黒崎探偵事務所-ファイル06 黒い列車の迷宮

NOFKI&NOFU

第1話 迷宮駅の囁き

最初に聞こえた声は誰のものか分からない


「ねえ黒崎さん。地下鉄で寝過ごしたら、異界に迷い込むって噂、知ってます?」

「くだらん都市伝説だ。……ただし俺が依頼を受けるまではな」


黒崎の視線の先、ホームの壁一面に、不気味な紋様が浮かび上がっていた。

美咲の冗談が、現実に引きずり出される瞬間だった。


東京の地下鉄網は、昼間の明るさでは見えない陰影を夜に潜ませる。人々が眠りにつく頃、線路の奥では異界の囁きがひそかに芽吹き、迷宮の扉が開く――。


「黒崎さん……ここ、変ですね」

美咲は閉鎖された古い線路の前で立ち止まる。壁のタイルに微かな渦状の模様。まるで視線を吸い込むようにちらつく。触れると、頭の奥に冷たい感覚が走る。


「迷宮駅……か」美咲の声が震える。「記憶を失った人や、囁きに飲まれた者が、無意識に引き寄せられるんですよね……」


黒崎はうなずき、改札を抜けた瞬間、空気が変わるのを感じた。微かに響く列車の音は、どの方向から来るのか定かでない。耳を澄ますたび、幻聴が頭をかき乱す。


「……異界の力は、こうした細部にも潜む」

黒崎は眉間にしわを寄せ、そっと手を置く。模様がかすかに蠢き、地下鉄路線図のように駅と線路の繋がりを浮かび上がらせた。


「美咲、離れるな。ここで一歩でも迷えば、異界に飲まれる」黒崎は手をぎゅっと握る。


「……はい」美咲はそっと手を重ね、震えを抑える。


二人は歩きながら、ふと日常的な会話を交わす。


「黒崎さん、今日は何か食べてきました?」

「俺は事務所で簡単に済ませた。美咲は?」


黒崎は異界の気配や囁きを肌で感じながらも、美咲との会話に集中する。これは俺たちにとっても「命綱」のように思った。


「私は駅の売店でパンを……あ、でも異界のせいで味がよくわからなかったかも」


「それもまた、一種の経験だな」

黒崎が微笑むと、美咲は少し安心した表情になる。


そのとき、ホームの先に人影が揺れた。歩き方は自然だが、目は虚ろで口元からは微かな囁きが漏れる。黒崎はすぐに理解する。「あの人も……異界に囚われている」


「どうすれば……」美咲は恐怖で後ずさる。


「意識の芯を保つんだ。幻覚や声に惑わされるな」

黒崎は慎重に近づき、影の人間を現実に引き戻す。手を差し伸べると、虚ろだった瞳がゆっくり焦点を取り戻した。


「……ありがとう、助かりました……」

影の人物が震える声で答える。その瞬間、空気が微かに変わり、ホームの先に次の異界車両の兆しが光として現れる。


黒崎は微笑みを抑えつつ、美咲に囁く。

「あの人の記憶の断片が、次の車両へのヒントになった」


「え……そうなんですか?」美咲は驚きと少しの安堵が混じる。


「記憶の渦を追えば、異界の動きが見える。まるで……囁きが地図を描くみたいにな」黒崎は暗いホームを見据える。


「……黒崎さん、私、迷宮駅でも少しずつ慣れてきたかもしれません」美咲は小さく笑う。

「頼もしいな。お前の成長は俺の励みになる」黒崎も微笑む。


二人の足は迷宮駅の深奥へと進む。列車の影が揺れ、囁き声が頭をかき乱す。しかし手を取り合い、互いの意識の芯を守ることで、幻覚をかわしながら前進できる。


やがて車両内部の幻影が濃くなり、異界の主と思われる黒い塊が現れた。前回の地下鉄車両より巨大で、無数の目と触手が暗闇で蠢く。黒崎は息を整え、作戦を告げる。


「美咲、この力を分散させ、淀みを解消する。過去の犠牲者の記憶を利用すれば、いくらかの時間を稼げる」


「はい……一緒にやりましょう」美咲は決意の光を帯び、黒崎と目を合わせる。


列車の奥で、過去の犠牲者の記憶と幻覚が渦巻き、二人を試すかのように襲いかかる。黒崎は美咲の手を強く握り、囁く。


「この迷宮駅……ここを抜けられれば、異界の力の全貌に近づける」



次回、第2話「地下鉄の幻影」

――迷宮駅に潜む黒い塊が、二人の心と体を試す。列車の扉が閉じる音が、まだ聞こえない。

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