双角の勇(そうかくのゆう)

魔王の囁き 

第1話

第一章【黒影の幕間】

良く晴れた初秋の空をトンビが悠々と旋回していた。幾重にも連なる山々に包まれた谷あいに時の流れを静かに刻むような藁葺屋根の家が佇んでいる。その家では、親子が豚の世話に忙しく動き回っていた。

「大輝、まずは豚の体重測定だ。俺は、豚が悪さしないように見ているから、お前は記録を頼む。豚は全部で九匹、間違えるなよ」

 碧が笑みを浮かべながら言った。二人は、母屋から離れた豚小屋で作業をしていた。

「うん。分かったよ」

大輝は、手元のノートを構え頷いた。碧はニンジンを握りしめ、豚の動きに神経を尖らせて近づき、持ってきたニンジンをちらつかせて注意深く誘導した。

ニンジンを目の前に差し出し、碧は、少しずつ距離を詰めていった。ニンジンをくんくんと嗅ぎながら豚は前に進む。それを何度も繰り返すと、秤の上に載るのであった。

「えっと、体重はっと・・・」

大輝が体重計を覗き込むが、豚の前足が数値を遮ってしまっていた。

「豚の足が邪魔で見えない」

大輝が豚の足を掴んで軽く持ち上げようとしたその瞬間――。

豚が突如跳ねた。身体をねじり、牙を剥き出して大輝に突進してきた。

「危ない!」

碧は咄嗟に大輝を自分の方に引き寄せ、素早くニンジンを豚の背後へと投げた。

「ふぅ…これで大丈夫だ」

碧が目をやると、豚はニンジンの匂いに反応し、短い足を懸命に動かして走り出した。

「大丈夫か! 大輝、怪我はないか?」

「うん、おとが、助けてくれたから大丈夫。ありがとう」

 碧は胸に手を当てながらホッと息をついた。

「はっはっは、父親として当然のことをしたまでさ。それにしてもいつもは、大人しいのに今日は、豚たち、落ち着きが無いな」

碧は爽やかに笑う。

「でも、おとって三十五歳のおじさんなのに、なんで僕より早く動けるんだ?」

大輝が首をかしげて尋ねた。

碧は背が高く浅黒い肌を持つ。がっしりとした体格と言うよりは、しなやかで引き締まった細身の体。力強さよりも、俊敏さが際立つ精悍な出で立ちだ。とても三十五歳には見えない。必要な筋肉だけが無駄なく備わり、ぜい肉はほとんどない。その体はまるで鞭のようにしなやかさを持ち、動きの切れは抜群だ。碧は、少し照れくさそうに肩をすくめた。

「まあ、五歳の時から親父に猟師になるための訓練を受けていたからな」

「ご、五歳! 辛くなかったの?」

 それを聞いて驚いた顔で大輝が聞き返した。大輝自身は、豚の世話と猟の訓練により少年から青年の体つきになり始めていた。足首の太さから将来、背が高くなろうであろう片鱗を見せていた。ただ、少年らしいくるくると変わる瞳が年齢より幼くみせていた。

「最初は、ただの体力作りのランニングだったよ。だんだん傾斜がきつく、距離ものびていった。最初は、辛かった。でも途中からそれが日常になって、辛いけど楽しいっていう気持ちに変わっていったんだよ。不思議とね」

そう言うと碧は、ほがらかに笑った。

「話はここまでにして、次は豚ごとに配分した餌をあげるぞ。大輝は配分表を見ながらやってくれ。あっ、さっき体重測定の際にニンジンをあげた豚にはあげないように気をつけてな。豚の名前はキューゴだよ」

「うん、分かった」

作業が進む中、大輝が餌を手に取ると――。

「あっそれはトーゴの餌じゃない。それはヨーコのだよ」

碧が指摘した。

「え? あっ本当だ!」

「あはは、まあいい。取りあえず俺がまだあげていない二匹のうち一匹をやるから、大輝はもう一匹に餌をあげてくれ」

続いて飲み水の作業、トイレと寝床の掃除、次々に仕事が進む中、碧はどんな作業でも手際が良かった。

「おと、やっぱすげぇよ」

大輝はそう呟きながら、なんとか作業についていこうと必死だった。

「ふーん。そんなものかねー。他をあんまり知らないからな。普通じゃないの、これくらい

碧は、目を細めて首を傾げる。普段の生活が当たり前になっている分、他の家庭との違いに実感が湧かないようだ。

「多分そうだよ。おとは、すごいよ」

大輝は軽く笑いながら話した。

「ふぅ…。疲れた」

碧は大きく息を吐いた。額には汗が滲んでいる。

大輝が心配そうに声をかけてきた。

「おと、大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だよ。これしき。少し疲れただけだよ」

「ほんとに大丈夫? 無理するなよ」

大輝は眉をひそめながら、じっと碧を見つめる。

「ああ、無理はしないよ」

碧が微笑んで言うと、大輝は安心したように頷いた。

作業が終わり、碧は手を払った。

    §

森の家に夕暮れが忍び寄り、薄青の色があたりを静かに染め始める。

人の顔も、ぼんやりとした青みを帯びていった。

碧は大輝の服や身体を見た。泥や藁があちこちに付いている。

「大輝、服も汚れたな。疲れただろ。風呂を沸かして入るぞ」

「うん。僕も入る」

二人は風呂に入り、湯気が立ち上る中でほっと一息つく。

「あ~、頑張った後のお風呂は最高だな~」

碧が声を上げると、大輝も笑いながら応じた。

「なんで家って、豚を飼っているのに食べないの?」

大輝はふと疑問を口にする。

「ああ、それはな・・・」

碧は腕を組みながら答えた。

「うちの豚は狩りをするだろ。それに、畑で作ったもので飼えるからコストパフォーマンスが良いんだ。食べるのはもったいないよ」

「ふーん。なるほどね」

湯に浸かりながら、碧がふと思い出したように尋ねた。

「そういえば、本当に高校に行かなくて良いのか?」

「う~ん。正直、高校の問題くらいなら簡単に解けるし、必要ないかな~って思っている。それに、俺が後継者にならなかったら、妹の玲(れい)が猟師にならないと跡継ぎがいなくなるし、玲はまだ十二歳だからね。それに僕自身が早く猟師になりたいんだ」

碧は静かに大輝の言葉を聞きながら頷いた。

「そうか。分かった」

「それに・・・憧れの人もいるしね」

大輝が小さな声で呟いた。

「ん? 何か言ったか?」

「何も言ってないよ」大輝は笑って誤魔化した。

風呂を出た後、碧は猟の準備に取り掛かった。耐寒性の衣服や履物、ライト、銃、携帯食料などを一つ一つ確認した。

準備が終わると、庭から玲の元気な声が聞こえてきた。

「お父さん、お兄ちゃん、外においでよ!」

家のライトが照らす庭で、白いTシャツにフリースを羽織った少女がフリスビーを持って立っている。黒髪のポニーテールが揺れ、白い肌に笑顔が映える。父と兄に向けるその笑顔は、夜の静けさの中でひときわまぶしかった。

「おう、今行く。大輝も来れるか?」

「おと、今、行くよ!」

大輝も笑顔で駆け出していった。

ひとしきり、遊んだ三人は、足を止めて、芝生に座り込んだ。

「あはは。走りながら投げるのは難しいな。しかも玲は速くて、追いつけないよ」

碧は息を切らしながら笑いかけた。玲の感の良さに喜んでいる様子だ。

「えっへん。凄いでしょ!」

玲は胸を張り、得意げに笑った。その表情は、自分が家族の中で速く、上手に投げれるのだという自信に満ちていた。二年前に急に母親を失ったにもかかわらず、気丈にふるまっており、芯の強さが窺えた。

「ああ、玲は凄いよ」

碧は満面の笑みで頷き、玲の頭を軽く撫でた。その優しい仕草に玲の顔がほころんだ。

「ああ、そうだ。二人とも、明日の朝、四時に猟に出るから、留守番を頼んだぞ」

碧は急に真面目な顔になり、二人人に向き直った。

「僕も行って手伝うよ」

「私も手伝う!」

 大輝と玲がほぼ同時に声を上げた。二人の目は、碧に真剣な思いを伝えようとする良い眼をしていた。

「大輝はもう十五歳で、玲は十二歳だもんな。他の村は知らないが、ここらは、若いうちから狩りの勉強をすることは、普通の事だしな・・・。分かった。二人とも、準備は今晩中にするんだぞ。お前たちを連れていくなら、泊りで出てみるか。三泊分の用意をしろよ」

碧は二人の申し出に驚いたが、成長を感じ取り了承した。

   §

翌朝、秋の森の香りが冷えた空気に満ちていた。

大輝と玲は、準備を終えて庭にやってきた。しかし、玲の服装を見て苦笑した。

「玲、これから山道を通るから、登山用の服とカバンに着替えておいで」

玲は自分の姿を見下ろした。ひらひらしたスカートにカジュアルなコート。確かに山に登る恰好ではない。

「ええー かわいいのにな~。うーん、しょうがない、着替えてくる!」

しばらくして、登山用の服に着替え、リュックを背負った玲が戻ってきた。

「今度こそ、出発するぞ」

碧は満足そうに頷き、家を後にしたが、すぐに立ち止まった。

「あ、しまった。昨日、豚の世話を頼んだのにカギを渡し忘れた。」

「大輝、玲と先に行っててくれ、すぐに追いつく」

  §

山道を歩き始めた三人は、青々と茂る木々の間を過ぎ、苔が生えそろう大きな崖のところにさしかかった。いつもの狩場に行くには、この崖を降りないといけない。碧は、頑丈そうな木を選びしっかりとロープを結び付け崖の下にたらした。碧が結び付けたロープを一人ずつ滑って行くことになった、

「まずは、玲から降りて来てくれ。ここの苔がある所は、滑りやすいから気をつけるんだぞ」                       

「う、うん。よいしょ」

玲は慎重に足を進めた。

碧は、心配そうに上を見上げながら慣れた様子でするすると崖を降りていく。大輝がふと周囲を見回しながら疑問を口にした。

「おと、本当にこの道で合っている?今までこんな道を通ったことないよね」

碧は笑いながら答えた。

「いつもの道は、登山練習用だからね。鍛錬の為に険しい道を通っている。今回は、玲がいるから安全な道を選んでいるんだよ」

「あー、確かに。玲にはいつもの道は厳しいもんな」

大輝は納得したように頷いた。

すると玲が不満そうに口を開いた。

「えっ、そうなの? いつも通りの道で良いのに! 私は、そんなにやわじゃないから大丈夫だよ!」

碧は少し困ったように苦笑した。

「いつもは崖とか登っているんだぞ。玲には無理だろ?」

それを聞いた玲は目を丸くして驚いた。

「そりゃあ最初は大変かもしれないけど慣れると思うよ。ねえ、お兄ちゃん」

その時だった。話に夢中になっていた玲が足を滑らせてしまった。

「きゃっ!」

玲の体がバランスを失い、後ろに倒れ込む。背中に鋭い岩が迫ってきた。

「玲!」

大輝の悲鳴にも近い叫びが響き渡る。瞬時に状況を理解した碧は、全力で手を伸ばした。間一髪、玲を受け止めた。碧はその体をしっかりと抱きしめる。

「おい、玲! 大丈夫か? 怪我していないか?」

碧の声は震えていた。

玲は驚いた顔をしていたが、すぐに頷いた。

「う、うん。お父さんが助けてくれたから何ともないよ」

碧は大きく息を吐き、安堵の表情を浮かべた。

「そうか・・・良かった」

玲は碧の腕の中でもぞもぞと動いた。

「それより、お父さん、降ろして」

「あっ…すまない。心配して、降ろすのを忘れていた」

碧は、照れくさそうに玲をそっと降ろした。その仕草に、玲と大輝は思わず笑みを浮かべた。

玲が危険な目にあったので、より安全な道を選んで進んだ。

碧は、口に出さなかったがさっきから胸騒ぎがしていた。森の空気の異変を感じていたのかもしれない。それから何度か休憩を入れて、山を越えた時、日は大分、傾いていた。

「うーん、今日はこれ以上進めそうにないな。ここにテントを張って、朝になったら移動しよう。テントとその周辺に熊避けスプレーをかけるから二人とも手伝ってくれ。

「まあ、熊とかに襲われたくないよね。前にここに来た時、そんなの使ってなかったよね?何で今回は、使うの?」

「ああ、それは、背の高い杉の木が有って獣の届かない高さにハンモックを掛けられたからだよ。今はその木がないんだ」

「なるほど。そういう事か」

「ねえ、早く始めないと熊が来ちゃうよ」

「大輝、玲、熊避けスプレーを使う時は、眼に入らないように周りに声をかけてくれ。玲は、はじめてやるので、注意してやるんだぞ」

「分かったよ」

数十分かけて獣対策を終えた。それから枯れ葉や小枝を集めて、火種を作り石を重ねて作った釜戸で、お湯を沸かした。これでインスタント味噌汁を作った。持ってきた血抜きをした鹿肉を取りだし、鉄のプレートに乗せた。周囲に匂いを広げないように囲いを工夫した。焼けた肉を大輝と玲は、自分のお皿に盛りつけた。

「大輝、今日教えた事、ちゃんと覚えているか?」

「うん。ちゃんと覚えているよ」

「それなら良かった。玲は、覚えているか?」

「え?忘れた」

「ちゃんと、覚えないと勉強にならないぞ」

三人の親子は今日の空腹を満たしながら、猟に必要な知識を学んでいった。

    §

夜もふけたころに来訪者が訪れた。それは、イノシシだ。ただ、夜のイノシシは凶暴であり、やっかいな存在だ。イノシシノの来訪に気づいた三人は声を押し殺し、去るのを待った。

「イノシシさん、なかなか、行かないね。後で食べようと思ってデザート残しておいたのに、テントを出られないな」

「玲、しょうがないだろ。お前が残したデザートがイノシシを呼びよせたんだぞ」

「お前ら、食い意地がはっているな。しかたない、イノシシ様に出て行ってもらうか。ちょっと脅かすからね。これが秘密兵器だ」

そう言って碧は懐から爆竹を取り出し、大輝と玲に声をかけた。

「耳をふさげ!」マッチをこすって、爆竹を中になげた。

「バチバチバチ! ドーン!」

爆竹の音が森に響き渡った。その音を聞いたイノシシは驚き、前足を上げて嘶きながらこちらに突進してきた。

「危ない!」

碧はすぐに猟銃を構え、冷静に狙いを定めた。パンパンという銃声が鳴り響き、その直後、イノシシの「キーキー」という苦しげな鳴き声が聞こえた。そして音が途絶えると、森は再び静寂に包まれた。

硝煙の酸っぱい匂いが鼻をつき、碧はふぅっと深く息を吐いた。

「なんとか最悪の事態は避けられた……」

その時、大輝が碧の肩を叩いた。耳から手を外す指示をした。

「イノシシはもう大丈夫なの?」

「ああ、大丈夫。イノシシは仕留めた」

碧は安心させるように頷いたが、その顔にはわずかな疲労が見えた。

玲がそっとテントの中から顔を出した。

碧はすぐに大輝に指示した。碧は、倒したイノシシを木にぶら下げて、てきぱきとさばいて、あまりにも手際が良く、血がほとんど飛び散らないでことを終えた。生きたイノシシはあっという間に食卓にならぶ肉片と変貌していった。まるで早送りの三分クッキングを見ているようだった。

   §


翌朝、碧と大輝は、ウサギを狩りに出かけた。玲にはあとで、連れて行かなかったことを怒られそうだったが、玲が寝ているテントをそっと抜け出し、二人は目を合わせてテントから出て歩いて行った。

午前中をつかって、ようやくウサギを一匹仕留めた。大輝が追い立て役で、碧が籠を設置して追い込む。昼過ぎに帰ってきた二人に玲は、「お父さんたち、遅い!」むくれた二つの頬を見せた。

「ごめんよ、でも今夜はごちそうだよ。ウサギ一匹仕留めたんだ」

「え! すごい!」

 大輝は、ほっとした表情を浮かべ、木皿を取り出した。そして鹿のスパムとナッツ、目玉焼きとソーセージとキノコスープを玲の皿に盛り付ける。

「お兄ちゃんとお父さん、ご飯作ってくれてありがとう」

 三人は小さな焚き火を囲み、それぞれの皿に盛られた料理を見つめた。

 玲がスパムを一口食べると、目を輝かせた。

「うーん、美味しい!」

「アッハッハッハ。それは良かった。そんなに美味しそうに食べてくれると、作った甲斐があったよ」碧が笑い、大輝も少し嬉しそうに微笑む。玲の無邪気な笑顔は、彼らの疲れを癒すようだった。

次の夜もテントで過ごした。

 寝る時に「お父さん、明日はお兄ちゃんと玲でウサギを狩りに行くから、ゆっくり寝てね」と玲がお祈りでもするように手を合わせて話した。

「二人で大丈夫か?」

「うん」と真剣に答える。

「それなら、ゆっくりと寝かせてもらうかな」

碧がそう話した声を聞いて安心したのか、玲は寝息を立てていた。

「寝顔が母さんそっくりだ」と胸に手を組み、碧も眠りに落ちて行った。

 §

翌朝、不思議なことが起きた。

山から下りてくる二人、玲は得意そうな顔していた。一方、大輝はきつねにつままれたような顔で呆然としていた。

「お父さん、玲ね、ウサギ三匹もとったんだよ。凄いでしょ。ごちそうでしょ」

「なにっ一時間で三匹だと! れ、玲どうやって捕まえたんだ。なあ、おい、大輝、教えてくれ」

大輝は首を振るばかりで答えない・・・。

どうやら、玲には空間を立体的にとらえる能力があるようだ。「鳥の目」、山々を上空の鳥が見るように把握できる。小動物がどのように進むかを待ち構えて、いとも簡単に捕獲する。これにはいくら俊敏性のある大輝もかなわない。「一つの能力だな・・・」

思わぬ猟の収穫で腹を満たし、たくさんの経験を得て家へ戻ってきた。

「お前たち、色々な経験をしてくれよ」と心の中で碧はつぶやいた。

   §

秋の深さが増して来たある日、

陽が傾きかけた山の麓。早めに猟を切り上げて家に帰ってきた碧と大輝、父親の碧を小屋に残し、母屋の中に入ってきた。

小さな小屋の中は、今日も木の匂いとほんのり漂う獣の匂いが混じっていた。

 囲炉裏の炭は赤く、パチパチと音を立てながら燃えている。いつもの夕暮れ、でも今日は少しだけ違った。

 大輝が戸を開けて入ると、鼻をくすぐる香ばしい匂いがした。

「・・・うまそうな匂い」

 小さな背中がくるりと振り返る。玲だった。大きすぎるエプロンの腰紐を少し斜めに結び、眉に小さくシワを寄せながら、まな板の前で奮闘していた。

 まな板にはすでにさばかれたウサギの肉がきれいに並び、鍋からは甘辛い味噌の匂いが漂っていた。

「あ、お兄ちゃん。もう帰ってたの?」

「玲も学校から帰っていたんだ」

玲はうなずいていて見せた。

「これ、全部、玲が?」

「うん、ちょっと練習してみたの。お母さんが昔、よく作ってたやつ……あんまり見てなかったけど、たぶん、こんな感じ!」

自慢げにふふんと笑った玲の頬に、小さな味噌のしずくがついていた。

 大輝がそっと拭ってやると、「やだ、もう!」と恥ずかしそうに顔をそむける。

エプロンから出ている白い腕、母さん譲りの白い肌。エプロンは無地のジーズン調、

少女ではあるが、とても良く似合って、大人の女性を感じさせる。

「でも、すごいな・・・おいしそう。味はどうかな」大輝は目を輝かせた。

「たぶん! ちょっとだけ、味見してくれる?」

 玲は小皿に一口分の肉と野菜をよそい、木の匙を添えて差し出してきた。

 まるで、ウサギがぴょんぴょん跳ねるようなしぐさ、きっと、兄の感想が気になって仕方ないのだ。

 大輝はそっと受け取って、匙を口に運ぶ。

 肉は柔らかく煮えていて、味噌の甘味と山菜の苦みがいい具合に混ざっていた。

「・・・うまいよ。ちゃんと、母ちゃんの味に似てる」

「ほんと?ほんとに?」

「うん、びっくりした。マジでうまい」

「やったー」

 玲は、ぱっと顔を輝かせると、思わず大輝の手をぎゅっと握りしめた。

「えへへ、お兄ちゃんのために作ったんだもん。おいしくなきゃ困っちゃうよね!」

くるんとした髪の毛の下で、玲は無邪気に笑った。

まだ幼さの残るその顔。けれど、ふと大人びた表情を見せたのは、料理の湯気がふわりと立ち上り、その姿を包み込んだせいだけではなかった。

「・・・ありがとな、玲」

 ぼそりと呟いた大輝に、玲は小さく首をかしげて、もう一度、笑った。

「お兄ちゃんは、もっと食べて強くならなきゃ。だって・・・いちばん近くにいてくれる人なんだから」

 その言葉に、大輝は返事をできなかった。

だた、小さな背中が鍋の前で小気味良く動いているのを見ていた。

大輝は懐かしさにつつまれていた。。


     第二章(初遭遇)

三人で狩りの練習を始めてから、すでに十回を数えた。大輝も玲も少しずつできることが増え、それぞれたくましさを身につけてきた。

そして迎えた十一回目の朝、山頂に向かう霧の中で、碧はふと眉をひそめた。かすかに漂う獣の匂い…。それは、彼にしか感じ取れないほどの微かなものだった。傍らにいる猟豚のビスも異変に気付いているかのように同じところをくるくると回り、あごを上下にゆすり、玲の足首を突き上げていた。「ビス!しつこい」玲がうんざりしながら言った。

