第5話 終着駅の影

トンネルの果てに、空間が不自然に広がっていた。

そこは地図にも記録されぬ――存在してはならない駅。


腐食したホーム、砕けたタイル、崩れた天井から滴る水。

そして、錆びついた案内板には判別不能の文字が刻まれていた。まるで人間には読めぬ異形の言語のように。

光を失った蛍光灯が虚ろにぶら下がり、ただ線路だけが白い骨のように奥へ伸びている。


「……ここが、終着駅か」

黒崎が低く呟いた。


美咲は息を詰め、隣を歩く彼に問う。

「黒崎さん……怖くないんですか?」


「怖いさ」黒崎は煙草の箱を指で弾きながら、苦い笑みを浮かべた。「ただ、怖さを感じる余裕があるなら、まだ生きている証拠だ」


その時、静寂を切り裂く轟音が線路の奥から迫ってきた。

現れたのは――実体を帯びた黒い列車。

窓には無数の顔が押しつけられ、喉を裂くような叫びを繰り返していた。


『忘れろ……忘れろ……苦しみを捨てろ……』


声は鼓膜ではなく脳髄を直接叩き、心臓を凍り付かせる。

美咲は震える肩を押さえたが、声は彼女の内側を抉り、過去の記憶を突き付けてくる。


『お前のせいだ……助けられなかった……あの日の惨劇を忘れたか……』


「やめて……っ!」

美咲は耳を塞ぎ、膝をつきかける。幼い日の恐怖、失ったもの、血の匂い――全てが蘇る。


黒崎は懐から古びたナイフを取り出した。刃には符が巻かれている。

「美咲。俺が囮になる。お前は『影の核』を探せ」


「そんな……無茶です!」


黒崎は一瞬、彼女を振り返った。その目には淡い誇りの色が宿る。

(よくここまで来たな、美咲。お前は強い。俺が守らなくても、もう戦える)


彼は前へ踏み出す。

列車の幻影が襲いかかり、黒崎の脳裏には若い頃の記憶が閃いた。

血に濡れたホーム。救えなかった同僚が、冷たい手で自分を押し返す光景――。


『また同じだ……誰も救えない……お前は繰り返すだけだ……』


黒崎の手が震えた。だが、その時――


「黒崎さん!」

美咲が叫ぶ。「あなたは失敗なんかしてません! 私を守って、ここまで連れてきたじゃないですか!」


その声が鎖を断ち切る。黒崎は歯を食いしばり、ナイフを振り抜いた。

黒い影が裂け、列車の中心から蠢く塊が姿を現す。


――無数の眼が脈打つ『影の核』。


「見つけた!」美咲は胸に抱えていた符を核に叩きつけた。


瞬間、符がまばゆい光を放ち、空間全体が揺れる。

黒い列車は断末魔の悲鳴を上げ、無数の顔と囁きが霧散していった。


だが、その消滅の只中から、声だけが残響した。

『愚か者ども……影は消えぬ……お前たちの心に、永遠に棲みつく……』

『また会おう……次の駅で……忘却の終点でな……』


黒崎は肩で息をし、ナイフを下ろす。

「……終わった、のか」


美咲は彼の隣に駆け寄り、震える声で答える。

「終わって……ません。影は、人の心がある限り、また形を変えるはずです」


黒崎はわずかに口元を緩めた。

「そうだな。……だが、お前となら、まだ進める」


二人は互いに支え合いながら、崩れかけた駅から地上への出口を探して走り出す。

その背後で、暗黒のホームは音もなく崩落していった。


――だが、最後の瞬間。

トンネルの奥から再び、聞こえてはならない音が響いた。


存在しないはずの「次の列車」のブレーキ音。


それは、さらなる深淵が待つ合図だった。


次回 第6話「囁きの果て」に続く――。

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