第3話 潜む記憶の影
――まだ、終わってはいなかった。
異界の核を拡散した直後、黒崎と美咲の胸には、鉛のように重たい違和感が沈んでいた。迷宮駅から地上へ戻っても、夜風の冷たささえ幻影の残滓を吹き払うことはできない。耳の奥には囁き声が、皮膚の裏側には湿った影がこびりついている。
「黒崎さん……これ、本当に終わったんでしょうか?」
夜風に髪を揺らしながら、美咲は小さく尋ねた。
黒崎は煙草に火をつけ、しばし口を閉ざす。赤い火が彼の横顔を照らし、短く吐き出された煙が冷たい夜気に溶けた。
「終わっちゃいない。あの幻影は核の一部にすぎん。……異界は“人間の記憶”そのものを餌にしている」
「記憶を……餌に……」美咲は呟き、腕を抱くように身を縮めた。
二人が事務所に戻ると、そこには依頼人の青年が待っていた。地下鉄で失踪しかけ、辛うじて助け出された男だ。蒼白な顔を震わせ、唇を噛みしめながら語り出す。
「……助けてもらったはずなのに、記憶が抜け落ちてるんです。昨日までのことも……母の顔さえ……もう思い出せないんです」
美咲は思わず声を上げた。
「そんな……影がまだ取り憑いてる?」
黒崎は青年の瞳を静かに見据えた。
「異界に触れた者は、現実に戻っても“影”を抱え続ける。それは本人の心に潜み、再び扉を開かせる……。お前が今失っているのは、あくまで“序章”にすぎない」
「どうすれば……僕は、もう助からないんですか……?」青年の声はかすれ、目には絶望の光が浮かぶ。
黒崎は煙草を揉み消し、わずかに声を低めて言った。
「影は一人で完結するものじゃない。渡るんだ――家族へ、友人へ、そして街へ。お前を足がかりに、次は誰かが呑み込まれる」
青年は愕然としながらも、その言葉に一瞬の理解を示した。
「……もし、影が『渡る』ものなら……切り離す方法があるはずだ。影を縛る核を見つけて……」
黒崎はその言葉に頷き、わずかに口元を緩める。
「……いい勘だ。ラスボスを倒す鍵はそこにある」
その夜、美咲は夢を見た。
暗いホームに立つ自分。奥から近づくのは、消えたはずの車両。窓にはもう一人の美咲が映っている。虚ろな目で囁くその姿は、亡霊のように冷たかった。
『こちらへ来て……記憶を捨てれば、痛みも消える……』
「……いや!」美咲は叫び、汗に濡れたシーツの中で目を覚ました。荒い息の中、隣の部屋からは紙をめくる音が聞こえてくる。
翌朝、彼女は黒崎に夢のことを打ち明けた。黒崎は深く目を細め、答えを選ぶように口を開く。
「やはり、お前にも影が入り込んでいるな。……あれは単なる幻影じゃない。俺たちを試し、壊そうとしている」
美咲は唇を噛みしめ、恐怖を押し殺して頷く。
黒崎は彼女の肩に手を置き、静かに告げた。
「怖がっていい。だが、その恐怖を糧にしろ。お前は、影に呑まれる存在じゃない」
その言葉に、美咲は小さく笑みを浮かべる。
「……黒崎さんがそう言うなら、負けません」
そこへ電話が鳴り響いた。新たな失踪事件の報だった。被害者は、青年の家族。
「……繋がったな」黒崎は受話器を置き、冷たく呟く。
「影は人から人へと渡り歩き、繋がりを広げていく。放っておけば、この街全体が闇に沈むぞ」
美咲は胸の奥の震えを抑え、強い決意を込めて言った。
「黒崎さん……私、絶対に止めます。影を追って、必ず……!」
黒崎は短く笑い、懐中電灯を手に取る。
「いい心意気だ。――行くぞ。今度は『影そのもの』を狩る」
二人は再び、地下へと向かう。
だがその背後。誰もいないはずの事務所の鏡面に、淡い残像が揺らめいた。
無数の眼球が粘つく膜の裏から覗き込み、低く囁く。
『まだ……深く……もっと深く……』
次回 第4話「闇を走る囁き」に続く――。
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