「また変な胸騒ぎがする・・・」

その言葉を聞いた玲が立ち止まり、辺りをキョロキョロと見回し始めた。そして、突如、気になる方に駆けていった。

「玲! 何をしているんだ!」と呼びかける間もなく、玲はさらにスピードを上げて駆けていく。

その直後、甲高い悲鳴が響き渡った。

「どうした! 玲、大丈夫か!」

駆け寄ると、玲の顔は蒼白になり、肩が小刻みに震えている。

「玲、何があったんだ!」

「大丈夫? お父さん、玲は大丈夫なの?」

「返事をして!」

呼びかけが重なる中、玲はハッと我に返り、震える手をゆっくりと上げた。そして、前方を指差す。

その腕は、まるで何か恐ろしいものを押し返そうとしているかのように震えていた。

玲が指差す方向を目で追う。そこには、何かが地面に転がっている。最初はただの倒木かと思ったが、近づくにつれてその輪郭がはっきりしてきた。

それは、首だった。

しかも一つではない。

視線をさらに移すと、道の両側に点々と散らばる同じようなものが見える。

死後硬直がまだ残る、切断面が赤黒く変色したイノシシの首。

数えていくうちに、十、二十・・・その先はもう数えるのをやめた。

足元に広がる液体は、草の葉にぬるりまとわりつくようにそこらに散らばっていた。

腐った肉を握りつぶしたような破片をみて、玲は反射的に体を硬直させた。

鼻腔を突くのは、金属を擦るような鋭い匂い・・・、いや、それは血の匂いだ。

玲は両手で唇を押さえ、後ずさる。目の前の惨状に言葉を失うほかない。

玲は、唇を震わせながら、ただ一点を見つめていた。何かを考えようとするたびに、頭の中に“あれ”の映像がよぎる。 思考が寸断され、声も出せない。

大輝もまた、息を呑んだまま動けないでいた。

父の声が届くまで、現実感が戻ってこなかった。その間、碧は死体の検視をしていた。イノシシの中に三年前に自分の村を襲ったものもいた。首が半分に切られていた。頬に付いた傷が何よりの証拠だった。(俺が付けたライフルの痕)

何故か動物の死体はどれも首から上のものばかりで、ねじ切られたような跡があった。

「おかしいな。野生の動物は危険を察知したときに獲物の一部を残す事は多々あるが、こんなに沢山残っているのは見たこともも聞いたこともない。しかも、まるで遊んでいるように並べてある。凶暴なイノシシをこれだけの数を殺すなんて、人の仕業であろうか?人でないとすると・・・。でも、そんなに強い生物なんてここらにはいない。血の跡が続いている。つまり犯人は獲物を引きずって巣に持ち帰ろうとしたのかもしれない。跡を追ってみよう。」

三人は、獣の首の間を縫うように歩いた。地面に深く刻まれた線…いや、これは蹄跡のようだ。

それは人間の足では到底つけられない、巨大な凹み。しかも、すべて同じ方向へ向かっている。ビスは怯えるわけでもなく、ただ、それに向かって綱をひっぱり、推し進めていた。

しばらく進むと、また、開けた場所に着いた。そこには更に動物の生首が落ちていた。そして、おびただしい数の頭や頭らしい物が、視界に飛び込んできた。その数は捕食の範疇を超えており、冷たい空気と共に異様な光景が目や肌に突き刺さった。その死体の群の奥に立っていたのは、巨木と間違えるほどの大きさの物体であった。木と違うのは肩と思しきところが上下に小刻みに揺れていた。目を凝らすと、それはまるで地獄の底から這い出てきたような恐ろしい姿の化け物だった。ただ、それは一瞬の残像であり、すぐに消えた。

「おと、そこに幽霊がいなかった?白いもやがあったよね」

大輝が、それを認めたことに驚いた。碧は、凍り付いていた。ただ、そこに立ち尽くし、口は半開きになり、ヨダレが垂れそうになるほどであった。

       §

碧は、一瞬を認め、一瞬で動いた。

刹那、そのものを追うようにアキレス腱に力を込めた。一方、大輝や玲を守らないといけない、今までの猟師の感が危険を知らせてきた。踵を返し、玲を小脇に抱え、大輝の手を強く引き元来た道を引き返していた。心臓は高鳴り、口は「やばい、やばい」と声にならないうめきとともに歯がカチカチと鳴っていた。大輝は好奇心の方が勝り掴まる手を幾分引っ張り、後ろをふりかえり、ふりかえり進んでいた。

(山を下りる速度が遅く、もどかしい)

「大輝、今は我慢だ。かなり、やばいことになっている」

慣れた道を小走りに下っていくうちに気配が薄れていった。

「もう、大丈夫だ」

いくら危険な熊でも人間相手に、あちらも、驚いている。追うことはない。危険地域は脱したのだ。“あれ“は何だったんだろ、網膜の残像がフラッシュバックのように頭をめぐる。まるでパラパラ漫画の一部、スローモーションのように感じた。体長はヤマボウシほどで、4mくらい。体躯は杉の幹の太さ。熊でもない。大男に見えなくもない。あー、頭の中がパニックだ。夢を見ているようだ。「畜生! 呼吸がうまく出来ない」

(……バレる。落ち着け、震えるな、俺の足)

大きな木にもたれ背面をガードして、目をつぶり深呼吸をしている。ふー、はー、ふーは。静寂が訪れる。

「村のみんなに伝えなければ……」

「でも、何をどう伝えればよいか?」

目の前が、一瞬で暗くなった。ザッシャッー。そこには巨木のような物が舞い降りてきた。あまりにも速く傍らに居たので、既にそこに在った木のように感じ、その木肌に触れた。

「あっ、熱い」

ジュッとした音とともに手をはなす。鼻腔に刺激臭がついてくる。三人とも空を見上げた。上空にはトンビが飛んでいる。その物体が熱を持ち、湯気を出していることに気が付いた。

    §

牛のような顔だが、鼻も口も奇妙に歪んでおり、眼球は人間のそれよりもはるかに大きく、濁った白の中で赤黒い瞳がぎょろりと輝き、白骨のような質感の角が二本、頭頂部からねじれるように生えていた。その角には、血が滴っていて、まるで「喰った者たちの怨念」が染み出しているように見えた。その体躯はまるで鉄壁の鎧のようなゴツゴツした筋肉に覆われ、腕や足は樹齢千年の屋久杉を思わせるほどに肥大化していた。鋭い牙と爪には乾いた血がこびりつき、周囲には獣達の最後の叫びがまだ漂っているような錯覚を覚えた。

碧の背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。これは、ただの野生動物ではない。理屈では説明できない恐怖が彼を襲った。

その瞬間、視界から化け物の頭が消えた。碧は子供たちの手をつかんだまま、身をかがめた。

それが最初の一撃を間一髪にかわせた要因となった。立ち上がる反動で谷にめがけて、降りると言うより落ちて行った。三人ともかすり傷で無事だった。碧は近くの木につかまり山を登った。

「大輝、玲を頼む。俺は、あいつを追う」

化け物は巨木の陰に立ち尽くしていた。目は合わせられない。

「頭はウシ、体は人間、いや、鬼だ。あいつはウシオニだ!」

急いで猟銃に弾を込め、震える手で発射した。その全ての銃弾が化け物に命中したにもかかわらず、悲鳴どころかわずかな反応すら見せなかった。銃弾が当たった箇所からは血が出ているが、肉や骨に傷がついている様子すらなかった。牛鬼の身体から垂れて、地面に植わっているクワズイモの葉に落ちている。血には粘性があり、大きな葉に溜まっているようにも見える。血の強烈な臭い、これまで狩ってきたどの動物とも異なり、不快で、どこか腐敗を連想させるような嫌悪感を覚えるものだった。牛鬼はじっと立ち尽くす。感情をどこかに置いてきたようだ。

その牛鬼の姿を見た瞬間、碧の脳裏には子供の頃に重から聞かされた「牛鬼」の話が蘇った。まるでそれが現実となって目の前に現れたように感じた。牛鬼がゆっくりとこちらに振り向いた瞬間、口から血がべっとりと零れ落ち、その異常な光景が恐怖を一層に掻き立てた。

「嘘だろ・・・」

碧は震える声でつぶやいた。その言葉が終わるや否や、牛鬼が突如「ブオーッ」と雄叫びを上げ、長い腕を大きく振り上げて横なぎに振り下ろしてきた。

その動きの巨大さと速さに、碧は本能的に地面に転がり込み、ギリギリのところでその一撃をかわした。風圧だけで地面の枯れ葉が舞い上がり、胸が締め付けられるような圧迫感に襲われた。

「大振りじゃなかったら危なかった・・・」

大輝がいてもたってもいられずに、こちらへやってきた。

「まずい、俺はともかく、子供たちを守らないと」

玲と大輝を引き寄せて抱え上げ、急いで近くの木の陰に隠れた。しかし、牛鬼の白い眼は真っ直ぐにこちらを見据えている。その眼光には、ただの動物の本能とは違う、狡猾な知性の片鱗が垣間見えた。

「ヒッ・・・」

玲が小さく悲鳴を上げた。

「お父さん、どうしよう・・・」

大輝の声も震えていた。

「落ち着け! なんとかする・・・」

そう言いながらも、碧自身の心臓は激しく脈打ち、冷や汗が止まらなかった。

牛鬼が再び咆哮を上げる。碧は間隔の狭い木々の間を選び、その間を縫うように走り抜けた。牛鬼の巨体では通り抜けられないだろう。時間を稼いで、とにかく遠くに逃げる。しかし、その期待も脆くも崩された。牛鬼は大振りの一撃で、太くて丈夫な木をいとも簡単にへし折ってしまった。冷や汗が背中を流れた。

「クソ・・・どうする・・・」

碧は、三人を守る為に猟豚のビスを解放し、牛鬼にぶつける決断をした。ビスは勇猛果敢に牛鬼に突進し、激しい咆哮を上げながら戦いを挑んだ。その隙に碧は玲と大輝を抱えて全力で逃げ出した。だが、わずか数秒後、背後からビスの苦しげな鳴き声が響き渡り、振り返ると牛鬼がビスの頭をゆっくりとねじ切っていた。ビスの首がねじ切られた瞬間、牛鬼はその体を握り潰した。内臓が飛び散り、血がベチャッと音を立てて地面に叩きつけられた。その一部が碧の顔にも跳ねた。

「グシャッ」と残りを木に叩きつけた。

「ビス・・・すまない・・・」

碧は汗と鼻水を垂らしながらも、必死に走り続けていた。玲と大輝の命を守るため、歯を食いしばり、心臓が爆発しそうな鼓動を無理やり押さえ込むように。

しかし、目の前に広がったのは木々が途切れた開いたエリアだった。遮るもののない場所に出てしまったことに、全身の毛が逆立つような危機感を覚える。

「ここを抜けるしかない・・・!」

自分に言い聞かせるように呟き、全力で駆け抜けようと足に力を込めた。その瞬間・・・。

背後から何かが風を切る音とともに横切る気配を感じた。

「・・・っ!」

反射的に振り返る間もなく、鋭い痛みが背中を貫いた。息が詰まり、視界が一瞬暗転する。碧はその場に崩れ落ちるように倒れた。

玲と大輝の叫び声が耳に届くが、その声もすぐにかき消される。倒れ込んだ衝撃で足元の地面が崩れ、三人は揃って沢へと転げ落ちていった。

ごつごつした岩肌に、体を打ちつけられ、身動きが取れないまま流れに巻き込まれる。碧は必死に手を伸ばして玲と大輝を掴もうとするが、力が入らない。

「玲、大輝・・・!」

しかし、叫ぼうとしたその声も、頭を強打した衝撃とともに喉の奥で途切れた。最後に見えたのは、玲の小さな手が必死にこちらへ向けられている光景だった。

そして、碧の意識は闇の中へと落ちていった・・・。

 §

川のせせらぎの音が意識の奥底に響き、碧は正気を取り戻した。冷たい水が顔に垂れてきて、碧は目を開ける。玲が木の葉で水を汲み、顔に垂らしてくれていたのだ。

「お父さん、大丈夫?」

玲の声が震えているのを感じ、碧は自分の体をゆっくりと起こした。背中に鈍い痛みが走るが、なんとか動けそうだ。

「あの拳・・・牛鬼の拳が迫ってきた瞬間、身を屈ませたから、かすり傷で済んだのか・・・」

碧は状況を思い返しながら、荒い息を整える。もしあの瞬間に判断を誤っていたら、三人の命はなかっただろう。

「玲、大輝、行こう・・・村の入口まで・・・」

碧は二人を促し、傷の痛みに耐えながら足を進めた。牛鬼の気配を感じながらも、なんとか三人は村の入口にたどり着く。

「ここまでくれば大丈夫・・・」

そう呟いた途端、碧は疲労と痛みに耐えきれず、その場に倒れ込んでしまった。

次に目を覚ましたとき、碧は見覚えのある家の天井を見上げていた。自分の家だ。

「・・・大輝が俺を担いでくれたのか。良かった・・・」

碧は安堵するとともに、玲と大輝が無事であることを確認した。牛鬼の気配は今のところ感じられない。碧はなんとか応急処置を行い、玲と大輝を連れて猟師たちの詰め所へ向かうことを決意した。猟師たちなら力を貸してくれるはずだ。

しかし、詰め所に着いた瞬間、牛鬼が木陰から突然飛び出してきた。巨大な体が唸りを上げ、詰め所に襲いかかる。その一撃で建物が大きく揺れ、壁が崩れ始めた。

「なんて力だ・・・!」

碧は咄嗟に建物を盾として利用し、牛鬼に近づこうとする。しかし、その思いも空しく、詰め所の人々が恐怖に駆られて次々と外へ飛び出してきてしまった。

「出てくるな! 隠れていろ!」

碧は必死に叫ぶが、その声は混乱の中で誰にも届かない。

そして――後ろから聞こえてきたのは、甲高い悲鳴と肉が潰れる音。牛鬼が人々を襲っているのだ。

その音が碧の心に重くのしかかる。自分が助けられなかった命の重さが肩を押しつぶすように感じられる。

「玲、大輝、ついてこい!」

碧は二人の手を引き、意を決して山を下り始めた。背中の痛みを振り払いながら、ただ彼らの命を守ることだけを考え、走り続ける。

牛鬼の咆哮が後ろから響き渡るが、碧は振り返らなかった。

「絶対に守る・・・玲と大輝を・・・絶対に・・・!」

その誓いだけが、彼の疲れ切った足を前へと進める力となっていた。


第三章【忘却の記憶】

三人は無事に病院にたどり着いた。全身を血に染めた碧たちに看護士は、驚愕し口々に短い悲鳴をあげた。碧は背中を損傷しており、緊急手術が行われた。

静まり返った待合室の廊下、足元の冷たく固いタイルを二人は静かに見つめる。タイルの端が次のタイルの端にかかり、また次のタイルが入口のドアまで続くのをただ見つめていた。もう何十分そうしているのだろう。二人はかつての不安とダブらせて、過去を思い出していた。

玲は、小さな箱を握りしめていた。

 母の形見の木彫り細工。今では何の動物かも分からないほど擦れてしまったが、それでも母の手のぬくもりが宿っている気がした。

「お兄ちゃん・・・覚えている?」玲がポツリと話し始めた。

大輝の焦点が合わない。玲は目が合うのを待たずに話し続ける。

「母ちゃんが・・・木から落ちた日」

 夕暮れの病室。玲の声は囁くようにかすれていた。

かすれ出た声が十分に廊下に染みこむのを待って、焦点の合わぬまま大輝が話し始めた。

「俺・・・ずっと、木の実を取りに行っている。玲と母ちゃんを、山道で待っていたんだよ」

 大輝の声にも力がなかった。

 あの日、秋の澄んだ空気のなか、母は笑っていた。

「お弁当を作りすぎちゃったわ」照れ笑いをして、敷物の上におにぎりを並べていた。

 大輝が木の枝を重ねて何やら昆虫に見立て、形作ろうとしていた。

 その直後、枝が折れる破裂音がした。

 刹那、音もなく、母の体が落ちてきた。

 それが、「始まり」だった。偶然にもその高い木から落ちた母は助かった。無傷と言っても

良い感じであった。でも、何かが、確かに変わっていた。

 次の日には、同じ話を何度も繰り返すようになり、一週間も経たないうちに、玲の名前が出てこなくなった。

「玲ちゃん、って誰だっけ?」笑いながら、何度もそう言われた。

 そしてある日、ふと鏡の前で呟いた。

「・・・この人、誰?」

 その時の母の顔を、玲は忘れられなかった。鏡に映る自分を、他人のように見つめる。

 母の顔は、まるで魂が抜けたように無表情だった。

 山で出会った「何か」、大輝と玲は言葉にこそ出さなかったが、確信していた。

 母は、牛鬼に襲われたのだ。いつの間に大きな木に登ったのではなく、吹き飛ばされたて飛んできたのだろう、と。

 記憶は、少しずつ、滑り落ちていった。料理もできなくなり、家の中で迷うよう

になった。最後の数日は、自分が生きていることさえ、分からなくなっていた。

それでも、母は時折、空を見上げていた。その横顔は、どこか懐かしく、美しかった。

「母ちゃん・・・忘れたくないのに、俺・・・忘れそうになるんだよ」

 大輝は、うなるように言った。

「ちゃんと笑っていた顔とか、怒った声とか、もう・・・耳の奥で遠くてさ・・・」

 玲は、そっと兄の手を握った。その手は、いつもより少しだけ小さく見えた。

「ときどき夢を見るの。お母さんが、山の中で、泣いているの。顔がなくて・・・名前を呼んでも振り向いてくれないの」玲の瞳が、ゆっくり濡れていった。

「私のこと、もう・・・最後は何も分からなかったのに。それでも・・・最後の最後に、笑っていた。多分、私を見てじゃなかったけど・・・それでも・・・あの笑顔、信じている・・・」

 窓の外、風に舞う落ち葉が一枚、病室の中に迷い込んだ。

 兄妹はその葉に、母の面影を重ねて、目を閉じた。父の身を案じながら、取り残される怖さと戦いながら・・・。


  §

碧は、全治三か月の怪我をおった。あばらとその中にある臓器がすべて痛んだ。通常の三十五歳の男性なら出血でおそらくは、死んでいた。碧の身のこなしと動物的な勘が体を守った。碧自身不思議な感覚に覆われていた、この病院での三か月だった。薄い膜に覆われて、自分の声が外には出ず、ただ、傷の癒えるのを待つ。思考も停止し、何も考えられなかった。

入院中、碧は警察に牛鬼の存在を話した。警察は、最初は相手にしてくれなかったが、大輝の証言もあり、ついには、捜索隊を編成するまでになった。それでも、熊の捜索の名目にとどまった。村人は五人も亡くなった。重傷者は碧を入れて三人を数えた。ただ、残りの二人は寝ていた所を襲われて、牛鬼を見ていなかった。口々に熊の仕業だと言っている。また、そのうちの一人が不幸にも碧が熊をおびき寄せたと、ほのめかしている。警察は取り合わない。だが、村人はその事実で十分であった。碧が五人を殺し、二人を重症へ導いたと考えた。

この目は、兄妹にも向けられた。人は、想像を超えるものを信じない。信じないために何かの因を求めて、落ち着く。それは、水が低いところに自然に流れるように、ゆっくりと、じわじわと。真実とは真逆に向かって進む。

退院当日の朝、碧は病院の窓から外を見ながら、久々に玲と大輝とで家へ帰れる喜びを噛みしめていた。

「いやー我ながらどうかしていたよ。弾があたったのに、ぴんぴんとしている獣、こんなのって居るわけないよな。あれは、タダの幻覚か夢を見ていただけだったんだ」

村への移動中、タクシー運転手に言い訳をするように話していた。運転手は初めて行く、「霞里村(きりさとむら)」のことばかりを考えて、碧の話は上の空だった。あぜ道、石が跳ねて、車に傷でもついたらどうしようかと考えを巡らせていた。どこで降りてもらおうかとそわそわしていた。碧は言葉とは裏腹に、あの日の行動を地図に落としていた。俺が真っ直ぐ逃げたのに対して、巨木を周りこんで来やがった。驚くことに”やつ”は知能をもっていた。そして再び恐怖と、それに向かう闘志に焚きつけるのであった。

ただ一向にあたまはボーっとして、薄い透明な膜で覆われていた。

やがてタクシーは村に到着した。碧は礼を述べてタクシーを降り、山道を見上げた。

「おと、お帰り!」

その声に碧は笑顔になり、大きく両手を広げて二人を抱きしめた。

「ああ、大輝、玲、ただいま!」しかし二人の小さな声が聞こえた。

「く、苦しいよ・・・」

「お、おと、キツい・・・」

碧は、慌てて腕を緩めた。

「あっ、すまん。感極まってしまって、力加減を間違えてしまった」

碧は笑いながらリュックに手を入れ、用意していたプレゼントを取り出した。

「そうだ、二人に俺の代わりに、豚の世話をしてくれたことへのご褒美があるんだった」

碧はまず大輝にゲーム機を差し出した。

「大輝には、これだ。欲しがっていたスーパーファミコンだよ」

大輝は目を輝かせて叫んだ。

「こ、これは! 夢にまで見たスーパーファミコンだ! ずっと欲しかったんだ」

次に玲が期待の目を向けてきた。

「私のご褒美は?」

「はいはい、待っていろよ。あっ、この袋だ」

碧は笑いながら袋から服を取り出した。

「玲には、これだ。玲が好きな白。白いワンピースだぞ」

玲は目を輝かせながら服を抱きしめた。

「わー、すごく、可愛い! ありがとう!」

「お礼に今日は、私が料理を作るね!」

玲の顔を覗き込んだ碧であった。

数か月、見ない間に大人っぽくなっていた。

「なんだか、調子がくるうな」

大輝は、まだ、ゲーム機を抱きしめて喜んでいた。碧はその子供らしい大輝の顔を見て安堵した。

    §

碧は家へ戻る前に、村長に会うため、荷物を大輝に預けて村の奥へと足を踏み入れた。

この村には五十世帯ほどが暮らしている。村の中心から少し離れた丘の上に、一軒の家が静かに佇んでいる。大きく枝を広げた楠木が、その家を守るように立っていた。村長の住まいだ。碧はそこへ向かい、ゆっくりと扉を押し開けた。

村長の姿を目にすると、碧は丁寧に頭を下げ、留守中に迷惑をかけたことを詫びた。長年の付き合いがある村長は、ただの熊騒ぎではなく、そこに碧自身の事情が絡んでいることを察していた。碧が獣を誘い込むようなことをするはずがない――そう考えていたのだろう。しかし、そんな話は口にせず、村長はただ穏やかに世間話を交わした。近々舗装される予定の道について、厳しくなる暑さの対策、気まぐれな天候、そして自身の持病のこと。話題は平凡なものばかりだったが、その間、村長の鋭い目は一瞬たりとも碧から離れることはなかった。

途中、お茶菓子を持って村長の息子が現れた。村長に似た精悍な顔立ちで、碧にも挨拶をしてからすぐに部屋を出ていった。遅くにできた子供のようで、村長はその息子を溺愛しているらしい。東京で何かの職業に就いているそうで、「心配で仕方ないんだ」と村長はぽつりと語った。

