第8話 元カレに電話

 お互い、必要として、愛し合っている事が分かっても、日々、やって来る日常と対

峙すると、疲れてしまう私だった。

 お正月の間、嫌々ながらも親戚に顔を出したり、耕二さんのお客さまの接待に追われていた。


 耕二さんは「疲れたか?大丈夫か?」とねぎらってくれる。

  嬉しいけど、疲れは癒されない。

 15日も過ぎ、世の中が正常なリズムを取り戻した頃だった。


 耕二さんの仕事が外のスタジオで録音だった日。

 汚す人が居なくなって、綺麗に片づいた部屋を眺めながら、ホッとダイニングテー

ブルに座ってコーヒーをいれていた時。

フッと、耕二さんと結婚する前に付き合っていた彼を想い出した。

今まで、滅多に想い出した事もないのに、どうしてか、頭に浮かんで来た。

私は、まるで夢遊病者のように、彼の事務所移転通知の葉書を手に電話していた。


 お互い、嫌いになって別れた訳ではなかったので、

「会わなくなっても、お互い、居場所だけは、知らせようね」と約束していた。

 それ以来、お互い連絡先が分かるように2、3年に一度位の割合で近況報告を

兼ねた手紙や葉書を出し合っていた。

彼は、今、広告代理店から独立して、自分で小さな制作プロダクションを作ってい

る。

<人に使われるのが嫌で、自分で事務所を作りました。今では、一応、社長兼プラ

ンナーだよ。自分の思いのまま仕事をやっています…>と云うような内容の手紙を貰

っていた。


 「もしもし、池田ですが、横井さんいらっしゃいますか?」

 私は旧姓で電話した。

 彼と私の間では、近況報告を兼ねた短い手紙も旧姓で付き合っていた。

 しばらくして、彼が電話口に出た。

 まったく変わらない、昔のままの声で彼が出て来た。

  嬉しかった。


 「身体は、大丈夫?」

 「うん、随分痩せっぽちになっちゃったけどね」

 「どれ位?」

 「うん、この間体重計ったら、40キロあるかないかになってた」

 「前から、太ってる方ではなかったけど…あの少年のような体形が今じゃ、どうな

ったの?バンビちゃんみたいになったの?」

 「……何日も靴を履かない日もあるからね」

 「そんな事してたら、足が退化しちゃうよ」


  何を、喋ったかは、はっきり覚えてない、でも、昔のままの彼がそこに居た。

  声も、話し方も同じ彼が…

 ちょっと違ってたのは、昔より少しソフトな印象だった。

 「お酒は、毎日飲んでるよ」と私。

「そうか、それはいい事だ、でも…大丈夫?」

「うん、大丈夫、検査したら、どこも悪くないって、大きな花丸貰える位いいの」

「そう、それじゃ良かった」

私は、もっと、ぎこちない話し方で他人行儀になるだろうと思っていたが、昔より

ずっと気楽に話せたことが嬉しくもあり、ちょっと拍子抜けのところもあった。


 「一度、会おうか?」と彼が言った。

 驚いた。

 耕二さんには、悪いと思ったが、気持ちが先に行って、

「うん、いつがいい」って訊いていた。

「僕、明日から、福岡なんだよな…」って彼が言った。

「じゃ、今日は?」私は、今日は、耕二さんが外のスタジオで留守なのをいい事

に、咄嗟に言っていた。

「うん、そうしょうか」と話が決まってしまった。


  場所は、家の近所。

 都心にあって、ちょっと人里離れた住宅街にある御洒落なショットバー。

  時間は、6時半から7時の間。

 自分でも驚くほど突拍子もない行動だった。

 毎日の息の詰るような日々から一瞬でも逃避したい気持ちが、彼との約束を早急に決めてしまっていた。


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