手だった料理に挑戦してみるとか、アルバイトをして少しでも身銭を稼ぐとか、そんなような期間にするそうです。

 もちろんその中には私との時間も含んでくれているようで、休日は家でのんびり映画を観たり、陽が沈んできたら外に出てどこかへお出掛けしたり、以前よりも長い時間を彼と過ごせています。執筆の進捗に関しては私も彼にとやかく言うこともありましたが、こういう充電期間のようなものもたまには必要だと思いますし、私自身とてこういう時間を無意識に欲しているのですから、水を差す理由はありません。

 何より私がとやかく言わなくとも、彼は夢のために研鑽を続けて力をつけながら、執筆に尽力していると私は信じています。その上で私との会話や出来事が彼のアイディアを引き出すきっかけになったり、単純に彼の心に癒しや平穏を与えられるのならば、それ以上に私の癒しや平穏はありません。お互いに与え合うことができるからこそ、今の努力の日々でも幸せを見出す瞬間を感じられるのです。

「もうすぐ終わるんでそれから帰りますね、茜さん」

 水曜日の今日は午後休を取ったので、早い時間から彼と合流し、水曜日の割引が適用される映画館にでも行こう──、と思ったのですが、彼は今日アルバイトに行っていて空いていないようだったので、前にも紹介した『グラン・トリノ』という作品を家で一人で観ていました。すると彼から電話がかかってきて先の言葉通りもうすぐ帰ってくるようなので、せっかく休みを取ったのによりにもよって何で今日この日にアルバイトを入れたんだ、等々の恨み節を頭の片隅で膨らませつつ、おとなしく彼を待つことにしました。

「早く帰ってこないと執筆中のデータにイタズラしちゃうよ~?」

「……それはホントにやめてください」

 こんな風に、今の状況を冗談に変えられるくらいの日々は、それはそれで、楽しいの一言に尽きます。きっと、いつまでもは続かないのでしょうが、だからこそ今このときに感じた楽しみや、喜びや、苦しみや、辛さを忘れずに、彼と共有したいと思っています。そうしていつか今の日々が終わったそのときに、その一つ一つを分かち合って、そのときの幸せを感じたいと思います。それが私と彼の、積み重ねてきた努力の末の結果だと、私は信じています。

「夜ご飯、何か食べたいものある?」

「うーんそうですね……、今日はちょっと疲れたんで、とにかくいっぱい食べたいです」

 少し意外な答えだったのでその主旨を追及したくなりましたが、疲れているのならば余計な問答はわずらわしいだけだと理性が働き、働いた理性に従いました。となると先ほどの冗談も彼からしたら面倒なやり取りだったのかもしれませんが、もう取り返しのつかないことは気にしても仕様がないので、せっかくの休みを放っておかれた件についてはチャラにするという相殺の下に、疲れているなりに優しく接してあげようという結論に至りました。

「うん、わかった。よかったら駅とかで合流して一緒に何か買って帰る?」

「そうですね。そしたら駅着きそうになったらまた連絡します」

「うん、了解。それじゃまた後でね」

 言葉を言い終えた後の最後の一息までじっくりと聴き分けて、彼との電話を切りました。疲れているのは確かなようですが、私の勘から言わせていただきますと、たぶん、機嫌は悪くはないようです。それは私が会おうと言ったからではなく、疲れたと言っていたその事柄に因るものだということも、彼の吐息が教えてくれました。

 ということで、予定通りとはいきませんでしたが万が一に備えて落としていなかったメイクを若干直してお出掛けの準備をしていると、五時の合図の鐘の音が聞こえてきました。おそらく地域によって時刻や音の種類にバラつきがあるのでピンと来ない方もいらっしゃると思いますが、ここ西荻窪では夕方の五時になると録音された鐘の音が鳴り響き、もう一日も残り僅かに差し掛かってきたのだと知らせてくれます。彼曰く、この音が聴こえると途端に私のことを思い出し、集中力が失われるのだそうです。冗談半分の話のネタのような言い訳だと思い込んでいましたし、実際私はこの時間に一人で家にいることなどほとんどないので今まで意識すらしていなかったのですが、今日改めてこの音を聴いてみると、少しだけ彼の言っていることがわかった気がします。こういう音は確かに、今自分の置かれている現実に立ち返らせます。私は彼の恋人であり、彼が小説家になろうとしていることを知っているただ一人の人間であり、そんな彼に今日一日もお疲れ様と言うために、家でこの鐘の音を一人で聴いている──、それが、今の私です。

 同じく彼も一人で執筆をしているとき、この鐘の音を聴いて様々なことを思い巡らすのでしょう。自分は今、小説を書いている。小説家としてデビューするため、創り上げた作品を世に出すため、そうしてその作品がいつの日か、誰かの何かを変えるきっかけとなる力にするため、そんな壮大な夢を抱きながら、小説を書いている。でも現実は、小説家としてデビューできる保証はどこにもない、創り上げた作品を世に出せる保証はどこにもない、そうしてその作品が世に出なければ、こうやって大して広くもない部屋で一人細々と小説を書いている時間は全て無駄になってしまう──、それが、彼にとってのこの鐘の音なのかもしれません。

 だから私は、彼の夢になってあげたい。小説家としてデビューできなくとも私がいると言ってあげたい。作品を世に出せなくとも私だけは読者になると寄り添ってあげたい。そうしてこれからどんな現実を目の前にしようと、小説を書き続けてくれるよう背中を押してあげたい。それがいつか、彼の夢を実現する力になると、私は信じているのですから。

 と、そんな風に私も色々な想像を巡らせていると、再び彼から電話が来ていることに気付きました。

「はいはい、どうしたの?」

「あ……、茜さん」

 開口一番彼は、私の名前を呟きました。なんとなくそれが、この電話の内容が私にとってあまり良いものではないと予感させました。

「あの、今日実はこの後、急に急用ができてしまって……、ちょっとこれからしばらく帰れなさそうです……。本当に申し訳ないです……」

 普段から言葉の使い方に気を付けている彼が「急」という表現を被せてしまうほど、彼の中の申し訳なさが伝わってきました。

「あ、うんわかった。じゃあ寛也くんの夜ご飯の分は用意しなくて大丈夫?」

「……はい。本当に、すみません」

 何度謝ったって会えないのは変わらないんだから、なんていうこんなにも誠意を込めた謝罪に対して鬼のような返し言葉が頭に浮かぶくらい私も内心ショックを受けていましたが、その感情を噛み殺して、もう一度噛み殺してようやく、平常心を保てるだけの心持に落ち着きました。

「あの……、もう一つだけ、わがまま言ってもいいですか……?」

 そしてふと、もう一つの提案は、私にとって良いものだと確信しました。

 なぜなら彼は、こうやって私に細やかな悪戯いたずらを仕掛けることが、たまらなく好きなのです。

「用事までもうちょっと時間あるので、もしよかったら、このまま少し話しましょう」

 提案ではなく、「話しましょう」と、彼は言いました。

「そうだね。もう少し、話そっか」

 五時の鐘の音はすぐに鳴り止んでしまいましたが、私たちの会話はもう少しだけ、この大して広くもない部屋の中を満たしてくれそうです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る