碧が持参した木の鉄砲のおもちゃを、息子は握りしめて外へ出て行った。誰にあげるでもないそのおもちゃを、大人の彼が嬉しそうに持ち出す姿が印象に残った。その後ろ姿の首筋には、星のような形をした火傷の跡があった。

「あれは、小さい頃にやかんを落として負った火傷でね」と村長が話し始めた。

「代われるものなら、代わってやりたかった・・・」

村長の声は穏やかだったが、その言葉の奥には深い後悔と愛情が滲んでいた。やがて、碧は本題を切り出した。

舗装される道についてだった。簡易的なモルタルであれば、すぐに整地でき、車を通すことも可能だ。碧は、それを急いで進めるよう願い出た。

急がせている理由は語っていない。万が一、村が襲われたとき、村人が迅速に逃げられることや、救急車両がすぐに駆けつけられるように・・・碧は、それを願っていた。

村長は静かに頷いた。

「碧さんが言うことには、必ず理由があるのだろう。詳しくは聞かない。ただ、できる限り実行する」

「それが必要なことなのだろう」

そう言いながら、何かをメモに書きつけ、近くにいた者へ手渡した。その間も、碧をじっと見つめ、目を離そうとはしなかった。この老人には、何かを感じ取る力があるのかもしれない。

碧は、少し安心した表情を浮かべ、村長の家を後にした。

村の道を歩きながら、心の中で静かに誓う。

「これで、戦える。村を、子供たちを守るんだ」

   §

あくる日、碧は狩りで得た獲物を売るため、再び村長のいる隣村を訪れた。

「今日も村長の家に行くの?」と大輝が質問をした。

「いや、今日は村長のところでなく、鎌田店に行くんだよ。色々たまったものを売るんだよ。」

大きくしっかりと作られた門構えの家を訪ねた。中に入ると暖かな床が足元を温めてくれた。

店主の鎌田はいつもより饒舌だった。彼は所謂、何でも屋だ。村で雑貨を売ったり、猟師から毛皮、肉を購入して、さばくこともある。本業は、他にある。鍛冶屋だ。代々、狩りや戦の武器や戦の鎧を作る稼業だ。十八代目なのだが得意な才がある。生き物の骨を作ったアートだ。昨年には、東京への骨董展の一つのコーナーに彼の作品が出展されたしい。そんな彼は、先月の村の襲撃について、話を聞きたくてたまらない様子で碧に話しかけてきた。

鎌田は、作務衣を着ており、口とあごに白髪まじりのひげを蓄え、白髪で頭の後ろで、武士のように結びを入れている。顔は白く、目じりには皺があり、見た目より高い声をしている。

「見たこともないほど巨大で、凶暴で、聞いたことすらない獣に襲われたんだってね」

鎌田は身振りを交えながら語った。

碧は無言で聞いていたが、彼は続ける。

「碧さんって猟師歴長いよな? なのに見たことも聞いたこともない獣って・・・見間違いとかじゃなくてですか?」

慎重に答えが返る。

「・・・自分でも信じられない話なんだが、あれは確かに熊ではない獣だった」

鼻を鳴らし、半ば笑いながら言葉が返る。

「何言っているんだ? 俺はこの村に五十年住んでいるが、熊以外の獣なんて、おとぎ話の中だけの存在だぜ。そんなのいるわけない。やっぱり見間違いじゃないのか?」

碧はその言葉には答えず、話を切り替えた。

「まあ、獣の話は一旦置いといて・・・売り物を出すよ」

車の後部から毛皮、イノシシとウサギの燻製肉を取り出す。そして、意を決して、牛鬼の血が染み付いたクワズイモの葉を差し出した。

鎌田はそれをじっと見つめ、ぽつりと漏らした。

「・・・これは今まで見た、どんな獣の血とも違うな。お前さんが言っていた獣って、これのことか。本当にいたんだな」

長年狩猟をしてきた経験から、ただ事ではないことを察したのだろう。

「お前、もしかして、自分で何とかしようと思っているのか? 子供がいるだろ? 警察や自衛隊に任せればいいんだよ。早く逃げたほうがいい」

村人の多くが碧を疎んじていることは、彼も分かっていた。表立って味方をするわけにはいかない。だから声を落として忠告する。だが、店の奥にいた者が二人のやりとりを見て、ぎょっとした顔をしている。

慌てて商売の話に戻した。

「いかん、いかん、商売だったな」

電卓を叩きながら言う。

「イノシシの毛皮と肉、ニホンジカの肉、それに野ウサギの肉か。こんなもんだろ?」

碧は静かに頷いた。そして帰り際、もう一度、頼んだ。

「匂いを嗅いでみてくれ」

「匂い?」

眉をひそめながらも、言われるままに鼻を近づける。

次の瞬間、彼の表情が変わった。

目を大きく開き、口を開けたまま、十秒ほど硬直していた。そして、しばらくして、やっと言葉を絞り出す。

「…この匂い…」

遠くを見るような目をして、何かを感じ取っていた。

「そうだ・・・子供のころに嗅いだことがある。奥さんのおじいさんは軍人だったな」

碧は息をのんだ。

低く言い放つ。

「そこに行って、聞いてみるといい」

彼の言葉を胸に刻みながら、碧は店を後にし、大輝と玲に声を掛けた。

「死んだひいじいちゃんの家に行くぞ。」

裏の小屋では、大輝が鹿の角や獣の骨をパズルのように組み立てていた。

鎌田に教わった技術を活かし、骨の組み立てや接合を習得していた大輝は、満足そうに形作った小動物の骨格を父親に見せようと振り向いた。

「ひいじいちゃんの家?」

  §


碧達は、早速、妻の祖父の家に向かって歩き始めた。道中は森の中を抜け、時折、小川が流れる景色が広がっていた。木漏れ日が差し込む中、足元に広がる落ち葉がカサカサと音を立てた。

「おと、そろそろ休憩しないか?」

大輝がそう言い始めたのは、日が暮れ始めた頃だった。

「もうか?タイミング早くない?」

玲は少し歩みを止めると、碧の服の裾を引っ張りながら口を開いた。

「お父さん、私もう疲れたよ。休もうよ」

碧は少し考え込むような表情を見せたが、すぐに頷いた。

「分かったよ。じゃあ、ここで一休みするか」

碧は、そう言うとカバンを地面に降ろし、木陰に腰を下ろした。そこからカバンを開けて水筒を取り出し、中に入っている水を一口飲むとため息を思わずついた。

「ふうー、やっぱり川の水は、美味しいな」

大輝が興味深そうに碧に尋ねる。

「なあ、おと。何で川の水を飲めるんだ?」

「ああ、それはね。単純に濾過しているだけだよ。不純物を取り除いて、汚い水を飲めるようにしているんだよ」

「そうなのか?じゃああの汚水も濾過して綺麗な水になっていたのか?」

碧はその問いに頷き、さらに説明を続けた。

「まあ、濾過といっても植物や動物が消化できないような物を取り除くだけだけどね」

その説明を聞きながら、玲が木に寄りかかりながら呟いた。

「もう私、歩けない・・・」

碧は、少し困ったように玲を見たが、すぐに決断した。

「分かったよ。じゃあ、俺がおんぶするから、大輝は玲の荷物を運んでくれないか?」

「うん、いいよ」

玲をおんぶして再び歩き始めた碧たちは、夕暮れの中を黙々と進んだ。足元には苔が生えた岩や倒木が点在し、山道は険しさを増していった。

「ところで、おとのおじいちゃん、つまり、ひいじいちゃんは、死んだんだよね?」

「これ! 亡くなったと言いなさい。そうだ。今はひいおばあちゃんしかいないよ」。

「へえ、そうなんだ。おとも昨日、言ってたよ。『死んだひいじいちゃんのところに行くぞ』って」

「そうか、うん、確かに死んだって言ったな。悪い悪い」

「ところで、ひいおばあちゃんには、重さんって言うんだぞ。おばあちゃんって言ったら怒られるぞ。年よりくさくて、嫌なんだってさ」

一時間ほど歩くと、曾祖母の家が見えてきた。古びた木造の一軒家は、周囲を囲む大木と一体化しているように見えた。玄関の近くには花壇があり、手入れの行き届いた花々が揺れている。

碧が家のドアを叩くと、家の中から一人の女性が現れた。その女性は碧によく似た顔立ちをしていたが、碧の胸ほどの身長しかなく腰が曲がっていて皺だらけの姿をしていた。

「碧、久しぶりだな。大輝も、玲も大きくなって」

女性は優しい笑顔を浮かべながら大輝と玲に視線を向けた。

「ああ、久しぶり」

曾祖母は、微笑みながら二人に握手を求め、優しく手を取った。

「そうか。遠いところ疲れただろう、入って温まるとよいよ」

大輝も挨拶をした。「おばあちゃ、あっ、重さん、こんにちは」

ひ孫への挨拶を終えると、重は、ふと真剣な表情になり尋ねた。

「ところで、何でここに来たんだ?」

碧は、少し困ったように視線を彷徨わせたが、真剣に話し始めた。

「えっと、信じられないと思うけど・・・山で大輝と玲と猟をしていた時に牛鬼に襲われてしまって、大怪我をしてしまって・・・。三か月間、入院していたんだ」

重は、碧の話をじっと聞きながら頷いた。

「なるほど。お前は嘘を言っているのではなさそうじゃのう。本当に牛鬼に襲われたからここに来たんだな」

碧は真剣に頷いた。

「ふむふむ。まあ、そこに座んな。疲れただろう」

家の中は、木の温もりが感じられる落ち着いた雰囲気だった。玄関で玲と大輝が靴を脱いでいる間、曾祖母は奥の部屋に入っていき、やがて戻って来た。

「私は今から夕食を作るけど、二人は何が食べたいものは、あるかい?」

「えっと、俺は何でもいいですよ」

「私もです」

「じゃあ、豚汁と鮭の塩焼きで良いね」

「はい、それでお願いします」

重は、手際よく調理を始めた。やがて豚汁とご飯、鮭の塩焼きが出来上がり、お盆に乗せて持ってきた。

「さあ、お食べ」

「はい、いただきます」

玲がそう言うと、大輝もそれに合わせて「いただきます」と言った。しかし、重は、どこか不思議そうな表情を浮かべて二人を見つめていた。

玲がそれに気づき、箸を置いて尋ねた。

「どうしたの?おば・・・、いえ、重さん?」

碧が代わって説明を始めた。

「牛鬼を倒すための情報を手に入れたいんだ。それで、昔、重さんに聞いたおとぎ話をもう一度教えてもらいたいんだ。それに、じいちゃんが軍の研究員だったから、何か知っているかもしれないし、お願いすれば軍隊の協力を得られるかもしれないと思って来たんだ」

重は、目を細めて碧をじっと見つめた後、小さく頷いた。

「なるほど。だから来たんだね」

「重さん、牛鬼のことを教えてくれ!」

それを聞いた重は、静かに奥の部屋に向かい、一冊の巻物を手にして戻ってきた。

「ほら、昔、碧に聞かせた牛鬼のおとぎ話の書いてある巻物だよ」

「ま、巻物! あのおとぎ話って巻物に書いてあったものだったのか!」

「ん? 言ってなかったかい?」

重は小さく笑いながら巻物を碧に手渡した。

「随分、良い紙をつかっているね。これは、一見、古そうだけど、そんなに昔の物ではないな」

「まあ、これは、昭和初期の物だからね」

「え! これに何て書いてあるの?かすれて読みづらいから分からないな」

「そうか。そこには、こう書かれているんだよ」

重は巻物に書かれた文字を指差しながら説明をしてくれた。

「これは、牛鬼にまつわるおとぎ話だね。昭和十三年八月この山に一匹の恐ろしい獣が棲んでいた。それは身の丈十三尺、つまり4メートルかね。大きな白色の眼の獣で、人を喰う悪しき存在が現れた。その獣は山から下りてきては村を襲い、人々を恐怖に陥れたんだ。しかし、ある日、一人の勇敢な若者が現れ、獣に向かって聖なる赤い石を投げた。大きな音と黒煙が発生してそれが収まると、その獣は突然、肉片になっていた」

碧は真剣な表情で話を聞きながら、重の話に頷き返した。しかし大輝と玲はまだ半信半疑だった。

「重さん、それが本当におとぎ話なの?」

玲が懐疑的な表情を浮かべて尋ねるが、重は微笑んで頷いた。

「ああ、そうさね。この巻物にはこう書かれているよ」

重は再び文字を指差した。

「山から下りてきて、村々を襲う悪しき獣。その獣の首を切り落とした若者は、発生した爆音と黒煙と一緒に霧となって消えた」

玲と大輝はその話を聞いて、ますます疑いの眼差しを向けてきた。しかし碧は重の話に真剣に耳を傾けていた。

「牛鬼の首を人間が切り落として消えるなんてあり得るのかな?」

玲が疑問を口にすると重は、少し考え込んだ後に口を開いた。

「まあ確かに不思議な話だけど、過去の伝説として、受け止めないといかんね」

「でも、重さん、本当にそんなことが起きたんなら、牛鬼を倒せる方法が分かるかも」

玲が期待を込めた声で言うと、重は笑いながら首を横に振った。

「いやあ、それは難しいと思うよ」

「どうして?」

「この話はね、続きがあるんだよ。まあ、碧なら気付いていると思うけどね」

碧は頷きながら答えた。

「ああ、その巻物には『若者は、黒煙となって消えた』って書いてあるけど、『首を切り落として殺す』ことまでできたんだろ?だから、殺す方法も書いているはずだ」

重は微笑みながら頷いた。

その首を切り落とすのも非常に難しいため、特別な儀式を行う必要があった。儀式とは、以下の三つだった。

一つ目は、ある場所で三日三晩にわたって祝詞を唱えて神聖な神器を集め適切な手順で力を解放することだ。これは神聖な場所で行う必要があり、その場所は特定の人間にしか教えられないようになっていた。

二つ目の儀式は、その獣の首を切り落とし爆音と黒煙を起こすことだ。しかしこれには特別な技術と経験が必要であり、失敗すれば命を落とす危険もあった。

三つ目の儀式は、その獣の胴体を山の奥深くに埋めることだ。この儀式も神聖な場所で行う必要があるが、獣を埋めた後はその場所に近づくことを禁じられた。

もう一つの巻物は明治三十八年の話だね。獣のことが日記として書かれてるが、紙がほとんどボロボロて読む事ができ無いんだよ。獣が無残に家畜や人を殺すこと。罪を犯した者が逃げて、井戸の中に隠れた。が獣に捕まえられ口に入れられそうになる。隠し持った包丁で獣の眼を刺そうとした。しかしその獣は一瞬、鼻をひくつかせ、包丁を刺し切る前に牛鬼は、手を離した。その結果、その者は、落下して地面に激突し、その衝撃と痛みで思わず包丁から手を放してしまった。獣は、それを嘲笑うかのように表情を歪め体を踏み潰した。踏みつぶされた体は、バラバラになり、辺りに血が飛び散り、遺体は、頭だけだった。その光景は、身の毛のよだつ惨いものだと書いている」

「そ、それは酷いな・・・」

大輝が真っ青になりながらそう言うと重は、苦笑いを浮かべて頷いた。

「ああ、そうだね」

玲は、青い顔をしながら口を開いた。

「おと、その獣を倒す方法ってないの?」

碧は顎に手を当てながら考え込んでから答えた。

「いや、一つだけ方法がある」

「え! 本当に!」

玲と大輝は期待を込めた目で碧を見た。しかし碧の表情はどこか暗かった。

「でもこれは、とても危険な賭けだ。失敗すれば死んでしまうかもしれない」

玲は碧に縋りつくように必死な表情で答えた。

「どんな方法でもいい! 私たちならきっと大丈夫だよ!」

「いやでもこれは、まだ憶測の範囲の話で確証は、無いぞ」

「わかったことは、牛鬼は知性があること、そして・・・、先を見る能力があること。人の心、行動がわかるんだ。匂いに関係している」

「えっ、嘘だろ! じゃあ本当に牛鬼は、行動を読んでいるんだ。無敵じゃん!」

「そんな非現実な事があり得るなんて、嘘でしょ! ねえ、お兄ちゃん嘘だよね?」

「さらには、この間の戦いの経験だが、牛鬼は、胸、つまり心臓だ。これは刺せない。おそらくは、急所を厚い骨で覆われている。血こそでるが、大事な内臓は守られている。

重は遅いので、広間の方に布団を敷き、三人に泊まるように言った。碧は、真ん中の布団で寝た。心の中で反芻した。巻物に書かれていた言葉の意味を考えていた。

『獣に向かって聖なる赤い石を投げた。大きな音と黒煙が発生し、それが収まると獣は突然、肉片となった』

碧は、巻物に書かれた「赤い石」がダイナマイトであることを確信していた。

「予知能力は厄介だ」

「せめて、牛鬼が出没するもう一歩先を読めればなあ」



     第4章(牛鬼再び現る)


碧と大輝、玲は、舗装工事の進捗を聞きに村長の家を訪れていた。以前訪ねてから二か月たっていた。庭で遊ぶ玲と大輝を見守りながら、碧は「大輝、玲、帰るぞ」と声をかけた。二人が車に戻る準備を進める中、碧はふと気を緩めた。しかし、次の瞬間・・・。

森の奥から、それを引き裂くような男の悲鳴が響いた。突然の叫び声に全員が立ち止まり、悲鳴の方向を注視する。すると、森の暗闇から、一人の男が転がるように飛び出してきた。その顔は血の気を失い、ひどく怯えていた。

「どうしたんだ!」

村長が男を支えながら問いかけると、男は荒い息を整えながら震える声で答えた。

「見たことのない・・・頭が牛の化け物が・・・!」

その場にいた全員が息を呑んだ。信じがたい話ではあったが、背後の森から漂う異様な気配が、それが現実であることを示していた。碧は耳を澄ませた。遠くから微かに、「ドシン・・・ドシン・・・ドスン・・・」という地響きが聞こえる。何かが重々しく地面を踏みしめている――。

「村長・・・これは、ただ事ではない」

碧の言葉に、村長の表情が険しくなる。すぐに村の者を集め、碧は提案した。

「私が先に戦い、少しでも弱らせたところをあなたが仕留めるという形ではどうか」

その案に村人たちはざわめいた。

「それは駄目です! 客人を危険に巻き込むわけにはいかない!」

「これは俺たちの村の問題だ。あなた方は早く逃げるべきだ!」

村人たちは一斉に反対の声を上げた。しかし、碧は冷静に言葉を続けた。

「分かりました。では、あなたが最初に戦い、もし状況が悪くなったら、私が続けて戦います」

村長は逡巡しつつも、渋々頷いた。彼は、村を守る立場として決意を固めていた。

「作戦通りにやれば勝てる・・・」

そう断言する村長の言葉に、碧は違和感を覚えた。彼は村長の逞しい体躯や経験を認めながらも、一抹の不安を抱いていた。碧は、玲と大輝にもと来た宿舎に戻っているように言った。決して顔を出さないで隠れていることも伝えた。

(これだけの準備があれば、確かに戦えるかもしれない。でも・・・あの化け物が本当に“常識”の範囲に収まるものなのか? 銃弾を受けても軽傷しか負わない相手に、俺たちは本当に太刀打ちできるのか・・・)

碧は、大輝たちと別れて、牛鬼出現の方に向かった。心の奥底に渦巻く不吉な予感を振り払うように深呼吸した。その時だった・・・。

「ブオォォォッ!!」

森の奥から、恐怖を震わせる咆哮が轟いた。その音は尋常ではない威圧感を持ち、周囲の空気を揺らした。

「まさか・・・」

碧は息を呑んだ。先ほど微かに聞こえていた“ドスン”という音の正体――それは、牛鬼が村を囲む有刺鉄線ネットを飛び越えて着地した衝撃だったのか。

「嘘だろ!」

村人の一人が悲鳴を上げる。設置した防衛網は、化け物の侵入を防ぐはずだった。それを――避けたのではなく、“飛び越えた”というのか。

「牛鬼には、虎やライオンとは違い、明確な知性が備わっている……!」

その言葉と同時に、牛鬼が姿を現す。碧の視線が村の奥へ向けられた瞬間、目に飛び込んできたのは惨劇そのものだった。無惨に殺された人々の首だけの死体が、地面に点々と転がっている。どれも苦痛に歪んだ表情をしたまま、凍りついたように静止している。

家々は崩れ、壁には血飛沫がこびりついていた。村の動物たちも、その多くが絶命していた。捻じ曲がった四肢、空を向いた虚ろな瞳——まるで、牛鬼は獲物が絶望に染める瞬間を楽しんでいたかのようだった。

(苦しませて殺している・・・なんて酷い奴だ・・・)

碧は息を詰まらせ、足元が崩れるような感覚に襲われた。膝が震え、無意識のうちに四つん這いになっていた。視界が霞む。喉の奥がひりつき、何かを叫びたくなる衝動を必死に抑え込んだ。

しばらく動くことすらできなかった。しかし、やがて冷たい夜風が頬を切り、碧は目を閉じたまま大きく息を吸った。

俺が立ち止まっている場合じゃない・・・あの先には大輝たちが身を潜めている宿舎がある。

碧は強引に体を起こし、宿舎へと向かった。しばらくするとその民家は静まり返っていた。

特に牛鬼が来たわけではない。(静かなものだ)

しばらく進むと何人かの人が倒れている。

(残念だが、もう息をしていない)

・・・そして、ふと井戸の近くへ足を向けたとき、違和感を覚えた。井戸の中を覗き込むと一瞬なにかが動いたように見えた。誰かがそこにいるかのように。

碧は反射的に身構え、慎重に井戸の中を覗き込む。

「・・・!」

暗闇の底から、小さな震えが伝わってきた。怯えた息遣い。身を寄せ合って震える二つの影——大輝と玲だった。

「大輝、玲、大丈夫か!」

碧はすぐさま井戸に手を伸ばし、二人を助け出した。その震える体を抱きかかえながら、優しく声をかける。

「ほら、これで体を拭くんだ。濡れた服は、脱いですぐに毛布にくるまるんだ」

十分後、碧は毛布を持って戻り、火を灯して二人を温めた。身体が徐々に落ち着きを取り戻し、大輝と玲は肩を寄せ合いながら、ようやく口を開いた。

玲の唇が震えながら、押し殺すような声で呟いた。

「牛鬼が現れて・・・次々と・・・皆を殺して・・・食べていったんだ」

その一言が、碧の全身を冷たい刃のように切り裂いた。

「何・・・!」

碧は息を呑む。胸の奥で何かが弾け、背筋に嫌な汗が流れる。

「牛鬼は・・・俺が引き付けた後・・・真っ直ぐ村へ向かったというのか・・・」

玲は恐怖に囚われたのか、血の気を失い、ガタガタと震えていた。その姿を見た碧は、牛鬼が暴れた村の残酷な光景を再び脳裏に思い浮かべ、呆然とする。

碧はじっと拳を握りしめた。震える指に力を込め、押し潰されそうな感情を無理やり抑え込む。(牛鬼によって殺された妻・・・犠牲になった村人たちのためにも・・・俺は、大輝と玲だけは絶対に守り抜く!)

