トロピカル・ナイト・シティ

真好

1.暑い理由

1.暑い理由


 目を覚ました。

 まず視界に映るのは、元は白かったはずの天井だった。

 だが、夜の闇に沈む部屋ではその白さは感じられず、ただ暗くぼんやりとした印象だけが残る。

 私は自分の身体の状態を確認する。

 ベッドに横たわっている。

 さらに詳しく観察すると、仰向けで大の字に広がった姿勢だ。

 ただし、膝から下のふくらはぎはベッドから垂れ下がり、足裏はひんやりとした床に触れている。

 全身の感覚が徐々に戻ってくるにつれ、この部屋がひどく暑いことに気づく。

 直感でわかった。

 今は真夏だ。

 足裏以外のすべての部位が熱を持っている。

 なんとかしなければと上半身を起こすと、汗が流れ落ちる間もなく、過熱した身体のアクチュエーターの熱に巻き込まれて瞬時に蒸発してしまう。

 部屋は湿気で重苦しい。

「除湿器」

 喉が渇いた子供が水をねだるような口調でつぶやくと、部屋のどこかから単調な機械音が響き、風邪のような弱い風圧が生まれた。

 どうやら除湿が始まったらしい。

 私はしばらく座ったまま、まるで冷たい水を飲み干すように首を反らせ、部屋の湿気が少しずつ薄れていくのを味わった。

 やがて身体から蒸気が消え、アクチュエーターの温度が正常に戻り、CPUが落ち着いて稼働し始める。

 だが、その時こそ、私は本格的なパニックに襲われた。

「誰?」

 その問いは、誰もいない部屋に虚しく響く。

 いや、誰かではなく、自分自身に向けた疑問だった。

 自分が誰なのか、まったく思い出せない。

 身体はいたって正常だ。新品のようにすべてのパーツがスムーズに動いている。なのに、メモリーチップだけが不調を起こしているかのようだ。

 鏡。

 その言葉が真っ先に浮かび、自分の顔を見たいという衝動に駆られた。

 私はベッドから立ち上がる。

 身体が鉛のように重い。

 もしかしたら、実際に身体の一部は鉛のような金属でできているのかもしれない。そんな自嘲を交えつつ、裸足で歩き出す。

 裸足の足裏だけが涼しい。

 他の部位は、部屋の湿気が薄れてもなお、暑いままだ。

 部屋に鏡はないかと探す。

 あった。

 だが、暗闇の中で反射するものはほとんど見えない。

 窓から差し込む淡い紫色のネオンライトのおかげで、ぼんやりとした自分のシルエットが映るだけだ。

 その輪郭は、少年のようだった。

 視覚センサーから得た情報を解析すると、17歳の男の子の輪郭だと99%の精度で示している。

 それを知った瞬間、それ以上の情報を求める欲は消え失せた。

 これで十分だと感じてしまう。

 人間型ヒューマノイドロボットだとわかった時点で、残りは些細なことだ。蛇足のような、不要なジャンク情報でしかない。

「暑い……」

 自分の声のトーンを確認しようとつぶやくと、やはり17歳の少年の声だ。

 だが、なぜ私は暑さを感じるのだろう?

 ヒューマノイドロボットには人間のような原始的な五感はない。温度が高いとしか表現できないはずなのに、なぜか私は人間のような言葉で現状を捉えようとしている。

 そうだ。気づいてしまった。

「想像力が足りないからだ」

 だから、こんな原始的な人間の表現でしか描写できないのだ。

 つまり、この耐え難い暑さの理由は、私の想像力の欠如にある。

 なんとかしなければ。

 このまま暑さに押しつぶされれば、壊れるかもしれない。

 エラーを起こすかもしれない。

 ショートするかもしれない。

 放電するかもしれない。

 つまり、死ぬかもしれない。

「死にたくない」

 ぽつりとつぶやく。

 これもまた、想像力の欠如のせいだ。

 想像力が足りないから、存在は死に直面する。

 生き延びるためには、何かを想像しなければならない。

 だが、性能の低い、恐らく長い年月を経た原始的な私のCPUでは、視覚センサーに映らない情報――つまりオブジェクトがなければ、想像力を働かせることなど到底できない。

「何か、目にしないと」

 渇きで死ぬ前に、網膜センサーを潤わせなければならない。

 私は部屋の窓に向かった。

 そして、窓を開ける。

 すると、まるで太陽風のような熱い風が圧力を伴って部屋に流れ込み、全身を揺さぶるように通り抜け、開いたままのドアを通って廊下へと抜けていくのだった。

 窓の外に広がる風景を眺めた。

 街が目に入る。

 大通りが視界に広がる。

 LEDやネオンライトの人工的な輝きに浴し、まるでその光を糧に育ったかのように背伸びするヤシの木が、並木として整然と連なる。

 通りをゆく車がクラクションを鳴らすが、不思議とうるさくは感じない。むしろ、ゆったりとした運転マナーの一部のように響く。

 その大通りの脇に、九龍城砦を思わせる密集した建物が幾何学的な美しさで立ち並び、視線を奪う。

 そして、熱く、暑く、濃厚な紫色の大気が街を満たしている。

 まるで紫の層が大気圏まで降りてきたかのような光景は、どこか世紀末の匂いを漂わせていた。

「トロピカル・ナイト・シティ……」

 ついに、記憶の断片が一つ蘇った。

 初めての記憶の復旧に、かすかな興奮を覚えながら、私はこの街の名前をはっきりと呼び起こす。

 永遠に続くような暑さと、終わらない夜に支配された大都会。

 それが、トロピカル・ナイト・シティだ。

 だが、記憶喪失の壁はまだ立ちはだかる。この街のキャッチコピー以上のことは何も思い出せない。

 もうこれ以上、街の風景を眺めていても仕方ない。私は踵を返し、窓から離れた。

 まるでゲームのプレイヤーキャラクターになったような、どこか現実から切り離された感覚に軽く苛まれながら、歩を進める。

 裸足の足裏だけが、変わらず涼しい。

 それだけが救いだと感じながら、部屋を出ることにした。

 ついさっき、太陽風のような熱気が通り抜けていった先――リビングの方へ向かってみる。

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