そう心に誓いながら、彼は青々と茂る樹林の中を足早に進んでいた。


      §

森の中は、静寂とざわめきが入り混じった奇妙な空間だった。風が枝葉を揺らす音が耳に届くたび、碧は立ち止まって後ろを振り返った。目に映るのはただ揺れる木々と木漏れ日が模様を描いた地面だけ――だが、その中に潜む何かの気配を感じ取る。背筋がざらりと逆立つような不快感が、彼を追い立てた。

「まだ追ってきているのか・・・」

碧は息を荒げながら、大輝と玲を守るために必死に歩みを進める。森の奥からは不味な鳥の鳴き声が響き渡り、その音はどこか異様に鋭く耳を刺した。鳥たちが突然飛び立つ様子を見た瞬間、碧の胸はさらに強く締め付けられる。

風が吹き抜けるたびに、樹木の隙間から垣間見える暗雲が広がっていくのが分かる。どこか遠くで木々が折れるような音が響き、碧は反射的に足を止めた。振り返ったその先には何も見えない――それでも、背中にひたひたと何かが近づいてくる感覚を拭い去ることができない。

森の香りはいつもなら心を落ち着けるはずだった。しかし、今は違う。血の匂いが鼻をかすめるような気がして、碧は思わず喉の奥を鳴らした。村で見た惨状が脳裏をよぎる。十数名の村人が牛鬼に斬り裂かれ、村長もその犠牲になった――その記憶が、彼の胸をさらに締め付けた。

「急げ・・・こんなところで立ち止まってはいけない・・・」

碧は二人を促し、足を早める。だが、自然と歩く速度は落ちてしまっていた。恐怖が足を絡め取り、前へ進む力を奪おうとする。

風が木々を揺らすたび、影が地面に踊る。その影がまるで生き物のように蠢いて見え、碧は無意識に拳を握りしめる。

「ここから一キロ離れたログハウスまで・・・そこまで行けば、少しは安心できるはずだ・・・」

碧はそう自分に言い聞かせ、恐怖と焦りを振り払うように歩き続けた。

「なあ知っているか最近ここら辺で、血だらけの同業者の死体が見つかったらしいぞ。しかもその死体は、首から下が無くなっていたらしい」

「ひえ~。恐ろしい話だな~」

「何?山の中に死体だと! その話を詳しく教えてくれ」

「ん?そんなに食いついてどうしたんだ?まあ良いが。ただの噂話だから信憑性低いぞ。おおかた熊にやられただけだろうよ」

「それでも良いから教えてくれ。それに熊は、俺達猟師ならどこら辺で出たかが重要だろ」

「あー。確かにな。えっとたしかここから三キロ離れた第二宿舎のすぐ近くの針葉樹林の木の下だったかな」

「そうか分かった。行ってみるよ。ありがとうな」

「おと。俺も行く!」

「私も行く」

「分かったよ。でも奴が近づいているから、危なくなったらこのログハウスのある村に戻るんだぞ。俺も危なくなったらそうする」

宿舎を出た碧は、ぶつぶつと声には出さないが、なにやら考え事をしながら歩いていた。

「生首だけの死体か。今までの牛鬼が殺した死体を見る限り今回も牛鬼が殺した可能性が高いな。第二宿舎とここは、三キロも離れている。つまり身体の大きく身体能力の高い牛鬼は、ここまでは疲れて来られないだろう。そう、ここなら安全だ」

第二宿舎に着いたのは、それから三十分後だった。

「やっと着いた。ここが第二宿舎だぞ。大きいだろう。ここでもし、牛鬼が現れたら、森の中に飛び込もう。この大木の数々は俺らを守ってくれる」

「なっ、なんだ! これは、とんでもない量の木が倒れている。しかも全て真っ二つに折られている。牛鬼が暴れたあとだな。奴はここまで遠征してきている。おそらくは山奥の何らかのエネルギー源がなくなり、人里で人を食い物として見ているのだろう」

次の瞬間何かが爆発したような音が耳元まで鳴り響いた。音のした方を見るとそこには、自分達を見下ろしている牛鬼が居た。

次の瞬間、碧と玲と大輝は、条件反射で散開して道を走り出していた。

「くっそ! なんで、ここに奴がいるんだ。ものすごく高速移動ができるのではないか。あの巨体で。木の間を抜けて、どうにか時間を稼ぐしかねえ」

「ブォォォォ」

雄叫びを上げた直後、腕を一振りするとそれだけで簡単に木がへし折れた。全速力で田んぼの間の道を走り抜けて、森の入口まで来た

「玲、丘に行け」

碧の声には、迷いのない強い響きがあった。

「丘?」玲が不安げに聞き返す。

「森の入口から少し離れた場所に、小高い丘があるだろう。そこに行け」

碧は指を伸ばし、森の向こうを指し示した。見れば、確かに森の手前、六十メートルほど先にぽつんと小さな丘がある。村の方向を見渡せる位置で、何かあればすぐに町へ逃げられる。

「わかった・・・」玲は少し戸惑いながらも頷いた。

「玲、お前はそこから俺を見ていてくれ。牛鬼の動きがわかったらすぐに叫べ。ただし、近づくな。絶対にだ」

玲はもう一度頷くと、丘へ向かって走り出した。碧はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。

「よし」

彼は今度、大輝の方へと目を向ける。

「大輝、お前は村に戻れ。村人にこの状況を伝えて、全員を町まで避難させるんだ。俺が時間を稼ぐ。その間に全力で動け」

「おと・・・」

「いいから行け!」碧の声が鋭く響いた。

大輝はためらうように父の顔を見つめたが、碧の揺るぎない決意を感じ取ると、唇を強く噛んで頷いた。そして、森の入口から村へ続くあぜ道を全力で駆けていく。

碧は大輝の背中が見えなくなったのを確認し、ゆっくりと森の中へ足を踏み入れた。

森の入口は、道と森との境界が曖昧だった。どこまでが道で、どこからが森なのかはっきりしない。ただ、踏み出すごとに周囲の景色が変わっていくのがわかる。

森の中は完全に暗いわけではない。木々が高く伸びているため、陽の光が枝葉の隙間から柔らかく降り注ぎ、地面に薄い光の模様を作っている。視界は十分に確保できるが、木々の間にちらつく影が牛鬼の姿に見えて、気を緩めることができない。

「・・・いるな」

碧はその気配を感じ取った。風が止み、森の中の音が変わる。鳥たちのさえずりも途絶え、ただ木々が微かに揺れる音だけが響いていた。

牛鬼はこの森のどこかに潜んでいる。だが、その正確な位置はまだわからない。碧は慎重に足を進めながら、気配を探った。

その時だった。

「お父さん! 右に五十メートル! そこ!」

玲の声が丘の上から響いた。碧は一瞬戸惑ったが、玲が叫んだ方向に目を向けると、木々の間に巨大な影が動くのが見えた。

「・・・居た」

碧はすぐさまその方向に身を翻し、牛鬼の動きを追った。

「手前、十メートル! そっち!」

再び玲の声が響く。碧はその言葉に従い、飛び出してきた牛鬼の腕をかわす。

「右斜め前! そこに首が!」

玲の声は的確だった。彼女の指示通りに動く碧は、牛鬼の攻撃をかわしながら反撃のチャンスを窺う。

「・・・すごい」

碧は思わず呟いた。玲の指示はどれも正確で、彼女が森の中の状況を完全に把握していることが分かる。

彼はふと、以前のウサギ狩りのことを思い出した。森に逃げ込んだウサギを追い詰める際、玲は小動物の動く向きと、進める狭い道を瞬時に読み込んだ。その時はただの感の良い程度に思っていたが、今ならわかる。玲には空間を把握する才能があるのだ。

「お前の目が、俺の武器になる」

碧は小さくそう呟くと、玲の声に耳を澄ませながら、牛鬼との戦いに集中した。碧の俊敏な動きと玲の指示が絶妙にかみ合い、牛鬼の巨体を翻弄していく。

「やはり目を潰しておいた方が良いな」

次の瞬間、三度の発砲音が鳴り響いた。三発の内、二発は、牛鬼の手によって止められてしまった。残された一発が指の隙間を通って見事に目に命中した。

「良し! 一発命中した!」

一瞬だが牛鬼が視界を失った事に驚いた為、その隙をつき、肩に一太刀を入れる事に成功した。

「ブォォォォ」

雄叫びを牛鬼が上げた直後に牛鬼の眼の玉がくるりと周り、白く濁った両眼が白目となり、青白く光った。次の瞬間、牛鬼は速度が倍になった。何かのスイッチ、これが合図なのか。火が木々に燃え移り、すごいスピードで森全体を駆け抜けるように速さを増した。相変わらず、玲の声は届き、二メートル弱で木々が等間隔に生えているので、牛鬼の手の振り回しは制限されるものの、そのスピードは驚異的でありすさまじかった。今まで、玲の目のおかげで、攻勢に回った碧であったが、徐々に押し込まれて逃げる指示となっていた。

「お父さん、そこまで牛鬼がきている、右後ろに飛んで!」そう言われて、飛んでみたものの、碧の左腕はひじの付け根から切られて松の木の後方に吹っ飛んでしまった。

「くうぅ」

「痛てぇ」

碧は手拭いを使い右手と口で左手の付け根からしばり、止血した。

こりゃ、時間の問題だ。

碧は精神統一をするように目を閉じた。牛鬼の動きを瞼の裏で予測する。太陽の黒点が移動するように、牛鬼の影が動いた。

「見えるぞ、俺にも玲の指示が」

この森の木々の特徴がインストールされた。

「玲! しばらく俺の動きを見ていろ」

「お前の指示とどれくらいのギャップがあるか」と叫び、言い終わる前に反射的に動いて見せた。それは牛鬼の動きとシンクロを始めた。

玲は心の中でつぶやいた「右三m!」「左後ろ五m」と、もちろん碧には聞こえない。

「お父さん、すごいよ。私の指示よりも先に動いている!」

「はっ、覚醒モードってやつかな」

碧は血が流れているせいか、ナチュラルハイの状態であった。

(俺は強い! この村で一番だ。いや過去も未来も含めて一番だ)

(口の中の血の匂い、たまらねえ、俺の血が、祖先が狩猟民族なんだろう。

 腕や肩や、足、ふくらはぎ、血がふつふつとたぎる)

(あ~、この牛やろうを握りつぶしてえ!)

碧は、いつもの間にかライフルを捨て、リュックを放り投げ、靴を脱ぎ、身軽になっていた。その動作のたびに、スピードが増す。目が開き、瞳孔が開かれた状態になっている。

(きもちいい・・・。あの牛をぶち殺してやる!)

(あいつが悪いんだ。村に入ってきた。俺を襲った。俺の腕を切った)

感情が高くぶるたびに、瞳孔が開き、目の周りの筋が膨れ上がる。

(うおおー)

左右にジグザグに動き、牛鬼の肩や口元に触れる距離に近づいた。圧倒的な強さを手に入れた碧。牛鬼討伐も目前だった。

夕方にさしかかり、既に二時間は経過していた。森の木々の先に鳥はいない。ただ、空が暗くなり始めていた。

  §

木々の中に牛鬼がいる。依然として力強く動くが、碧の先を読む動きについて来られない。肩には湯気が立ち込め、不気味な息遣いをしている。頭はすでに碧に打ち取られていた。

碧は勝利を確認していた。

「お父さん、すごいね」

そう振り向いた碧は、顔のこわばりを隠せなかった。視線を下に落とし、嵐が過ぎ去るのを必死で待つように立ち尽くす。その間、ふくらはぎの筋肉を緩めるよう意識し、足首を中心にゆっくりと時計回りに動かした。次に肩のこわばりをほぐす。それでも、顔には浮き上がった血管が脈打ち、緊張が解けない。

(戻らねえ・・・)

丘の上にぽつんと立つ少女の姿が、ふいに碧の頭をよぎった。だがその背後、視界の端に映る異様な光景に、思考が遮られる。

碧の背後には・・・首から上がぽっかりと消えた牛鬼が立っていた。首のないその体は、頭を失っていて立ち尽くす。その影の先、地面には白く光る二本の角が落ちていた。茶色い土の上で不気味に輝くその光景を見つめ、碧は確信する。

(やった。首を落とした・・・俺の勝ちだ)

だが、胸に湧き上がる感情は、喜びではなかった。それは、妻を亡くした時の悲しみに近いが似ていない、もっと深く、もっと得体の知れない虚無感だった。

(こんなはずじゃねえ・・・。牛鬼に勝っちまった。これからどうやって生きていけばいいんだ)

その瞬間、背後で巨木が鈍い音を立てて倒れ込んできた。咄嗟に足元に迫る何かを避けるように碧は左足を軸に身をひねる。振り返った先・・・牛鬼が立っていた。

目が合った。いや、目が合った「気がした」。

次の瞬間、牛鬼は自らの頭から二本の角を掴み取り、まだ残る首の先の盛り上がり・・・まるで仮の頭部のような塊に剣のように突き刺し二本の角。その姿は、どことなくギリシャ神話のミノタウロスを思わせる異形のものだった。

碧の顔から血の気が引く。

「まさか・・・覚醒するのか・・・?」

牛鬼は体にしては小さな足で地面を力強く踏みしめると、両腕を広げ、コマのように高速で回転を始めた。その勢いで生まれた遠心力は凄まじく、碧の体を容赦なく宙へと弾き飛ばす。

「ぐっ・・・!」

背中から地面に叩きつけられ、ズシャリと音を立てて転がった碧の視界がぼやける。玲は何が起きたのか理解できず、ただその場に立ち尽くしていた。牛鬼の異様な姿は現実感がなく、まるで悪夢の中に迷い込んだかのようだった。

牛鬼の回転が生み出した遠心力は、周囲に肉片を撒き散らしていた。肉の塊が飛び散るたびに、碧の身体か、牛鬼の肉片かがわからないが、徐々に小さくなっていく気がした。その異様な光景に玲は目をそらすことができなかった。ただ立ち尽くし、見つめ続ける。

「お父さん! 逃げて!」

玲のかすれた声が風に流されるように響く。その声は頼りなく、どこか現実離れしていた。しかし、その声だけが、碧の薄れていく意識の中に確かに刻み込まれる。

(逃げるんだ・・・ここじゃない、どこか・・・)

碧は右足に力を込める。落ち葉で埋もれた地面に足を踏みしめ、次にアキレス腱に力を入れて立ち上がろうとする。しかし、足はもつれる。その先に転がっていたリュックが視界に入った。

リュックの中から黒ずんだ血の塊が弾け飛び、碧の手元に転がり込む。碧はそれを右手で掴むと、思い切り牛鬼に向かって投げつけた。

「これでどうだ・・・!」

手に残った血の感触は、不気味なほど温かい。その血を、顔、頭、肩、腕、もも、くるぶし――全身に塗りたくる。

焦げ付いた嫌なにおいがツーンとする。異臭と言うより刺激臭である。

碧の顔は血で彩られ、アフリカの狩猟民族のような出で立ちとなった。

牛鬼は、今になって、目が無いことに気づいたようにうろうろし始めた。

(チャンスだ)


第五章【決戦への準備】

碧は、重の家を訪ねた時に、部屋からこっそりと持ち出したダイナマイトを腰に巻きつけると、手に残る牛鬼の血をダイナマイトになすり押し付ける。

「牛鬼は匂いでこちらの動きを感じていたんだ。その証拠に、自分の血の匂いには、まったく反応していない・・・背中に這い上がってやる」

碧は、低く呟き、外を静かに移動した。その体からはわずかに牛鬼の血の腐食したような臭いと鉄臭さが漂っていた。それが功を奏して牛鬼の警戒心を削いでいた。碧は、目の前の巨体に向かい、木々の間を音もなく進んだ。

だが、その時、反対側の茂みからガサガサと音がした。碧が振り返ると、そこには弓矢を手にした大輝の姿があった。

「大輝・・・なぜここに!」

碧の心臓が一気に跳ね上がった。しかし叫び出す前に、大輝は矢を放ち、牛鬼の胸、心臓を狙った。しかし、鋭い音を立てて飛んだ矢は牛鬼に容易に避けられ、逆にその視線を大輝に向けさせてしまっただけだった。

「不味い! このままだと大輝が危ない!」

碧は、焦りながら近くの木にしがみつき、その幹をよじ登ると牛鬼の肩に飛び乗った。衝撃で足が滑りそうになったが、必死にナイフを取り出し、胸を突き刺した。

「これでどうだ!」

ナイフが牛鬼の胸にささったがわずか1㎝で固い骨に阻まれた。碧の力をもっても、鋭いナイフを持っても、心臓には突き刺さらなかった。(そうだ、牛鬼の胸骨は何センチもあつくなり、弾丸も通さない。碧は大輝に「玲と一緒に丘に登るんだ。そこにじっとしていろ」

「分かったけど、おと、絶対死ぬなよ」

大輝が走り出した直後に牛鬼は大輝の足をつかんで放り投げた。大輝は茂みの中で、動かなくなってしまった。

碧は横っ飛びでギリギリ木を躱したが、すぐにまた走り出した。すると今度は、大岩を持ち上げてこちらに放り投げてきた。

「クソッ、二度目は避けきれない! いや、諦めるな!」

碧は、体をひねり、軽傷で済むよう右に逃げたが、岩が左腕に直撃した。激しい衝撃音と共に、碧の右足が無惨にも骨折した。

「ぐっ・・・! 痛ぇ・・・!」

大量に血を失った事と激痛で意識が飛びそうになる中、碧は歯を食いしばり崖へと走り続けた。やがて崖にたどり着き、計画通りギリギリで避けることで牛鬼を落とそうとした。しかし、巨体の牛鬼はあと一歩のところで踏みとどまった。

「嘘だろ・・・。こんなの、あり得ない・・・!」

碧は、足元の崖を見下ろし、腰に巻き付けているダイナマイトに目を向けた。自分の中で迷いはあった。しかし、ここで終わらせなければ、自分の家族や村人たちがさらに犠牲になるかもしれないと考え覚悟を決めた。

「やはり・・・。これしかないか!」


第六章【決死の自爆】

山奥には木々が茂り、かつて三人の親子がキノコを採りに行った深い崖がある丘。今はもう、葉が落ち切り、冷たい風が吹き抜けている。戦闘の波動で小動物はもちろん、他の獣も森の奥に身を潜めていた。張り詰めた空気が、碧の頬を濡らす。自らの呼吸、乾いた振動が体内から鼓膜を通じ、音を鳴らす。「うるさい呼吸だ」

延ばされた時間の帯を少しずつ巻いていく。心の中は、いやに静かだ。

「みさき・・・。俺に力をくれ‼」

妻の名を呼ぶ。一瞬の瞬きだが、瞼に思い浮かぶのは、幸せだった日々。橙色の日々、寒々とした青色の日々が頭をめぐる。突然、現実の匂い、血の匂い、気管支の奥の肺にたまった血の匂いが鼻腔を突く。

「おれは、今、ここにいる・・・」

頭を下げて、最後の呼吸を引く・・・。

「うおおぉおおお‼」

自分の覚悟をより硬くする為、叫び、自分を奮い立たせた。そして、足と右手だけで牛鬼の背中に飛びつき、「無意識の意思」を発動させた。右手でポケットの発火装置を取り出す。シューっと音とともに発火装置は閃光する。碧は、腹に巻いたダイナマイトに直接押し付けた。

「行けぇぇぇぇぇっ!」

次の瞬間、爆音と共に濃い黒煙が立ち昇った。遠くの山の鳥たちがいっせいに飛び立つ。人の腕や頭、体の肉片が放物線を描いて飛んだ。巨木のように立ち尽くす牛鬼の心臓部分が背後からくり抜かれ、硝煙を発する。背中から胸部分は見えない。貫通していないのは、胸骨がかなり分厚く爆撃をくい止めている。碧の狙い通り、背面からしか攻撃ができない。唯一の弱点である牛鬼の心臓を消失させた。牛鬼の白い角は、モニターが消えたように黒ずんで行き、ゆっくりと後方に倒れていく。どしーん、再び遠くの山から鳥たちが飛び交う。そこには碧の姿はなかった。彼自身の代償として、肉片となって散ったからだ。

見渡しの良い丘に玲は、立っていた。「どーん」という何かが破裂する音に反応し、西の空を見た。玲は、その場にペタンと座り込んだ。瞳孔を大きく開いたまま、声も出せず、ただ目の前の光景に釘付けになった。そこには、碧の散り散りになった肉片が無造作に散らばって落ちてきた。

玲が静かに山を見上げ、「この山は、知っている…お父さんの匂いがする」とつぶやく。

玲は、恐る恐るその場に這い寄り、震える手で肉片の中を探るようにかき分けた。その中にばらバラバラになったキーケスがあった。車のカギやら、見たことの無い形をした鍵もついていた。玲は、それを拾い上げた瞬間、碧がもう戻ってこないことをようやく理解した。

「お父さん・・・うそ、死んじゃったの・・・?」

彼女の目から涙が溢れ、大粒の涙は頬を伝い落ちた。玲は、声を上げて泣きじゃくりながら、鍵の束を握り締めた。その時、足元の地面に突然ひびが入り、玲が立っていた場所が音を立てて崩れ始めた。

「きゃっ!」

玲は、崩れる足元から慌てて後ろへ飛び退き、生存本能で必死に走り出した。崩壊した地面に巻き込まれるように、碧の肉片は崖の下へと転落していった。風の中に肉片が落ちる音だけが虚しく響き、玲の手には、鍵だけが残されていた。

家に戻ると、家の中はひっそりと静まり返り、父親の姿はどこにも見当たらなかった。村人たちの話によれば、父親はどこかへ逃げたとされていた。

しかし、父親は、牛鬼に接近し、牛鬼の匂いによる“瞬間予測”の裏をかいて、自爆によって牛鬼とともに命を散らした。その真実を玲は誰にも話せなかった。村人たちの間では、父親が逃げたという噂が広がり、詰め所で殺された人々の親族は碧の家族を恨むようになった。その重圧は、玲の心に深くのしかかり、彼女は半年もの間、誰とも口を利くことができなくなっていた。

村で起きた悲劇は、記者たちの手によって日本中に広まり、村人たちはますます彼女たちに冷たく当たるようになった。石を投げられ、窓ガラスを割られることもあった。正義が必ずしも正しく伝わり、賞賛されるとは限らない。二人は、父と過ごした屈託のない日々を心の支えに歩いていく。ただ、太陽の光さえも人々の決めつけという高い壁に遮られ、二人は日陰に根を張るように、その記憶を静かに、細く黒く伸ばしていくしかなかった。

それでも、碧によって、二人はここに存在し、自分の歩幅で生を確かめ、未来へと呼吸を繰り返す。


第一部 完












第二部


第七章【八年後の再襲撃】


「あの時、クソ親父が逃げなければ・・・俺たちは、こんな酷い目に遭わなくて済んだ。最初に牛鬼を倒していれば、被害は最小限で済んだんだ。あのクソ親父め!」

怒りに満ちた声で言い放つ大輝。玲は、その言葉に、か細い声で答えた。

「う、うん、そうだね」

玲の声には力がなく、その表情にはどこか言い表せない影が落ちていた。

「クソ親父が逃げてから八年間、お金が無く、生活も苦しかった。虐めも酷かった。親戚筋の猟師が拾ってくれて助かったよ。あんなクソ野郎がいた場所から離れる為に必要なお金を稼ぐ方法を教えくれた。しかも、親父は猟に機械をあまり使わない。時代錯誤の猟だ。今は、衛星を使って、天候や地図を見ることが出来る。言わば、効率よく猟師の技が覚えられるからな」

大輝は猟銃を得意げに見せながら続けた。その表情には、どこか誇らしさが漂っていた。

「確かに機械は便利だね。だけど、それに頼る分、技量は落ちるんじゃないかな?」

玲の呟きに、大輝の顔が険しくなった。

「なんだ、玲。まさか、親父の味方すんのか?」

「えっ・・・いや、そういうわけじゃないけど・・・」

玲は慌てて否定するが、大輝の視線は鋭いままだ。

「本当か?」

「う、うん。本当だよ」

「なら良いんだが・・・」

大輝は一息つき、ふと遠くを見つめた。

「それにしても、俺たちがここで猟を学び始めてから、もう八年も経ったのか。がむしゃらに生きていると、時間の流れは速いのかな」

桜の花びらが風に乗って舞い落ちる中、大輝は空を見上げながら感慨深げに言った。

「うん、そうだね」

玲は、微笑むように頷き、遠くで舞う桜を眺めていた。

「よし、もうそろそろ、猟の訓練に行くか!」

大輝が勢いよく立ち上がり、玲の手を引いた。

「う、うん」

玲は、少し驚きながらも、引っ張られるように立ち上がる。大輝はわくわくした様子で玲を先導するように駆け出した。

「ほら、急がないと訓練の時間がなくなっちゃうぞ!」

「分かったから、ゆっくり歩いてよ」

玲が少し困ったように言うと、大輝は一瞬、立ち止まり振り返った。

「でも急がないと・・・」

「私は、そんなに速く走れないよ」

玲の言葉に、大輝は苦笑しながら手を頭の後ろで組んだ。

「分かったよ。すまなかったな」

彼らの後ろでは、風に舞う桜の花びらが静かに地面へと落ちていった。

ある日の午後、大輝と玲はいつも通り村の外れにある野原で猟銃の訓練を行っていた。少し離れたところから、小鳥のさえずりが聞こえてくる。空は快晴であり、時折、吹く風も心地よかった。

大輝と玲の二人は、その穏やかな風景とは対照的に、真剣な表情で的に向かって猟銃を放っていた。しかし、何度、撃っても弾は、的の中心には当たらず、弾丸はまるで見当違いの場所に飛んでいった。それを見た大輝は、小さく、ため息をつきながら銃を肩に抱えた。

「この猟銃、反動が強すぎるんだよ。気を抜くと、脱臼しそうになるぞ」

しばらくして、ようやく一発だけ真ん中に命中し始めた。しかし、それでも納得のいく結果ではなかったようで、大輝は不満げな表情を浮かべた。玲は、少し困ったように笑みを浮かべながらその様子を見ていた。

「そっちは、どうだ?」

大輝が尋ねた。

玲は、その問いを聞くと銃を抱えたまま首を横に振った。

「う〜ん。まだ一発も当たらないよ。銃の訓練は終わり。ボーガンの練習をする!」

それに対して大輝は肩をすくめながら答えた。

「まあ、そうかもしれないけどな。銃になれないと・・・。って、もうやめちゃっているし」

大輝は、ふーっ、と呼吸を整えて銃を構えて再び打ち始めたが、なかなかうまくいかなかった。何度も撃ったが、的に当たらなくなってしまい。苛立ちが募った。大輝は険しい表情で玲を見つめた。

「確かにこの銃、反動強いね。最初、お兄ちゃんが隠れて猟銃を使って脱臼しちゃったもんね」

玲がからかうように言った。

それを大輝は、恥ずかしそうに顔をしかめた。

「やめてくれ、あれは、忘れたい過去なんだ」

玲は、その言葉にくすりと笑った。

「この銃は、威力が熊以上のものを倒すように設定されているけど、もっと軽いのを使えばいいのに」

「玲、良く気付いたね。でもこれでいいんだ。大は小を兼ねるっていうしね」

「玲は、どうしてボーガンにこだわるの?それこそ猟銃の方が、猟には役立つだろう?」

玲の表情が真剣なものに変わった。その瞳の奥には闘志が宿っているようで、大輝もそれを見て満足げに頷いた。二人は互いにうなずき合い、再び銃を構えた。

その日からというもの、二人は毎日、訓練を行った。もともと感の良い二人はかなりの腕前となった。村が僅かに騒がしくなっていた頃、大輝と玲はいつもの野原で猟銃とボーガンを構えていた。大輝が引き金を引くと、大きな音と共に弾丸が発射され、それは吸い込まれるように的の中心に命中した。

「どうだ。玲、やってやったぞ! これで卒業試験クリアだ!」

大輝は得意げに言った。

玲は、驚いた表情で笑顔で答えた。

「おめでとう! お兄ちゃん」

その後、玲も連続して的の中心に命中させることができた。それを見ていた別の村の観客は驚きの声を上げ、中には拍手を送る者もいた。二人の努力が認められる形となった。

「やった! 私も卒業試験クリアだよ!」

「おめでとう! 玲」

「ありがとう! お兄ちゃん」

それから半年後、ようやく引っ越しのための資金が貯まった。

ある日、玲とともに情報誌や親戚の紹介を頼りに賃貸物件を探していると、大輝が少し苛立ちながら不満を漏らした。

「この辺り、インターネット設備が整ってないんだよな。インターネットさえ使えれば、もっと簡単に良い業者を探せるのに・・・まあ、無い物ねだりしても仕方ないんだけどね」

玲は少し困ったように言った。

「家賃が安い物件は、条件が微妙なものも多いね。でも、当たり物件もあるし、情報誌とFAXだけで探すのはなかなか大変かも」

   §

練習場からの帰り道。一台の軽トラックが止まっている。そこから、首に白いタオル巻いている。頭はハンチング帽を目深く被り、良く焼けた精悍な顔立ちの初老の大人が出てきた。聞き覚えのある声が響いた。

「よっ、大輝!」

大輝は声の主を見て驚いた。

「おっちゃん! こんな時間にどうしたんだ?」

おじさんは笑顔を浮かべながら近づいてきた。

「前に、お前たち二人が「良い賃貸物件を探している」って言っていただろ? ちょうど最近できた不動産屋を紹介しに来たんだよ。そこの奴とは昔からの知り合いで、お前たちの話をしたら、ぜひ協力したいって言ってくれたんだ」

「おっちゃん、ありがとう!」

「いいってことよ。お前の親父には猟のことで、何度も助けてもらったんだ。みんなの手前、かばってやれなくて悪かったが……俺は、お前たちの親父を信じているからな」

その言葉に、大輝と玲は顔を見合わせ、希望の光を見出したような笑みを浮かべた。

新たな旅立ちが、現実味を帯びていた。

玲は引っ越しの準備の買い物に出かけ、大輝は部屋に残り、おじさんの話を聞くことにした。

おじさんによれば、最近できたばかりの不動産屋が、この村から少し離れた町に営業所を構えたという。その会社は全国展開している大手企業で、信頼できるサービスを提供していると評判だった。

「最近は、Uターン やIターンが流行っているからな」

大輝はその話を聞いて目を輝かせ、すぐにでもその会社に連絡を取ることを決めた。そして、三日後に引っ越すことが正式に決まった。

「よし! これで東京に引っ越せる!」

玲はふと疑問に思い、頼りにしている兄に思い切って尋ねた。

「お兄ちゃん、でもなんで東京なの?」

「母ちゃんの親戚が住んでいるんだよ。おとは仲が悪かったけど、俺には優しかったんだ。玲は小さかったから覚えてないと思うけど……おとが、もし俺の身に何かあったら、そこを頼れって言ってくれたんだ」

玲は、思いがけない話に一瞬、言葉を失った。知らなかった過去を聞かされ、何か言おうとしたが、適当な言葉が見つからず、ただゆっくりと頷いた。

   §

数日後、引っ越し業者の車が村の入り口に停車し、引っ越しの準備が始まった。村人達は不思議そうに見ていたが、すぐに興味を無くしていった。

引っ越しが始まる前に荷物を確認していた、大輝はふと部屋の隅にあるデスクに視線を移した。そこには、家族の写真や思い出の品などが並べられており、大輝は、懐かしさを感じた。

夜間料金が安いと言うことで、そのナイトパックとした。「夜逃げ」と勘違いされそうだが、村人から注目をあびるの良くないと考えた。最後の一箱を組み立てて、抑えていない方の手でガムテープを拾い、まさにガムテープに手を掛けた時だった。急に部屋の電気が消えた。

突然の消灯に驚きながらも周囲を見回す。黒いポンチョを着た男たちが、刃物を手に入ってきた。

「お前、引っ越すんだってな。引っ越す前に殺してやるよ」

「お前らは誰だ! 金なら、ないぞ!」

それを聞いた黒いポンチョの集団は、大声で怒鳴りながら喋り出した。

「あっ、金?そんな物は、どうでも良いんだよ」

「なら、何が目的だ!」

「そんなの復讐に決まっているだろ! お前の親のやった過ちをもう忘れたのか? そのせいで、何人死んだと思っているんだ!」

「そんなの俺には、関係ないだろ! おやじと俺らを一緒にするな。もう、何年たっていると思っているんだ! それに、闇討なんて、卑怯だろ」

「黙れ! クソガキ! お前の父親の居場所が全く分かんねえから、アイツが大事にしていたお前らに地獄を見せてやるんだ」暗闇の中でニタリと笑った。

「ふざけんな! ここに居ねぇんだから、何の意味もないだろ! 八つ当たりすんなよ!」

「黙れ! 殺すぞ!」

「そうか・・・お前ら、本当に俺たちにかかってくる覚悟があるんだな?」

大輝は低く言い放つと、手元にバッグを引き寄せた。

「こっちは猟師だ。武器もある。正当防衛になるよな。玲、ボーガンを貸してくれ」

「お兄ちゃん、やめて!」

玲の手は震えていたが、大輝の真剣な眼差しを見て、しばし迷った後、ゆっくりとボーガンを差し出した。大輝はその手を受け取りながら、優しく玲の肩に手を置いた。

「大丈夫だ。当てやしない……でも、覚悟を見せなきゃ、なめられる」

玲は唇を噛み締めたまま頷いた。

「へっ、威勢がいいな。どうせ口だけだろ? やれるもんならやってみろよ、犯罪者の子どもよ」

「やらないと、やられる! 玲、下がってろ!」

大輝は矢をセットし、じりじりと距離を詰める黒いポンチョの男たちに狙いを定める。

「いいか・・・妙な動きをしたら、容赦しない」

リーダー格の男が鼻で笑い、軽く顎をしゃくった。

「どうせ撃てねぇだろ。こっちは――」

「シュッ!」

突然、矢が放たれた。鋭い音を立てながらリーダーの頬をかすめ、そのまま背後の木に突き刺さる。

「ひぃっ!」

反射的に頬を押さえた男の顔から、冷や汗が浮かぶ。

「次は外さねぇぞ・・・!」

大輝の鋭い眼光が、相手を射抜いた。

「くそっ・・・お前ら、逃げるぞ!」

「はい!」

集団は慌てて車に乗り込み、乱暴にドアを閉めると急発進して去っていった。

この村での最後の思い出が、強盗まがいの連中との対峙だったとは……、そう思うと、大輝は残念で仕方がなかった。

「玲を守るのは俺しかいない・・・俺しか・・・」

人知れず、鼻水混じりの涙をそっと拭った。

黒いポンチョを着た青年は、おそらく村の青年団の五つ年上のリーダーだ。牛鬼に父親、母親、そして婚約者まで奪われ、誰かを恨まずには神経が持たなかったのだろう。

他の連中もまた、この村で生きるために、正体の分からない牛鬼よりも、大輝の父親、碧を恨むことで心を保っている。それが、この村を去る理由としては十分だった。

      §

東京の春は肌寒い。アパートの屋根は電車が通るたびにキシキシ揺れる。窓を開けると、川が見えて、その先には森が見える。東京にしては自然が多くある。新宿までは電車で四十分、俺の仕事場にも近い。玲は近くの高校に通う。玲を大学まで入れるまで、死に物狂いで働く。夜は、コンビニで働く。でも不思議と辛くない。あの村で起きたこと。村人に奥行の無い平坦な眼で二十四時間見られる日々。あれに比べれば、ここでの暮らしは最適だ。玲も大分、元気になった。昔のこともぽつりぽつりだが、話し始めている。すべてが良い方向に向かっている。俺たちは、もう大丈夫だ。親父は消えた。俺たちを残して、でも寂しくない。おばさんの家に行っても優しくしてもらえる。大きな犬を飼っていて、名前は「スバル」。玲はその犬がとっても好きだ。玲はアルバイトが無い日は、スバルの散歩に行く。

       §

 今日は久々の仕事休みだ。夜にはコンビニのバイトがあるが、それまでは玲と一緒にデパートへ買い物に行く予定だ。「まずは朝ごはんだ。」

パジャマ姿の大輝はキッチンを見る。すでに起きていた玲は椅子に座り、食卓には朝食が並べられていた。パンとスクランブルエッグとサラダ・・・。きれいに焼かれた卵の香りがふわりと漂い、食欲をそそる。玲の料理は基本的に美味しい。だが、問題は「今日が、玲のチャレンジDAYか?」というところ。大輝は一瞬立ち止まり、テーブルの料理をじっと見つめる。スクランブルエッグの色合いは完璧、パンもこんがり焼かれている。サラダもドレッシングがかかっている。しかし……どこか違和感がある。

冷蔵庫へ向かい、扉を開ける。手を伸ばしたのは梅干だった。

玲は料理上手だが、時折、突飛なアイデアを発揮する。トーストにいちごジャム、それだけで十分美味しいはずなのに、そこへ枝豆を潰して混ぜたりするのだ。玲本人は満足そうに食べるが、それは「おいしいから」ではなく、「味の変化を予測し、どの結果が料理にどう影響するかの実験、答え合わせだ。今日の実験成果は優秀らしい。それを証拠にしきりに頷いている。大輝は対策を知っている。唾液を誘発する梅干を食べれば、舌の感覚が変わる。強烈な味の攻撃に備えるための「自動味変換術」だ。

「おはよう」

玲が笑顔で挨拶をしてきた。

大輝は軽く手を挙げて応え、冷蔵庫の梅干を取り出し、玲に見つからないように口へ放り込む。対策は完璧。実際、今日は「その日」だった。スクランブルエッグの色に微妙な変化があった。なにか特別な隠し味をしこんだのだろう。もう、それは”対応”されており、何かなのかもはやわからない。急いで、パンをかじり、コーヒーを飲んだ。パンの味は美味しい。

(うん、いいね。兄妹水入らず、ほっとする)

食べ終わり、後片付けをしていると、ふと気になって問いかける。

「玲、お前これからどうする気だ?」

「えっ? どうするってどういうこと?」

玲は不思議そうな表情を浮かべて聞き返す。

「つまり、これから進学するか、就職するかってことだよ」

「あ~、そういうことか・・・う〜ん、そうだね。就職かな、だって、うちは、お金ないよね」

少し悩みながらも、玲は答えた。

「そうか。でも、お前は大学に行ってほしいんだよね。考えてみてよ」

大輝は短く答え、片付けに戻る。そして玄関へ向かったとき、ふとあることを思い出して振り返った。

「なあ、玲」

玲は顔を上げる。

「ん? 何?」

「・・・いや、やっぱ今はいい。忙しく後回しにしていた引っ越しの段ボールが片付け終わったら話すよ」

玲は少し驚いたように瞬きをし、大輝を見つめた。

「そんなに大事な話なの?」

「いや・・・まあ、話したら分かるよ」

「ふーん・・・じゃあ早く片付けようか」

玲は立ち上がり、手を軽く叩いた。

大輝は小さく笑って、玄関へ向かう。

    §

小田急線の新宿駅で降り、人々の喧騒を抜けて階段で地上に出ると、町には春の陽気が満ちていた。行き交う人々はみな足早で、大輝と玲はビルディングを見上げながら、無言のまま歩いていた。大輝はシンプルなTシャツにパーカーを羽織り、ジーンズをはく、玲もジーンズだが、首元にフリルのついた淡い水色のノースリーブを着ている。髪を後ろでひとつに束ね、颯爽と歩くたび、髪が左右にやわらかく揺れた。

   

新宿のデパートの中は休日とあって賑わっていた。家族連れやカップル、友人同士が行き交い、店員たちが明るい声で商品の案内をしている。そんな中、大輝と玲は必要な物を買い揃えるため、エスカレーターで順番にフロアを見て回っていた。玲は初めて訪れるデパートの広さと人の多さに目を輝かせつつも、どこか戸惑いの色も浮かべていた。「ねえ、お兄ちゃん、ここって全部で何階まであるのかな?」

玲が興奮気味に尋ねてきた。

確か十階くらいまであったはずだ。でも、上のほうはレストランとかオフィスだから、俺たちが行くのはせいぜい五階くらいまでだと思うぞ」 大輝は周りを見渡しながら答えた。

「どうして初めて来たのに知ってるの?」

「さっきもらったパンフレットに書いてあったからな」と小声で答える。

「へー、なるほど」

二人は、新生活に必要なカーテンや食器を探しに来ていた。大輝が椅子の上に立上り、壊してしまった椅子も目的の一つだった。二人は、金額に驚嘆しつつ、置けるはずもない高級なソファーに代わる代わる腰掛けてみたりしていた。どの家具も大輝のアルバイトでは手が届かなかったが、玲は楽しそうにあちこち見て回っていた。

そんな中、近くで商品を見ていた若い男性グループのひとりが、玲をちらりと見て小声で友人に話しかけた。「なあ、あの子、スタイルいいし、モデルとかかな?」

「そうだな、なんか雰囲気あるよね。顔立ちもきれいで、まじ、好みだよ。」

「あの隣りの男、彼氏じゃなくて兄貴っぽくない?」

大輝はふと視線に気づき、玲のほうをちらと見やる。その目は、どこか誇らしげだった。玲はそんな視線にも気づかず、無邪気に新しい家具を見て回っていた。

「ねえ、これ見て!」 玲が楽しげに、小さなキャラクターの描かれたタオルを大輝に見せる。

「これ、めちゃくちゃ可愛くない?買ってもいい?」 「いいけど、ちゃんと予算を考えろよ」 「はーい!」

玲はふと顔を上げて、少しだけ声を弾ませる。 「ねえ、お兄ちゃん、あとで十階のレストランのクリームソーダ、一緒に飲もうね」

「えー、このあと、西口のライフル店に行って、俺の相棒のこれを調整してもらうからな」

「ちょっと、猟銃をこんなところまで持ってきているの、猟師バカ、卒業しなよ、お兄ちゃん」

「大丈夫だよ。お前の銃も持ってきたよ。許可書も持ってきたし、ライフル店にも予約しているので、バッチリ。」

無邪気に笑いながら、大輝は玲に話した。

          §

そんなやり取りをしている最中、突然周囲の雰囲気が変わった。近くの売り場に置かれていたスーツケースが奇妙に動き始めたのだ。スーツケースの表面が不気味に膨れ上がり、まるで内側から何かが押し出ようとしているかのようだった。

「おい、玲。あれ、見たか?」

「う、うん・・・何か動いている」

周囲の客たちも異変に気付き、ざわつき始めた。スーツケースはさらに激しく膨らみ、ついにはバキッ、という音を立ててヒビが入り、中から黒ずんだ肉片が飛び出した。それは粘性を帯びた異様な物体で、まるで生き物のようにうねうねと動いていた。

「お兄ちゃん、怖いよ・・・!」

「落ち着け、玲。俺がいるから大丈夫」

肉片は、徐々に成長し、膨れ上がると2mほどの大きさになった。その後、突然、肉片が分裂した。一つの肉の塊が鎮座して、その塊が裂け、さらに四つに成長した。同じようなスーツケースが他に四つ。同じように裂けて、肉の塊が膨張した。周囲の人々は、パニック状態になり、男、女、子供、関係なく悲鳴を上げ逃げまわった。

「くそっ、何が起こっているんだ。夢ではないよな!」

大輝は玲を背後に庇いながら、膨張を続ける肉片を睨みつけた。

最初に膨れ始めた肉片は、さらに大きく膨らみ、黒い色がその表面を覆っていく。その形は徐々に変化し始め、ただの肉片だったものが明らかに人体のような輪郭を帯びてきた。

「お兄ちゃん、あれ、生き物なの?」

玲の声は震えていた。

「わからねえ・・・でも、危険なのは間違いない」

大輝は、冷静に状況を見極めようとしていたが、その声には焦りが滲んでいた。

周囲の客たちは次々と逃げていったが、逃げ遅れた子どもや老人が、その場に取り残された。

   §

肉片は、さらに肥大していった。今やそれは4mに達し、天井すれすれまで延びていく。そこから四方に肉片が伸びていく。更に筋繊維のような模様が浮かび上がり、肉片はどんどん太くなっていった。驚いた事に、天井まで達した肉片は、まるで意思を持つかのように形を変え始めると、それは筋肉のような塊へと変貌していった。

「まさか・・・」

大輝は、息を呑み、その変化を凝視する。

形成された筋肉の塊は、次第に腹筋や上腕筋といった人間の筋組織を思わせる形へと作り上げられていった。更に、頭部が現れ、そこから鋭く尖った角が伸びた。四方に突き出た筋肉の塊には、鋭利な爪が生え揃い、口が形成されると、鋭い牙が次々と生えていった。最後に、骨格を彷彿とさせる頭部の穴が黒く染まり、そこに禍々しい黒い眼球が二つ再生してぎょろりと、動き出した。

「な・・・あの鋭い牙と爪と角・・・この特徴は・・・」

大輝は、声を出すが思わず震えてしまった。

「ま、まさか・・・八年前の・・・あいつと同じ牛鬼(うしおに)なのか!」

その光景を目の当たりにし、大輝の全身から冷や汗が噴き出した。

玲の瞳にも恐怖が宿った。

「う、嘘だ! アイツは・・・お父さんが命を犠牲にしてまで倒したはずなのに! なぜ、まだ、生きているの!」

玲の言葉に、大輝は、目を鋭く細めた。

「お父さんが・・・命がけで倒した?玲、それってどういうことだ! 親父は逃げたんじゃないのか!」

それを聞いた玲は唇を噛みしめた後、弱々しく答えた。

「ご、ごめん・・・この件が終わったら、ちゃんと話すよ・・・」

「玲、必ず話せよ!」

「うん・・・分かっている・・・」

二人の会話を断ち切るかのように、突然、牛鬼が咆哮を上げた。その咆哮は、建物全体を揺るがすような轟音となり、天井から粉塵が舞い降りた。

「不味い、話している時間はない! 玲、早く、ここから逃げるぞ!」

「ま、待ってよ、お兄ちゃん!」

「よし、走るからな! 玲、俺は、走るのに集中するからすまないが周囲の状況を見て指示を頼む!」

「了解!」

大輝が玲が走り出したその時、建物内のあちこちから悲鳴が沸き起こった。人々が雪崩のように逃げ出し、大輝たちに向かって押し寄せてきた。

「くそっ、これじゃまともに逃げられない・・・!」

群衆が出口に向かうと、牛鬼はその動きを見て素早く反応して来た。圧倒的なスピードで動き出し、逃げる人々に迫ると、突然速度を緩めて周囲を見渡した。

「何を・・・」

大輝が呟いた、次の瞬間、牛鬼が入口付近の人々を手で殴り飛ばした。その一撃で天井が崩れ、入口が瓦礫で塞がれた。

「うわ、あああ!」

群衆の中から悲鳴が響いた。

瓦礫の直撃を受けた人々は、無惨な姿へと変わっていった。顔が潰れてひしゃげ、骨が砕け散り、腕や足が不自然な方向に曲がってしまった。ある子供は瓦礫に挟まれ、上半身と下半身が切断されてしまった。牛鬼に無残に殺された人達から流れ出したドロッとした血は、床を真紅に染め上げ、広がる惨状に周囲の人々がさらに恐慌状態に陥った。

「最悪だ・・・」

大輝は、顔をしかめながら、瓦礫を越えて出口を目指した。しかし、途中で立ち止まった。

「ダメだ、瓦礫の山で、出口が塞がっている!」

「どうしよう、お兄ちゃん・・・出口が塞がれたうえに、複数の牛鬼がいるよ。このままだと私達・・・。食べられちゃうよ!」

玲の声は震えていた。

「おい、玲! 落ち着け! 大丈夫だから!」

「い、いやー! まだ死にたくない! 誰か……助けてよ!」

玲の叫び声に、大輝が力強く言った。

「玲! 自分を信じろ! 今まで訓練を頑張ってきただろ?きっと牛鬼だって倒せる!」

玲は、涙目で頷いた。

「う、うん・・・」

その時、近くで泣き叫ぶ子供の声が聞こえた。

「ママー!」

子供の方に目を向けると、牛鬼の爪がその小さな身体を引き裂こうとしていた。

「子供が危ない!」

大輝は迷わず猟銃を構え、牛鬼の眼を狙って発砲した。

「パン、パン!」

銃声が建物内に響き渡った。だが、牛鬼はバックステップで弾丸を全て避け、怒りの表情を浮かべてこちらを睨んできた。

「くそっ・・・当たらなかったか!」

牛鬼が、咆哮を上げると、大輝達に向かって猛然と走り出してきた。

「玲、走るぞ!」

「う、うん!」

「牛鬼は、鼻がいいから匂いの強いものを全身につけろ! 玲、このデパートの高級な化粧品を頭から掛けろ。牛鬼の予知をかいくぐる」

「なるほど、でもどうやって化粧品売り場に行くの?」

「女のお前なら、わかるだろ。ほら、さっきの案内図。それに、お前は「うさぎ取り名人」だろ。その、空間把握なんちゃらで!」

「えっ、無知茶ぶり、お父さん譲りだね!」「でも待って」一度、目を閉じた玲はパンフレットの地図を見る。ふーっ、と息を吐き、言い放つ。

「お兄ちゃん、ラッキーよ。このフロアにある!」

「だが、問題はどうやって化粧品のお店まで行くかだな。スピードを上回るパワーがあるから厄介だ。かなり分が悪い。あのパワーを防げる方法が思い浮かばなくってな。前の牛鬼と同じなら、隠れても俺の匂いで、居場所と行動が読まれる」

「う~ん。私、実はおしゃれで、香水をつけているんだ。お兄ちゃんにもかけてあげるね。そこまで強くないけど。いずれにしても外に出ないとジリ貧だわ。お兄ちゃん、あの道を通って!」指先にはパーティションで区切られた催事コーダーだった。

「いや、でもあのパワーだとすぐに壊されちゃうんじゃあないか?」

「大丈夫、私を信用して、道が頭に浮かぶの」

「でも、多くの時間を稼ぐなら、それしかないよ。多分、一ヶ所につき十秒から三十秒くらいなら稼げると思うからね」

「なるほど分かった。他にも思いついたらどんどん言ってくれ」

「了解。お兄ちゃん、私に任せて」

「ブオーオー」

「不味いな。構造上、狭い道は限定される。それに牛鬼はちょっとの障害物なら、それごと突破してくる」

「私に任せて、私がおとりになる。お兄ちゃんは出口を目指して」

「えっ、玲はどうするんだ」

「私には考えがある!」

 玲は、音をたてて、左に進む。牛鬼たちが玲に引きつられているうちに大輝は右に折れて、非常階段にむけて走った。

しかし、牛鬼はそれを読んでいたように、大輝の前に立ちはだかった。大輝は、夏物を着たマネキンを片手でつかみ、牛鬼に投げた。牛鬼はよけると同時にマネキンをつかみ頭からかぶりついていた。その瞬間を待っていた。大輝はマネキンに猟銃を向けると、頭を粉々に打ち破った。予期せぬ破片が牛鬼の目をかすめた。一瞬の間が出来た。大輝は無事に非常階段の扉を開けた。

玲は、持っていた水筒に床に流れる血を付けて、牛鬼に投げた。牛鬼は、両手でキャッチして、それを喰らおうとした。玲は、猟銃で、水筒を狙った。弾丸は、水筒をかすめたが、勢いを増し、牛鬼ののど元に刺さった。

玲は、その隙にトイレに駆け込んだ。トイレの避難用のガラス窓を消火器で叩き割った。

「これで外に行ける」

上半身を窓枠に手をかけた瞬間に背後から牛鬼の手が伸びる。押し出された瞬間に頭から非常階段の踊り場まで落ちる。運よく、大輝が階段をおりるところで、玲を両手でキャッチした。

「おかえり、玲」

「バカ言わないでよ」

と言いつつ横に転がり一段とばしで駆け降りる。大輝も後を続く。刹那、ガッシャン。牛鬼が頭上から階段に飛び降りる。

「ありかよ!」

玲は一瞬、空に浮いたが、片手で手すりをつかみその反動で、階段に戻る。大輝も滑るように階段を下りていく。

(玲にしても、母ちゃんにしても牛鬼を引き付けているの何かがあるのかな?)

「玲、ここ何階?」

「わからない」

「たしか五階よ。喋ってないで、降りる。すぐ来るよ。牛鬼!」

ズシャ、ズシャ、次々と牛鬼が下りてくる。大輝は三匹目の牛鬼が下りる瞬間を狙って、階段を打ち抜いた。牛鬼は階段の手すりに刺さり、身動きが取れない。

「やったか・・・?」と大輝が息を切らしながら呟いた。

しかし、階下を覗き込むと、そこには血の一滴も流さず平然としている牛鬼の姿があった。それどころか、落とされた怒りに燃え、自分たちを追い詰めようとデパートの壁に爪を突き立て、驚異的な速度で登り始めていた。

「何だ、あの速さ・・・!」

大輝の顔が青ざめ、玲は、怯えた声を上げた。

「不味いよ、お兄ちゃん。このまま下に降りたら、あいつに近づいちゃう!」

その言葉を聞いた大輝は咄嗟に玲の手を引き、非常階段を駆け上がった。二階を越え、三階に到達すると、彼は玲を背後にかばいながら一瞬立ち止まり、下を確認した。

「まだ一階の壁にいるな・・・」

牛鬼の位置を確認すると、大輝はほっと息を吐いた。しかし、その安堵も束の間、すぐに気を引き締め直した。

「玲、大丈夫か?」

と問いかけたが、返事がなかった。

「おい、玲、聞いているのか?」

違和感を覚え振り返ると、玲がその場に倒れているのを目にした。

「玲!」

大輝は慌てて玲に駆け寄り、その身体を支えた。焦りながら手首に触れ脈を測ると、正常な頻度で鼓動しているのが分かった。息もしている。

「ただ、気絶しているだけか・・・」

大輝は、安堵のため息をついた。しかし、その瞬間、後ろから重い物音が聞こえてきた。

驚いて振り返ると、そこにはもう一体の牛鬼が立ちはだかっていた。

「嘘だろ・・・こんなところにもう一体いたのかよ!」

牛鬼は、鋭い爪を振りかざし、大輝に襲いかかってきた。

「くそっ!」

大輝は倒れている玲を抱え、咄嗟に後ろへ飛び退いた。しかし、牛鬼のスピードは異常だった。避けきれずにその爪が大輝の腕をかすめ、傷を負わせた。赤い血が勢いよく噴き出し、痛みで顔を歪ませる。それでも、大輝は、玲を守るように抱えたまま、後ろへと下がり続けた。

やがて彼らは破壊された非常階段の角に追い詰められ、行き場を失った。

「くそっ、もう逃げ場がない!」

その時、玲が突然目を覚ました。

「玲、気がついたか?」

大輝が安堵の声を漏らした次の瞬間、玲が叫び声を上げた。

「うわあああああ!」

その声は、これまで聞いたことがないほど悲しみに満ちていた。

「どうした玲! 大丈夫か?」

大輝は、必死に玲の顔を覗き込んだ。しかし玲は、その場で何かを必死に訴えようとしている様子だった。

「玲、一体何が・・・」

大輝が問いかけようとしたその時、足元から「バキバキバキ」という不穏な音が響き始めた。驚いて下を見ると、さっき落下して一階付近にいたはずの牛鬼が、すぐ近くに迫っていた。

牛鬼は、非常階段の柱を掴み、それを引き裂きながら登ろうとしていた。その結果、柱が壊れ始め、非常階段全体が不安定になっていった。

「嘘だろ・・・!」

数秒後、非常階段全体が「バキバキ」という音を立てて傾き始めた。

「まずい、急いでデパートの中に戻らないと!」

大輝は玲の手を掴み、必死にデパートの中へ向かおうとした。しかし、それを見た牛鬼が鋭い爪を振りかざし、再び二人を攻撃してきた。

傾き始めた非常階段を見て、大輝と玲は慌ててデパートの中に戻ろうとした。しかし、その様子を見た牛鬼が咆哮を上げながらこちらに向かって攻撃してきた。

「逃げろ!」

大輝が叫んで走り出した。だが非常階段の狭さと、牛鬼のリーチの長さが大きな壁となり、まるで狭い橋の上で槍を持つ敵と戦っているかのような状況に陥ってしまった。時間を稼がれている間に、ついに階段の支えが限界を迎え、崩れ落ちた。

「うわああああああ!」

「キャー!」

二人の叫び声が響き渡る中、重力に引かれるがまま身体が宙を舞った。

「玲! 俺の背中に捕まれ!」

大輝が声を張り上げて叫んだ。

玲は、恐怖で震えながらも、必死に兄の背中にしがみついた。

「わ、分かったよ。でも、大丈夫なんだよね?」

「正直、賭けだが、今はあの縦に並んでいる宣伝の旗を利用して落下速度を落とすしかない。これしか無いんだ」

「う、嘘でしょ?そんな事ができるの?」

それを聞いた玲の声は、震えていた。

「玲が片手でも俺から離せれば、成功確率が上がる。でも、こんな状況、初めてだよな。挑戦して失敗しても、文句は言うなよ」

玲は、目を閉じて深呼吸をした。そして、固く決意を固めた。

「私、頑張る。だって、ここで失敗したら死んじゃうのでしょ?」

「ああ、このままだと牛鬼に殺される」

「だったら、あがいてみる!」

覚悟を決めたような表情になった玲は、そう言うとポケットからカルビナを取り出した。あの旗のポールにひっかける。

「あそこに飛び移れば、牛鬼は追ってこない。」

大輝が声を上げた。彼も体を大きく広げ、勢い良く飛び出した。

「うおおおお、届け~!」

大輝の背に乗る玲が片手をポールにかけた。反動でポールを中心に時計回りに二人はくるりと回った。玲は叫ぶ。

「とっ、届いたけど、片手しか掴めなかった! 早く旗に掴まって!」

「わ、分かっている!」

大輝は必死に腕を伸ばし、なんとか旗に手をかけた。

「よし、掴めた! あとは、もう片手も掴んで……っと」

その時だった。上から「ボキボキボキ」という嫌な音が聞こえてきた。

「えっ嘘だろ・・・?」

大輝は、恐る恐る上を見上げた。

「ちょっと待って!」

玲は、恐怖のあまり叫んだ。それは、旗を固定している棒にひびが入っていて、そのひびが徐々に大きくなっていくのが見えたからだった。

「しょうがない・・・この旗より、下の宣伝旗を掴むしかない!」

「えっ、それ大丈夫なの?」

玲が不安げに聞いた。

「正直、かなりリスクが高い。でも、このままじゃ間違いなく大けがだし、もう今すぐ旗を支える為の棒が折れそうだ!」

玲が答える間もなく、「ボキボキボキ」という音が止まり、旗が崩壊した為、二人とも再び落下し始めた。

「さっきみたいによろしく頼むぞ!  期待しているからな!」と大輝が叫んだ。

「うん、頑張るよ!」

玲は再び布を広げ、空気抵抗を利用して旗の方へ向かう。しかし、今度は高度が足りず、旗の下をギリギリ通り抜けてしまった。

大輝は一か八かで猟銃を隙間に引っ掛け、屋根と壁の間に懸垂している状態でぶら下がった。それもゆっくりと剝がれていく。

「失敗か・・・」

と大輝は、大怪我をする覚悟を決めかけた。

その時、どこからかガラガラという音が聞こえてきた。

「え・・・?」

その音に大輝は、思わず混乱しながら周囲を見回した。

突然、落下が止まり、誰かが叫ぶ声が耳に届いた。

「おい! 大丈夫か!」

「不味いな・・・疲労で幻聴が聞こえるようになったか?」

と大輝が呟くと、玲が兄を見上げて言った。

「お兄ちゃん! 幻聴じゃないよ! 誰かが紐を引っ張ってくれているみたいだよ!」

玲は、助けてくれている人に声を張り上げた。

「すみません!  そのまま紐を引っ張り上げ続けて助けて下さ~い! それと、警察に電話をして下さい!」

上から複数の声が応じた。

「分かったぜ!」

「分かりました!」

「任せてくれ!」

紐を引っ張る力が強まり、二人の体が徐々に安定し始めた。大輝は胸を撫で下ろしながら、心の中で救助者たちに感謝の言葉を繰り返していた。

三人の返事の声が聞こえると、ロープが少しずつ上に引き上げられていった。

「あと少しの辛抱なので頑張って下さい!」

「頑張れ! 俺の手に捕まるんだ!」

    §

二階の窓から中に引っ張り上げられると、このまま落下して死んでしまうかもしれないという緊張感から解放され、大輝と玲は一息ついた。助けてもらった礼を述べると、簡単な自己紹介をすることになった。

「まず、俺の名前は大輝で、それで、この人見知りが、俺の妹で、名前は、玲。」

「人見知りって」玲が思わず、大輝をにらんだ。

「悪かったって。それで、そっちの名前は?」

大輝が問いかけると、真面目そうな男性が一歩前に出て名乗り始めた。

「私の名前は、わ・・・」

その瞬間、平和な空気が突如として崩壊した。目の前にいた三人グループがいつの間にか現れた牛鬼に蹴り飛ばされ、吹き飛ばされてしまった。

「嘘だろ! 君たち、起きてよ!」

慌てて彼らの手首を握り、脈を測った。しかし、脈を感じることはできなかった。

「ま、まさか・・・クソ、手遅れだったのか・・・」

「う、嘘でしょ・・・」

玲が愕然とし、その場に立ち尽くしてしまった

大輝は、唖然としている玲の手を掴み、逃げ出した。

「玲、走るんだ! ここに留まってはいけない!」

二人が走り出すと、背後で何かが潰れるような音と、液体が飛び散るような音がした。その直後、何かが右横を横切る。驚いて振り返ると、それは先ほど助けてくれた三人のうちの一人の赤いパーカーを着た男の血で染まった生首だった。

「イヤァァァァ!」

玲は、恐怖に叫び声を上げた。

「玲、落ち着け! 大丈夫だから!」

しかし、玲はパニックを起こし、走るどころではなくなってしまう。大輝は仕方なく彼女を両手にかかえ、走りだした。

「不味いな・・・。追いつかれるかもしれない・・・」

不思議なことに、後ろを振り返ると、そこに牛鬼の姿はなかった。

「もしかして、今はあの人たちの体を食べているのか・・・」

彼らには、申し訳ないが、逃げ延びられたことにほっとする気持ちが湧き上がる。大輝は慎重に階下へ降りる手段を探していると、武装した集団を発見した。その集団は警察だ。

「すみません! 警察の方ですか」

警察官たちが振り返ると、一人が近づいてきて話しかけてきた。

「そうです。避難してきたのですか?」

「はい、あのデパートの五階から逃げてきました。名前は、高橋大輝。こっちは妹の玲です」

大輝は、少し荒い息を整えながら答えた。

警察官の一人、ふっくらとした頬とががっしりとした体つきの中年の男性が、眉をひそめながら一歩前に出て喋り出した。

「ここで何があったか教えてください」

大輝は一瞬ためらったが、玲の震える手を握りしめて決意を固めた。

「はい、勿論です。自分でも信じられないことが起きました……」と語り始めた。

「あのデパートの五階のカバン売り場で、スーツケースが突然、開いて牛鬼が四体現れたんです。その牛鬼は人間を殺して暴れているのです」

その異常な光景を思い出し、大輝の声が震えた。

「僕らは、必死に逃げ回った末に、警察官の皆さんを見つけて、助けを求めました。お願いします、警察官さん、私たちを化け物から助けてください!」

大輝の訴えに、警察官は深いため息をついた。

「ねえ、君、正直に話してくれてありがとう。だけど、あのデパートでそんなことが起きているとは思えないんだよ。今、本庁に確認中だから待ってくれるかな?」

その中年の警察官は、腕を組みながら冷ややかな目で続けた。

「牛鬼だって。映画か何かの特撮じゃないの?君らは、うーん、そうだエキストラさんでしょ。警察をからかわないでよ。本当に。でも、何か、起きているんだね。わかった、わかった」

玲が驚いたように大輝を見た。彼の訴えが全く信用されていないことに気づき、思わず肩を震わせた。

その時、別の警察官が穏やかな声をかけてきた。ほっそりした体型で、剥げた頭に皺の多い顔を持つ彼は、人の良さそうな表情をしていた。

「ねえ、君たち、ちょっと事情を詳しく聞きたいから、これから交番に行こうか?」

「えっ、なんで交番に行くの?」

「君たちの背中に背負っているのって猟銃でしょ。それ本物だよね。所持免許はある?」

「だから、牛鬼が暴れていて、私たちのカバンも落としてきたんだよ」

玲が早口で聞き取れないくらいの言葉で話した。

「とりあえず、交番に行こう。そこで、牛鬼の話をきくよ。それが本物ならね。」

「交番なんて言っている場合じゃない。疲れてもない。戦う気がないなら、おじさんたちだけで、交番に行って休んだら」

「アハハ。そんなつもりじゃなかったんだけど、そう勘違いさせてしまったならごめんね。じゃあ、言い直すよ。おじさん達が疲れちゃうから交番まで同行してくれる?」

「化け物を倒してくれたら良いですよ」

大輝が不満そうに返すと、警察官は優しい口調で提案した。

「じゃあ、その化け物?4mもある巨人の倒し方を詳しく聞かせて欲しいから、交番に行こうか。君の言うことが正しいなら、ここは危ないから、早くここを出て交番に避難しないといけないだろ?」

玲は、しばらく黙り込んでいたが、大輝を見上げて言った。

「信じて貰えなかったけど、確かに警察の言った通り、ここは危険だよね。移動した方が良いと思う。交番に着いてから、話をちゃんとする方が良いかも……」

大輝は悩みながらも頷いた。

「警察官さん、分かりました。危ないここを離れて、交番で落ち着いて話をしましょう。でも、その代わり、最初から私が嘘を吐いているという前提で話すのは、辞めて下さい」

穏やかな警察官は微笑みながら頷いた。

「ええ、分かっていますよ。私は元々、君たちが嘘を吐いているとは思っていませんから、そんなことは、しませんよ」

「その言葉、嘘だったら私は何をするか分かりませんよ。もし破ったら……。そこを考えて行動してくださいね」

大輝がきつめの口調で返すと、警察官は苦笑いした。

「ハッハハ、破らないからその言葉は、関係ないな」

「上田、この子らを交番に案内するように。丁寧に扱うんだぞ。そして、決して逃げられないように、なっ!」

「ハッ、了解しました」

そう言うと黒いメガネをかけた上田と言う男は敬礼をした。

「じゃあ、君達は付いて来て」

「玲、この人たち、怪しいね」

大輝は小声で話をした。

「確かに、お兄ちゃんの言う通り違和感がある」

「もしかしてこの話、何か裏があるのか?」

「裏?」

「いや裏が何かまでは、分かっていないけど、なにかある。4mある巨人なんて一言も言っていないのに奴らは何か知っている」

「ここは、従順なふりをして探ろう」

    §

穏やかな顔をした警察官達は、最短の道で交番に到着した。交番に入ってすぐに

「まず、そっちの女の子は別室で調書をとる。この女性警察官に付いて行ってください」

「了解しました。警部補」

隣の衝立にはスーツを着た若い髪の毛を後ろに一本縛りしている女性が早口に小さい声で女性警官と話していた。忘れ物でもしたのだろうか。

「急いでください!」とだけ聞こえた。

 上田と言う警官は大輝の前に座った。しかたなく、大輝も椅子にすわったが、上田の形相が変わった。大輝は、見逃さなかった。

「それじゃあ、いくつかの質問をこれからするから、正直に答えてくれ」

 額面通りの質問であるが、顔、仕草、体全体の威圧感が表出して、大輝にプレッシャーを掛かって来た。もう一人の警官がドアのカギを閉めた。大輝に分からないようにゆっくりと。

「クッ、お前たちは本当の警官じゃないな。まるで殺人鬼の顔をしているじゃないか。何が狙いなんだ」

大輝ははっきりとした口調で話す。

「おや、何か勘違いをしているね」

「君たちの訴えを調書にするんだよ。職業柄、このような聞き方しか、知らないんだよ。ごめんな。最初の質問だ。お前達は、何故、さっきのデパートいたのだ?」

「買い物だよ。妹の玲の服を買ったり、家具をみたりね。それで、デパートに行ったんです」

「なるほど分かった」

「次の質問だ。よく聞け! 私の顔に見覚えは、あるか?」

「記憶にないな。東京ではそんなに多くの知り合いは居ない。霞里村にはお巡りさんは居ない」

「クックク・・・。俺を知らないとはな。そうだ、俺とお前は初対面だ。だがお前の卑怯な親父とは何度も会っている。お前の出身の霞里村の村長の息子だ」

上田は興奮して机を掌でたたいた。交互に首筋をかき、何か火傷のような跡をむしっている。衝立の向こうにいる女性は背伸びして、大輝と目があう。

「だから、さきほどから言っているようにあのデパートを取材したいの。中に牛のお化けがいるというじゃない。私は鹿児島からきているのよ」(会話はとぎれとぎれだが、忘れ物ではないようだ。鹿児島!?)

上田が、机をもう一度たたく、大輝の視線がもどる。

「お前も八年前の村の惨劇を知っているだろ!」

そこに、女性警官に手を引かれ、玲が入ってきた。

「私、思いだしたの。八年前のこと。うちの父は逃げてなんかいない。牛鬼の背中に飛びつき自爆したんだ。村を、私たちを守るために犠牲になったの。粉々にちって、破片も残っていないの」

「決して、卑怯に逃げたんじゃない!」

「証拠に牛鬼はいなくなったんじゃない!」


  §

新宿の交番の一角で、二人の警官と二人の青年がにらみ合っている。外にはパトカーやら、救急車の音、火事による黒煙があたりにもくもくと登っている。カラスが頭上を旋回している。

「お嬢ちゃん、そんな都合のいい話はあるわけないだろ。俺の父親はお前の親父に殺されたんだ。おまえの親父がヒトマルヨンマルを倒した。へっ、笑わせるな。うちの親父が身体をはって、倒したんだ。誰も見てないだろ。俺は別のところにいただが、親父が銃をもってあの恐ろしい牛鬼に挑んだと聞いている。見ている人がいる。それが証拠だ」

「ヒトマルヨンマルが暴れている時、俺をおやじは蔵の中に無理やり入れて隠した。爆音でいつの間に気を失ったがな。お前の親父なんか見ていない」

玲は、はっきりした声で話した。

「村長さんは、ほとんど最初の攻撃でバラバラになって、即死だった。隠れていた父は、牛鬼の後ろに回って機会を狙っていた。別のところに隠れていたあなたに分かるわけないわ。私はお父さんを信じている」

大輝は初めて聞く話ばかりで、何も話すことが出来なかった。玲に加勢もできなかった。ただ、玲の言っていることは信じたい。あの強い、優しい親父が……、正しい行動をしていたことを聞いて、胸が熱くなった。目頭が熱くなり、呼吸が出来なくなった。「おとは、正しかったんだ」心の中で叫んだ。

意を決したように大輝は、

「俺達は、これからアイツを倒しに行く!」

「嘘つけ! お前も父親のように逃げるつもりだろ!」

「そんなことはない。ところで、お前は牛鬼をなんで、ヒトマルヨンマルと呼ぶんだ」

上田は、一瞬、しまったと言う顔をしたが、自分の父親がバカにされたと思い、饒舌になっていた。

「お前らは、知らないだろう。さっきの神谷警部は軍人の血筋が流れている。第一次世界大戦で日本国が人造人間を作っていたのだ。殆どが囚人であるが、屈強な体を肥大化させ、増強剤で巨人化に成功。統合を取るために牛の頭部、脳みそを使ったんだ。遺伝子レベルで操作した。世界でも類を見ない大発明だ。霞里村であばれたヒトマルヨンマルはその生き残りだったんだ。1040番目に開発された人造兵器と言うことだよ。大輝!」

「神谷様は、このヒトマルヨンマルを複製することに成功した。この神の国を世界の頂点に区凛するためにね。アハアハハッ」

 そう言いながら、上田は大輝の首を絞めようと手を伸ばした。その手が首に触れる寸前、突如、地面が揺れて壁が崩れた。鉄筋コンクリートが崩れ、上田の後頭部に落ちた。上田の両眼は飛び出て、痙攣をして息絶えた。

大輝は、さっと立ち上がり、瓦礫をかわした。

「痛てて、クソ、受け身で回避したのに、切り傷だらけになっちまった。玲、大丈夫か?」

玲は、吹き飛ばされて、奥の部屋で仰向けになって動かない。女性警官がその後ろに下敷きになっている。

「いてて、お兄ちゃん。何とか大丈夫だよ。ここを抜け出さないと」

二人はコンクリートを押しのけて、外に出る。先ほどの衝立の先にいた女性を助けた。

「しっかりしてください。逃げますよ」

「あ、あ・・・。あなたたちは?」

「僕らは、牛鬼を倒しにあのデパートに戻ります。お姉さんは早く逃げてください」

玲は、女性の脇を後ろから両手でつかみ起こしてあげた。その女性は、足元のよごれをはたき、立ち上がった。

「貴方達、霞里村の子供なんだね。高橋碧さんのお子さん?」

「私は八年前の事件を追っている記者なの。この名刺を持ってて、落ち着いたら連絡頂戴、さっきの話を聞きたいの」

そう言うと玲の胸に名刺を押し付けて、落ちたハイヒールを拾い上げ、駅の方にふらりと歩いていく。

   §

 見送る大輝と礼に、ふと後ろに気配がした。ガシャン!大きな手が大輝めがけて宙を泳ぐ。本体は見えない。やつだ!

「クソッ、こっちは、煙でアイツらが見えない」

「お兄ちゃん、匂いで追尾しているんじゃない?」

後ろに飛びながら玲が叫ぶ。

「こ、これは反則だろ。どうやって勝てば良いんだよ」

逃げるのが精いっぱいで、肩にかけた猟銃を構える暇もない。そこに整然とそろった、軍隊が見える。

「自衛隊だ‼」

「こちら陸上自衛隊第7中隊第1小隊。避難対象者の移送、全員完了。安全圏に到達済み。以上」

「こちら陸上自衛隊第3中隊。これより“1040”作戦フェーズ2へ移行する」

「第3中隊、了解。“1040”作戦フェーズ2、承認。目標区域D―2の制圧を優先。進捗は逐次報告せよ」

「了解。第3中隊、D―2へ進出開始。第1小隊は右翼展開、第2小隊は支援位置へ。後方部隊、待機」

「こちら第1小隊。D―2区域右翼より展開中。……視認、巨大生命体を確認。体高3メートル超、二足歩行、角あり。既知の動物種と一致せず。警戒態勢に移行」

「繰り返せ、第1小隊。敵性存在を確認したか?」

「はい、確認。目標は武装なし。だが、極めて大型。行動パターン不明。こちらの存在には既に気づかれている可能性あり」

「こちら第2小隊。ドローン映像で目標確認。外見、人型に酷似。胸部に異常な熱源集中。攻撃性能は不明だが、機動力に警戒が必要」

「こちら指揮所。映像確認。目標を“ミノタウロス型存在”と仮認定。D―2区域、緊急危険区域に指定。交戦は許可するが、制圧を優先。被害を最小限に抑えよ」

「第1小隊、第2小隊、目標への攻撃は制限付き許可。各隊、距離を保ちつつ包囲体制を確立せよ。後方支援班は突発負傷者に備え待機」

「了解。こちらより目標に接近、外周制圧を開始。動きに変化あり──! 接近してくる! 目

標、突進――!」

「目標、急加速! こちらも未視認! 火力支援、開始する!」

「被弾無し! 回避行動に移行! くそっ、装甲車が――吹き飛ばされた!」

「第1小隊、応答せよ! 被害状況を報告!」

「こちら第1小隊──車両1両大破、負傷者2名、意識あり。歩兵部隊は退避中。目標、依然として行動継続!」

「制圧射撃継続中!──が、目標に有効打なし! 装甲のような外皮を確認!」

「了解、第1小隊。後方支援班、負傷者回収に向かわせる。全隊、目標の弱点を探れ。照準は関節部、頭部に集中せよ!」

「了解。火力支援班、MLRSをチャーリー4へ展開開始。全隊、目標を同座標へ誘導。命中精度重視、距離を保て」

「第2小隊、火線調整。目標を右側へ誘導中──進路変更開始!」

「MLRS、発射座標入力完了。GPS誘導設定中。発射準備に入る、30秒後に弾着可能」

「第1、第2小隊、退避開始。安全圏への移動を優先!」

「退避開始──だが、目標が突進! 再加速中!」

「火力支援、即時開始を要請! 危険距離接近中!」

「座標固定、射撃開始──MLRS発射!」

「着弾確認! 爆圧発生!──熱源、急激に低下!」

「煙の中、目標視認できず……!」

「全隊、警戒を続行。ドローンによる状況確認を優先。残存の可能性を排除するな」

「目標の沈黙を確認。ただし状況未確定。後続の偵察・掃討部隊を投入する。全隊、警戒態勢を維持せよ」

「自衛隊が来てくれている。これで助かった」

「玲、俺らも逃げよう……なっ嘘だろあれだけの攻撃を受けて無傷だと!」

 迷彩のヘルメットを顎紐にかけ、迷彩服とライフルを持つ自衛隊。戦車だってある。隊列をなして颯爽と進む。隊長が煙を立ち上る方向を向けて、号令をかける。

 迷彩のヘルメットを顎紐にかけ、迷彩服とライフルを持つ自衛隊。戦車だってある。隊列をなして颯爽と進む。隊長が煙を立ち上る方向を向けて、号令をかける。

「全隊化け物の眼を撃て!」

「「「「了解」」」」

次の連続した発砲音と共に無数の弾丸が飛び交った。

しかし銃弾は、全て被弾する事は、無かった。その原因は、射手の経験不足だけではなかった。4mもの巨体にして、俊敏性と霞里村で見せた「予知能力」で全弾をかわした。震える手で打った玉だけは着弾した。ただ、熱い胸板、急所を守る熱い骨。通常の攻撃では、牛鬼はびくともしない。それでも部隊はひるまない。

「おっ、MP5とバレットM82じゃないかラッキーだぜ。MP5ならフルオートができるしバレットM82は、貫通力が高いからこれなら勝てるかもしれない!」

次の瞬間、大輝の使っているMP5と玲の使っているバレットM82により、弾丸の雨が牛鬼を襲った。銃弾が牛鬼に被弾する寸前で牛鬼は、眼を庇った。その結果ほぼ全ての弾が手に被弾したのであった。あえて予知能力を使わないようにも見えた。戦車の砲台がまわる。ズドーン、ズドーン2回の雷鳴が起きた。牛鬼の背後のビルが被弾したが、かすり傷も無い

隊員たちは、呆然とした表情をしていた。

「これから先の訓練を受けていない。隊長どうすればよいのでしょうか!」

牛鬼は戦車に飛びつきか牛鬼にとって危険な砲弾を曲げる。搭乗していた隊員は逃げ惑う。「あ、わああ」

牛鬼は見逃さない。言葉通り握りつぶす。隊をなした隊員も一人、二人と逃げ惑う。

「うわああ、助けてくれ」

隊長は、隊員の首根っこを掴むが、解かれて、呆気に囚われている。なすすべがない。無表情なまま立膝を突いて、牛鬼に蹂躙されてしまった。周りで見ていた群衆が一時は希望の光を見たが、それぞれ、口で言葉にならない言葉を発して逃げ惑う。敗北だ。

       §

大輝と玲はそれぞれ二体の牛鬼と対峙した。化粧品を頭にかけて、そこらへんにも振掛けた。

「こんなのおまじないにもならない」

大輝は、目をつぶり、開けた。無我の境地になった。サバイバルゲームで的をねらってから、引き金を引いているようでは、脳の大脳まで届かない、脊髄反射で銃を撃った。打ちまくった。隊員の残した火器を使って、その一発が牛鬼の鼻に当たった。肉片が飛び散り、骨を砕いた。

嗅覚を失った事により錯乱状態になった牛鬼は、手を乱暴に振り回した。しかし、その動きの不規則性な動きとなっていった。まるで視力を失った動物のように暴れていた。チャンスだ。大輝と玲は、牛鬼の背後にまわり猟銃を立て続けに十発はなった。耳をかすめた弾が数発あったが、一発が眼を貫通し脳に突き刺さった。牛鬼は前のめりに倒れる。

それを見ていた群衆が足を止めた。

「あの青年は、誰だ!」

「うわあ、獣を倒した」

歓声があがった。

大輝は、青いパーカーを着ていた。玲もまた、水色のTシャツを着ていた。上空にはテレビ局のヘリコプターが飛んでいる。バラバラ。

「青い少年が化け物をたおしたぞ!」

「やった!」

「水色の少女も戦っている」

自衛隊の戦車が前のめりに倒れている牛鬼に砲弾を撃ち込んだ。ドーン。ビルにあたり、ガラスもろとも急降下に牛鬼の背後から心臓を突き刺さった。

一層の歓喜がわいた。大輝はM82を右手に突き上げた。

  §

トランシーバーから音がなった。

「こちらは神谷だ。定期連絡がないぞ。どうした。ヒトマルヨンマルを回収しろ。こちらは二体回収した。これよりゴーマルイチマルを放つ。そこは危険だから退避しろ。何しろや奴は、ヒトマルヨンマルの十倍の強さだからな。それに一度だしたら、七日間は制御が聞かない。死の七日間だ」

トランシーバーの奥に声が聞こえる。

「神谷君、中々の成果ではないか。かの国もこの兵器を気に入っているよ」

 この言葉を聞いた大輝と玲は、思わず愕然とした。何故なら軍の一部の人間は、牛鬼の存在を知っていて、隠蔽しようとした。警察よりも上層部が牛鬼の存在を隠蔽させようとしたという事だ。その時またトランシーバーから音が鳴り始めた。

「なるほど。ヒトマルヨンマルに殺されてしまったようだな。ゴーマルヒトマルの開放。ビデオカメラの設置後回避!」

「・・・」

そこでトランシーバーとの通信は、終わった。

「玲、俺らも逃げないとやばいぞ。作戦を立てないと」

「了解!」

「交番ならあれがあるはず」

 周りを見渡すとバラバラになった箱の下に赤い物が見えた。急いで箱を退かすと思ったとおり消火器だった。しかし大輝は、消火器を手に入れるのに夢中になってしまい牛鬼の足が上から迫っている事に気が付くのが遅れてしまい寸前のところでかわした。玲に声をかけられなければ、死んでいた。

その時、玲は、急いで気絶させた警察官のベストを脱がすと内ポケットから何かを牛鬼の眼に向かって投げつけた。すると牛鬼がもがき苦しみ出した。そのスキに逃げ出し玲の所に戻った。すると突然、無数の銃声が鳴り響いた。

しかしその銃撃で、鼻が潰され眼も一時的に使えないはずの牛鬼は、グオオオオという咆哮を上げるとまるでどこを弾が飛んでいるのか分かっているかのように全て、避けきった。

「嘘だろ! 目と鼻が使えないのに避けきれるのかよ」

「お、お兄ちゃん、今、この牛鬼が咆哮を上げた後に微かに咆哮が聞こえた牛鬼同士で会話できるみたいだよ」

「う、嘘だろ。つまり全ての牛鬼の鼻を潰さないと牛鬼は、嗅覚で俺と玲を探せなく出来ねえのかよ」

「ねえ、お兄ちゃん自衛隊が来たから一旦、前衛から後衛に移動しようよ」

「うん」

「自衛隊って救助活動ばっかりで、警察より発砲した経験無いと思うけど大丈夫なのか?」

「お兄ちゃん、正直に言ってしまうと、厳しいよ。でも自衛隊は、プロだから素人の判断だから、多分、大丈夫だと思うよ」

「そうか。なら大丈夫か」

そう言った直後、一つの悲鳴が上がった。

「うわあああああああ」

その悲鳴は足と体を捕まれて足を引きちぎられた男性隊員の物だった。足からは、鮮血が飛び散り地面に付着した。男は、泣き叫びながら悶えたが牛鬼にがっちり押さえつけられて悶える事すら出来ないだろうと思ったが、その自衛隊官の腕を掴むと投げ捨てた。地面に投げ捨てられた自衛隊佳は、あまりの痛さに大粒の涙を流しながら悶え苦しんだ。それを見て牛鬼は、男の隊員の足を口に入れて咀嚼した。その後も無残に自衛隊は、殺されていった。勿論、大輝と玲は、それを阻止しようと動いたが一瞬止める事は、できても阻止までは、できなかった。結果、派遣されてきた自衛隊は、全滅した。

「クソッ、どうすれば奴を止められるんだ」

映画のエンディングロールのように死んだ人の数が増えていく。ただ、大輝と玲の二人は、

負傷した体、精神力、戦う気力が失せてしまった。ひとまず、看護の車にのり、新宿をあとにした。 


第八章【大輝の挑戦と敗北】

新宿の病院で、大輝は手当てを受けている。昨日の対戦で、大輝と玲は、青色の戦士として、新聞、テレビ報道のトップを飾っている。

「玲、どうした。何でテレビを見て固まっているんだ?」

 不思議に思いテレビを見ると大輝と玲が警察や自衛隊と一緒に牛鬼と戦っている事が報道され自分達が奇跡の二人組と言われていた。それを見て思わず大輝も一瞬固まってしまった。

「あの騒動を撮っている奴がいたのか。撮る暇があるなら、加勢しろよな」

「おにいちゃん、すごいよ。私たち英雄だよ」

「この八年間のことを考えると嘘みたいだ」

と玲は目を大きく輝かせて笑う。大輝も嫌な気はしない。

「あの記者が書いてくれたんだな。親父のこともこんなに良く書いてくれている。親父、よかったな」

「ありがとう」

大輝達は、すぐに外に出る。ライフル屋から装備や弾を貰った。弾丸をタスキ掛けにかけた。テレビクルーが二人を追う。

そこには、牛鬼が少女に襲い掛かっている。

「ママーどこに居るの~」

「ま、まずい。女の子が母親を探して、こっちに来ちゃった!」

次の瞬間、牛鬼は、口をニターっと、歪まして子供に近づき始めた。しかも女の子は、牛鬼が近づいてきているのを気づかない。母親を探すのに必死になっている。

「クソ一か八かだ!」

 牛鬼が女の子を襲う前に、牛鬼を始末しようと走りこむ。がれきの間から一発、二発、三発と牛鬼を狙う。牛鬼は、大輝の方向に角度補正しなから、にじり寄る。大輝の足は、疲労で上手く動かない。脳のドーパミンを開放し、必死に走る。牛鬼の心臓部分を狙って引き金を引いた。しかし撃つ寸前で足に限界が来て後ろに転んでしまった。その際に、飛んで行った銃弾は、奇跡的に牛鬼の目玉を貫通し脳まで至った。牛鬼は、動きを停止して動かない。でも昨日の牛鬼のように倒れなかった。

「玲、俺はもう一体を追う。奴で最後だ。これが終わったら、親父の墓参りに村に行こうと思う。奴を仕留めれば堂々とおとの住んでいた場所に帰れる。西新宿のところで最後の一体がいると携帯に連絡を受けたんだ。大輝は走りながら、顔がほころんでいた。瓦礫を軽く超える。銃を持つ手が怠い。足のいたるところの筋肉が張る。

「俺は、俺は……」

大輝は走りながら、いつの間にかに口を開けて笑っている。右の唇を上に上げて、引きつるような笑いだった。いつしか、そこから口の中にある液体が涎として流れ出る。足が着地するたびに涎が顔面に引っ付く、それでも笑いを止められない。いままで、俺らを虐めてきた奴ら、思い知れ! 俺は英雄だあああ。村に凱旋だ! 親父、待っていてくれ。あいつらを土下座させるぞ!

いつの間に舌や唇を噛んでいて、口の中は鉄の匂いがする。サイコーだぜ!

「あ、あ、あああああ~、うへへええ」


  §

大輝が到着すると、そこはデパートと比べ物にならないくらいの焼け野原になっている。一晩でこんなにも破壊されているのか。牛鬼も居ないじゃないか。太陽の日が陰る。大輝は急に肌寒さを感じた。次の瞬間

「やつは、いる!」

直観を感じた為、上方へ喉を反らせてみた。

「こ、これは牛鬼なのか」

村の牛鬼、昨日の事だ。その眼は、知性を感じる眼をしていた。この特異体の牛鬼と目があった瞬間、口をニターっと右上に上げた。

「笑った!?」

その刹那、牛鬼がジャンプし近づき、自分の腕を掴むと切り裂いて捨てた。

「ぐああああああ!!」

黒い牛鬼は、大輝の腕を引きちぎっだ。むしゃむしゃと咀嚼している。決して食べているんではなく、咀嚼している。その証拠に、牛鬼の吐き出した腕は原形をたもっている。大輝は、後ろに飛んで、逃げた。銃や火薬は全部捨てた。ゆっくりとつるりとした黒い牛鬼は大輝に近づいてくる。大輝はぺたりと、お尻をつき、足を曲げて後ずさりする。瞳孔は開き、口も開き、目からも鼻からも液体がでてくる。

「助けてくれえー」

英雄が無残な姿をさらす。自衛隊のジープで来た玲もその光景を目の当たりにした。

そして、腕の痛み、恐怖に悶え気絶をした。そんな大輝を見届けて、牛鬼は玲が来た方向と反対に歩き始めた。これが

「死の七日間の始まりだった」

生き残った玲は、大輝を背負い車に乗せて切り裂かれた腕を布でしばり止血した。切り裂かれた腕を自衛官が拾ってくれていた。

「これがトランシーバーで言っていた牛鬼、ゴーマルヒトマル型なんだ……」

病院で緊急手術をおこなった。医者の話では、左手は完全には治らないと言われた。入院期間が長い為、家に帰る事を勧められた。家に帰りテレビを付けるとニュースがやっており奇跡の男は無残にも敗れた。とあった。報道は掌の平返しで、兄が牛鬼に敗れ人々が落胆したという報道。今回の事件をきっかけに1995年に牛鬼が現れた事件の生き残りが父親も逃げた原因とのインタビューも報道された。コメンテーターは、最初から少年に期待をする馬鹿な大人たちが悪いと話をしていた。

「何を言っているのよ! お兄ちゃんも私もちゃんと戦って敗れてしまったのよ。そんなに言うなら自分が戦いなさいよ」


第九章【玲の挑戦と大輝の復活】


それから一年間で千人の死者が出てしまった。この数は、東京に住む外国人だけでなく、日本人も北海道や海外へ逃げていき、東京は廃墟化した。アメリカや周辺国は、東京で数千人の人がなくなっているが、疫病でなくなったとデマが広がっていた。この噂のせいで、躊躇して手が出せないでいた。

「きっと疫病のデマを信じて他国の為に、自国の軍人を殺させない意図があるんだろうけど、流石に酷いよ。こうなったら私が戦って牛鬼を殺すしかない。この一年、毎日かかさず修行をしてあの頃と比べ物にならないほど強くなったんだから、私ならできるはずよ。それに牛鬼の居る場所は、ニュースが教えてくれる。これでやっと八年前に牛鬼に殺されたお父さんの仇を取る事ができる」

 そう言うと玲は、テレビの付いている車に乗った。これまで牛鬼が現れた場所を周って運転していると速報が流れた。それは、東京足立区に黒い牛鬼が出現して自衛隊が無残に殺され足立区に侵入を許してしまった為、避難を呼びかける放送だった。急いで車を走らせ向かった頃には、数名の残されてしまった人達の中の一人の男が、黒い牛鬼に食べられそうになっている所だった。その光景に唖然としてしまったが、気を取り直して、銃を向け発砲した。玲の銃弾が眼に当たる寸前まで牛鬼の眼前まで来ていた。しかし寸前で顔を逸らし、命中しなかった。わずかな血も流れなかった。

「う、嘘でしょ。他の牛鬼と比べてあまりにもすごすぎるよ」

玲が、気が付いた時には、牛鬼の鋭く尖った爪が眼前に迫ってきていた。それを牛鬼の手と同じスピードで走る事により逃げ切った。牛鬼が、口を「がばー」っと開けた。それを噛みつこうとしていると判断して、右に避けた。しかし口から放たれたのは、紫色の液体だった。口から放った紫色の液体を浴びてしまった。浴びてしまった部分が「シュー」という音を出し溶け始めた。

「ああああ痛い、痛いあああああ」

溶けだした肉は、骨に達するまで溶かし続けてあまりの痛みで悲鳴をあげてしまった。

牛鬼が木を引き抜きこちらに投げて来た。木を避けようとしたが毒を浴びた場所が再び痛み出し上手く動けず右手に食らってしまい右腕の骨が折れてしまった。

「うがあああああああ」玲にはこの後の記憶が無い。



第十章 牛鬼の秘密


「玲、玲、お見舞いに来たよ」

大輝がそっと枕元に来て、玲の頭をなでる。

玲は、反応をしなかった。看護師さんが、玲に話かけた。

「あれから一か月、話ができないのよ。火傷した手はもう治ったと言うのにね。気の毒に。でもお兄さんが毎日、来てくれるから嬉しいね。玲ちゃん」

大輝は、あの活発な妹がこんな姿になって、悔しくてたまらなかった。

「玲、前に言っていた、親父の残した鍵、これを頼りに牛鬼を倒すんだ。今日は、しばらくの別れを言いにきたんだ。玲。俺は逃げたりしないよ」

「・・・」

玲の口は、「お兄ちゃん」と動こうとしていたが、動かなかった。

大輝は、鹿児島の村に四年ぶりに帰った。当然、歓迎される雰囲気はなく、誰も迎えには来なかった。

大輝は、山奥のかつての碧の仕事場に行ってみた。

「やけに長い家だな。子どもの頃は感じなかったけど」

そこは予想通り、廃墟となっていた。

中に入る扉は壊れていて、くぐるしかない。

中央に置かれた木の机。回転式の椅子にドカッと座る。何もアイデアが無い。

こうして、碧の机に座ると、こどものころの記憶が駆け巡る。キノコ採りに行ったなあ。猟にも連れて行って貰った。優しかったな。いつでも俺の味方になってくれた。

モンシロチョウが部屋の中に入ってきた

ひらひら

ふと、入ってきた反対の壁を見ると、その隙間から風が流れている。チョウの飛行を邪魔していた。

大輝は、立ち上がり壁にぴたりとつき、覗き込んだ

隠し部屋がある。そこには本棚があり、鍵がついていた。

鍵は、割れていて、用をなさなかった為、近くにあるハンマーでたたき壊した

そこには、碧の祖父の軍人であった者の資料があった。

「1040計画?」

中を見ると、当時軍隊で人造人間を作っていたこと牛の脳と頭を縫合したこと、予知能力についてなど、これまでの対戦で知ったことが書かれていた。当時の軍人である曾祖父は、新しい鬼牛を開発していると書いている。

そこで資料は終わっている。ただ、碧の時で続きが書いてあった

「そうか、この手があったのか」

大輝は、求めていたヒントを鹿児島の地で掴む事に成功した。


第十一章  決戦前夜


大輝は、再び鹿児島を訪れ、父親の碧の墓で手を合わせている。そこには数は多くないが、沢山の花が供えられている。全国から父親のことを聞きつけた人達が感謝の念を込めて、訪ねて来てくれるのだろう。未だに賛否あり、世間では色々言われる言いたい奴には言わせればよい。俺は俺で、親父は親父。世間の為に戦っているわけではない。自分の最愛の守るべきもの為に戦うんだ。

「そうだろ、親父、いや、おと」

玲は、あれから話が出来ないどころか、病室で昏睡状態になっている。筑波の方でしかない施設で休んでいる。

あのゴーマルヒトマルと言われている牛鬼は北上して、今は、福島を襲っている。外国諸国は、だんまりだ。いまだ国の軍隊も手を出せないでいた。倒せるのに倒せないのか、倒す意思が無いのかわからない。かつていた神谷はすぐに失脚した。外国組織に暗殺されたと、とある情報すじから聞いた。あの神谷はただでは、死なない。牛鬼の設計図も消滅した。

このままでいると原発が狙われる。関東が暴露する。たくさんの人々が亡くなる。正直言うと、それはどうでも良い。玲を守れれば、あの玲の笑顔を再び見ることが出来たら。

牛鬼の弱点は俺だけが知る。

俺は、死なない。玲の為に、脳みそと心臓だけになっても俺は生きる。


第十二章 最終章(生きる勇気)


夕方、ラジオから速報が流れた。

大輝は、牛鬼との最終決戦の場を探っていた。

「茨城県那珂郡東山町で、自衛隊と謎の巨大生命体の激しい戦闘が始まりました。謎の生命体は先月五日に鹿児島から本州へ上陸し、自衛隊の包囲網を突破しながら進行を続けています」

ラジオは、被害を受けた村や犠牲者の人数を詳細に伝えていた。

大輝は、玲がいる病院の一室にいる。机には広げられた地図。ひとつ息をつき、

「茨城の……那珂郡東山町に現れたのか。ここから三十キロ離れた場所だな」

地図上の東山町に丸を付ける。すでに病院の位置にも印をつけていた。

「ラジオの放送時差を三十分とすると、午前三時に戦闘が始まったことになる。この病院から近い。玲に迫っている・・・ここで仕留めなければ・・・」「重さんの血すじ、特に女系に引き付ける力があるのかもしれない」

大輝は黙々と準備を進める。

机の上には黒いウィンドブレーカーの上下。

その生地は二層構造の特殊加工が施されていた。外側には微細な通気孔があり、半導体製造工程の空調に使われるHEPAフィルターが仕込まれている。第二層には活性炭フィルターが組み込まれている。通気性と防毒性を両立させたその服は、匂いによる行動予測を行う牛鬼の感知を欺くのにうってつけだった。

大輝はそれを手に取り、一つひとつ縫い目を確かめるように撫でると、ゆっくりと袖を通した。

体にぴったりと密着する素材は、外気を拒絶するように冷たい。

父の遺品である黒いキャップを被り、視界を守るゴーグルを装着。さらに多層式マスクを重ねると、大輝の呼吸はまた一段と重くなる。

最後に、足元のスチールケースを開ける。

中には牛鬼の漆黒の骨。艶やかに光る骨の集合体の鎧。

「ついに、おとの置き土産を使う時が来た。冷凍保存されていた牛鬼の骨。鍛冶屋の鎌田のじっちゃんに仕上げてもらった」

「重さんもよくこんな重いものを運んで、冷凍保存したよな」

結合部は白く光り、前面部にはバックルが付いている。体にフィットさせるための構造だ。

今朝、鎌田から届いた物だった。

表面は石のように黒い。このひとかたまりを見つめると、微かに脈動するような生命の残像を感じる。右胸部にはDVDほどの大きさの突起があり、電動信管付きの爆薬ユニットの四角いカートリッジが収納できる。

「鎌田のじっちゃん、いい仕事しているな」

病室の冷えた壁に向かって、そうつぶやく。その声は、すぐに吸収されるように消えていった。

大輝は、予備の爆薬ユニットを右のズボンのポケットに滑り込ませた。

「体温も匂いも、すべて抑え込む……今の俺は“空気”でいい」

手袋にはまず油紙を巻き、さらにポリ袋を被せる。

その上から古布を何重にも巻きつけ、最後に結び紐で固定。

手のひらから指先に至るまで、微細な匂いの分子すら漏らさぬよう封じた。

呼吸は浅く、一つ一つの動作に迷いはない。

すべての準備を終えたとき、大輝は一歩後ろに下がり、自らの影を見下ろした。

「これでいい。これで、“俺”を消した」

ただの青年だった彼の輪郭から、“人間らしさ”がひとつ、またひとつ、消えていく。

夜が明けきらない病院で儀式が始まった。

  §

筑波の山の空、うっすらと白む空の下、八溝山系の断層帯に位置する里美谷の峡部は、まるで時が止まったように沈黙していた。

その場所は、かつて幾度もの地殻変動に晒された天然の断裂地帯。

今は、それも森に飲み込まれていて、表面上ではわからない。きっと地下の水脈が複雑に交差しているのだろう。大輝はそんな風景を想像しながら、車を降りる。

早朝は地熱と湿気が混ざり合い、霧が滞留する。

音が反響し、また吸い込まれる。風も迷い込んだまま出てこない。

谷は天然の静謐を湛えた“音の檻”と化していた。

一歩あるくだけで、小石の転がる音が広がり、二歩目にはもう霧の中に音も吸い込まれる。

その不気味な静けさと錯覚は、まるでこの谷全体が生き物であり、侵入者の息遣いを探っているかのようだった。

筑波の山の上空には自衛隊のヘリコプターが後ずさりをしながらバランスを崩しながら飛んでいる。「最後の一機か」大輝がつぶやくと、何者かに投げ入れられた木が空に浮かぶ機体にささった。上空のカラスが飛び立つ。「バサバサ」と言う音とともにヘリの回転する音が消えた。

突如、「ドシン、ドシン」と地鳴りがあたりに鳴り響く。

(奴が近づいている)

山へ登るあぜ道は、朝靄が漂っている。重たい鉄箱を背負った大輝が、息を潜めてその谷間を登る。胸の中で、父の言葉が再生される。

「銃も刃(やいば)も牛鬼の骨まで届かない。だが、牛鬼の骨だけは別だ。同種であるがゆえ、互いを打ち砕く・・・。」

大輝は灰色がかった空を見上げる。

 玲と過ごした去年の夏、青空を想起した。冷えたスイカとコーラの泡が消え切らないコップ。表面に水の玉が付き流れ落ちる。そのコップに、蓋替わりに置いた薄い平な牛鬼の胸骨の一部。その日は、玲とスイカが何故おいしいのか、無邪気に話しをしていた。セミが一匹一匹と順番に鳴いていた。俺は、いささか気持ちが楽になり、指に摘まんだ牛鬼の助骨の破片を指で摘みコップの蓋をコツコツと叩いた。玲の楽しそうな笑顔を眺めながら……。「トントン、…ボチャッ」、俺は柱にもたれていたが、背を起こし、その現象を見つめた。牛鬼の胸骨の蓋を通過して、茶色のコーダーの泡の中に骨の破片が落ちていた。その骨の表面には炭酸の泡が複数個ついていた。

「これは、使える」

大輝は再び、灰色の空を見つめた。

いくつかの蛇行したあぜ道を綺麗にならんだ杉の木の後ろを通りながら、登っていく。

大輝の心臓は鼓動を立てていた。マスクを口の中心に持ってきた。背中の汗を感じる。

次の瞬間、牛鬼の巨体が反対側の草むらからあぜ道に出てきた。それは一年ぶりの牛鬼との遭遇だった。

大輝は、再びマスクを手でつまみ、神経質に口元の中心へと合わせた。

(焦るな、焦るな・・・)

トレスホルモン・・・、人間が無意識に発する数万種のうちの一つ。どうやら牛鬼は、この匂いで位置どころか、何をするかまで把握できるらしい。だが今の俺は、その物質を最小限に抑えている。見つかるはずがない。

鉄箱から骨鎧を取り出し、装着する。何度も練習したはずなのに、手が震えてうまく動かない。

「どうしてだ・・・落ち着け」

呼吸も浅くなる。

最後のバックルを腹の中央で留めると、小さく長い息を吐いた。

牛鬼、黒曜石の塊のような外殻。火山岩のように無骨な皮膚の下で、青紫色の血管が脈打っている。

その世界は、聴覚と嗅覚だけで読み取る。

大輝は冷静に牛鬼を観察した。

大輝は牛鬼からさらに西へ回り込んだ。牛鬼は反応できていない。

(今しかない・・・!)

大輝は、ロープで巻いた木を支点にして、牛鬼の右脇へ回り込む。

着地と同時に、牛鬼の尾が地響きを立てて振るわれた。

「ガンッ!!」

鎧の肩に激突、衝撃で視界が跳ね、大輝のわき腹が軋む。

だが砕けない。砕けたのは、牛鬼の尾骨の先端だった。

骨と骨の相克。

同種ゆえに、牛鬼の攻撃は「自壊」を招く。

大輝は刃を構え、跳躍して牛鬼の側面へ斬りかかろうとする。

(いける・・・!)

しかしその瞬間、牛鬼の咆哮が空を裂いた。

飛び出した大輝に、牛鬼の口元から淡い紫色の霧が吹き出す。

それは風に乗って広がるというより、湿り気を帯びた蛇のように這い進んだ。

瞬く間に森の空間を覆い始める。

霧が視界に入り、鼻腔に入り込んだわずかな違和感に、全神経が警鐘を鳴らした。

大輝は瞬時に身を低くし、草むらへと駆け込み身を隠す。牛鬼を睨んだ。

長年の猟師としての経験が、言葉より先に本能で告げている

これはただの噴霧した水蒸気ではない。

動物の死骸が腐るときのような、鼻の奥を焼く刺激物特有のアーモンド臭がした。

(まずい!)

次の攻撃が来た。空中で反射的に身をひねり、体を丸めるようにして側転。

風の流れを読み切れず、右足の爪先だけが霧に触れた。

一瞬で、焼けるような熱が走る。硝煙が右足から立ちのぼる。

痺れと痛みが神経を通り、一瞬視界が霞んだ。

「い、痛てえ。ううー。」

着地の反動でその場を転がりながら、大輝は即座に草むらへと身を隠した。

「用意したフィルターで大体の毒は防げている・・・よし!」

(時間がない。無効化できるのは、せいぜい五分。あの毒は肺に入れば終わりだ……!)

森の斜面を利用して牛鬼の死角へと移動しながら、大輝は息を整え、ポーチから金属筒を取り出す。マスクの中央の蓋を開けて、酸素を吸い込む。

(息を止めて近づく。走り回り近づく、息が切れた瞬間、吸い込めば終わる……)

息を深く吸い、肺を膨らませて、短く吐き出す。次に、めいっぱい体に空気を入れ込む。

(心臓を・・・吹き飛ばしてやる)

爆薬の点火ボタンを握りしめ、木に飛び乗った。

滑車の支点を手繰り、今度は正確に牛鬼の背面へ向けて疾走。落下するように突進する。

「これで終わりだ!!」

しかし次の瞬間、牛鬼の尾が叩きつけられ、地鳴りが山を這った。

大輝は咄嗟に身を沈め、骨鎧の肩を盾にして受け止める。

硬質な衝撃音とともに、尾骨の先が砕けて飛び散った。

「・・・いける」

自らの肉体では届かぬ深さまで、刃を通すために。

ゆっくりと右手を背に伸ばし、鞘に収められていた一振りの刀を引き抜いた。

その刃は、特殊な形状をしており、一度刺さると容易には抜けない鎌の形状をしていた。

大輝は牛鬼の脇へ回り込み、滑るような足運びで懐へ飛び込んだ。

足裏に感じる地面の呼吸、空気の密度――紫の霧の中、息を止めて泳ぐように進む。

(次の一撃で、肋骨の隙間を割る)

ズバッ、大輝の刃が、牛鬼の右胸に食い込んだ。骨にまで届き、紫の血が噴き上がる。

(急所ではないところは切れるのか)

牛鬼が咆哮を上げた。地面が揺れる。風が巻き起こる。

しかし、大輝は右手の親指に力を込め、牛鬼の骨へと刃を押し込む。

「このまま押し切る・・・!」

が、その思考の直後、牛鬼の身体に異変が起きた。

傷ついた胸部や尻尾が、波打つように隆起する。

外皮が再生されていく。

その再生は、まるで骨格そのものが動いているかのようだった。

「形態変化・・・?」

皮膚の内側で何かが“咲く”ように、棘が一斉に立ち上がる。

血で濡れた部分は、黒く変色し、厚く硬く膨張し始めた。

呼吸のリズムが変わる。

視線の動きも、攻撃の間合いも、まるで別種の生物になったかのようだ。

再び、牛鬼の吠えが、音圧を伴って空気を裂いた。次の瞬間、右前脚が視界の端から迫り、

「ドンッ!」

短く閃光が鳴り響く。

大輝は吹き飛ばされた。小さなキノコ雲が立ち上る。

(・・・読めない。完全に動きが変わっている・・・)

それは、ただの筋力増強や速さの変化ではない。牛鬼の戦い方そのものが変化したのだ。

牛鬼はギアを上げた。

大輝よりも速い動きで、振り上げる腕がかすった。

かすった部分は、みみずばれのように青黒く腫れあがる。

(痛てえ・・・)

息が荒くなる。鎧の内側に熱がこもる。

(ここまで、俺の動きをすべて読ませなかった。それが、今や読み切られている……)

彼の脳裏に、父の言葉が去来する。

「牛鬼は学習する。相手の動きを覚えると、あらゆる戦闘データを用いて、“戦い方”自体を変化させる。ここから先は、おとにも読めなかったんだ」

牛鬼の打撃を受け、大輝は立つことすらままならない。顔がゆがみ、目の焦点が合わなくなる。

気力も削がれていく。視界が白けていき、意識が朦朧としている。

片目はすでに腫れあがり、閉じている。

もう片方の目も、スローモーションのように閉じていく。網膜に届く光がピンクになって行く。

突然、大輝のふさがった網膜に

(玲の白いワンピース・・・花畑の中で・・・風から帽子を守るように片手を添え、そして、とびきりの笑顔!)

大輝は朦朧とした意識の中で、自分が現実逃避していることに気づく。

ふと、牛鬼が山を下る背中に焦点が合った。

「嫌だ!」

爆薬カートリッジを排出、「ガチャッ」。予備カートリッジを挿入「ガチャン」。

大輝は跳ね起き、身を低くして杉の木を縫うように駆ける。

牛鬼の前方に回り込む。

巨木の間から、ほんの一瞬、コンマ数秒、牛鬼と目が合った。

その刹那、大輝は牛鬼の右膝を踏み台に飛び上がる。

鎌型の刃を牛鬼の左肩に掛け、そのまま心臓の眠る胸骨へ、大輝の鎧骨を押しつけ

接触!溶けたバターに刃物を入れるように、溶け始める牛鬼の骨!

「いけぇぇぇッ!!」

閃光、爆音、風圧――全てが一度に炸裂する。

牛鬼の左胸、大輝の右胸で、重く、確実に爆ぜた。

大気が震え、紫の血と黒煙が爆風に巻かれて空へ舞い上がる。

病院の長い廊下を松葉杖をついた大輝が立っていた。片足しか、地面につかない。

コツン、コツン、歩くたびに響く金属音。病院内には、人々の談笑が混じる。

どこかで、少女が走り回り、母親に叱られている声が聞こえた。

大輝は、松葉杖の不規則な動きとともに、片目だけでその光景を見つめていた。

一つの病室の前で立ち止まり、体重を腰に預け、ドアノブへ手を伸ばす。

「俺は、残った。ずいぶんと無様な格好になったがね。」

「ねえ、おと、おれは残ったんだよ。」

「何が何でも生き残ろうと思った。身体が一部になっても、残って、玲の前に立ちたかったんだ」

「ねえ、おと・・・。おと・・・」

  §

現在、大輝は、牛鬼との戦いの記録を取るため、国立研究機関の管理下にある。

発信は制約され、各国の機密機関がその存在に注目している。病院の行き来だけが、唯一の

行動。監視は常についている。彼を守るため、メディアとの接触は完全に遮断され、知人との会話も禁じられている。

「カチリ」

病室のドアが音を立てる。

その向こうには、頭に包帯を巻いた女性が、白く輝く空をじっと見つめていた。

                完

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双角の勇(そうかくのゆう) 魔王の囁き  @maounosasayaki

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