第4話 逃亡者リク、世界を知る
夜明け前のスチームベルは、冷たい霧に包まれていた。
煙突群から吐き出される蒸気が夜空を曇らせ、街灯の光がぼんやりと浮かぶ。
スラムの路地を駆け抜けたリクは、ついに都市の外壁へとたどり着いていた。
「……はぁ……はぁ……」
装甲はすでに解け、ただの整備服に戻っている。
体は重く、呼吸は荒い。昨夜の戦闘の疲労が全身を蝕んでいた。
巨大な鋼鉄の門は、夜間でも監視が厳しい。
兵士たちが見回りをしており、通行許可のない者はすぐに拘束される。
だがスラムの人間は、裏の抜け道を知っている。
リクはガロから聞いていた古い排気ダクトを探し当てた。
錆び付いた格子を外し、暗いトンネルへと潜り込む。
(ガロ……ごめん。俺、あんたの言うことを聞けなかった)
胸の奥に罪悪感が渦巻いた。
だが同時に、背中の奥からまだエンジンの残響が聞こえる気がした。
あの力を手放すことは、もうできない。
トンネルを抜けると、目の前には果てしない荒野が広がっていた。
◇
朝日が昇ると同時に、外の世界が姿を現した。
地平線まで続く灰色の大地。
ところどころに砕けた塔や崩れた橋の残骸が転がり、遠くには黒い煙を上げる巨大な要塞が見える。
「……これが……外の世界……」
リクは呆然と立ち尽くした。
スチームベルの中では見えなかった現実が、ここにはあった。
大地は魔王軍の支配下にあり、かつての王国の痕跡は廃墟に変わっている。
道の脇には旅商人らしき一団がいた。
蒸気馬車を止め、焚き火を囲んでいる。
彼らはリクを見ると、一瞬だけ警戒したが、すぐに笑みを向けてきた。
「おい、兄ちゃん。珍しい顔だな。まさか都市からの逃げ出しか?」
「……まぁ、そんなとこだ」
リクはとりあえず嘘をつかずに答えた。
商人の中年男が肩をすくめる。
「勇者騎士団に追われたんだろ。あいつら最近、やたら動きが慌ただしい。
魔王軍の機巧獣が都市近くまで出てきたらしいじゃないか」
「……ああ」
昨夜の出来事が脳裏をよぎる。
男はため息をつき、空を見上げた。
「百年前に勇者が敗れてから、この世界はずっとあの有様だ。
王国も貴族も、勇者の名を盾にして生き延びてるが、結局は街ひとつ守れやしない」
「勇者は……もう、いないのか?」
リクの問いに、男は苦笑した。
「さぁな。噂じゃ、勇者は魔王に殺されたとも、どこかで隠れてるとも言われてる。
けどよ、誰も見たことがねぇ。俺たち庶民にとっちゃ、勇者なんて遠い昔話だ」
その言葉が、リクの胸に重く沈んだ。
子供の頃から聞かされてきた勇者の物語。
それを信じることで、このスラムでも少しは夢を見られた。
だが、現実は違った。
「……ありがとう」
リクは短く礼を言うと、商人たちは肩をすくめて手を振った。
「気をつけろよ、兄ちゃん。外の荒野は魔物と盗賊だらけだ。
力がない奴は一瞬で食われるぜ」
(力……か)
リクは無意識に胸元のキーを握った。
あの力がなければ、きっともう死んでいる。
だが今のままでは、制御できないまま暴走し、誰かを傷つけるかもしれない。
(……使いこなせるようにならなきゃ)
◇
その頃――
スチームベルの城壁内。
勇者騎士団の臨時駐屯地では、セリナが報告書をまとめていた。
「禁忌の適合者……少年のようでした。まだ制御は未熟。
しかし、魔王軍のスチームウルフを単独で撃破できるだけの力を持っていました」
上官が眉をひそめる。
「また適合者か……面倒な時代だな。
だが禁忌の力を使う者は、すべて排除しろというのが王都の方針だ。分かっているな?」
「……はい」
セリナは答えたが、心は揺れていた。
あの少年――リクの目に宿っていたもの。
恐怖と同時に、諦めていない光があった。
(あの力は危険だ。放っておけば、多くを傷つけるかもしれない。
でも……あの時、私を助けたのも確かに彼だった)
一瞬、剣を振り下ろせなかった自分を思い出し、奥歯を噛む。
「セリナ。お前は勇者の名を継ぐ者の一人だ。
迷うな。禁忌は悪だ。王都がそれを決めた」
上官の言葉が冷たく響く。
「……分かっています」
彼女は静かに頭を下げた。
だがその手は、わずかに震えていた。
◇
リクは荒野を歩き続けていた。
遠くには古びた塔が見える。
かつて王国の中継基地だったが、今は魔王軍の監視塔と化しているらしい。
昼が近づくにつれ、熱気と砂塵が彼を苦しめた。
それでも歩みを止めなかった。
やがて、地平線の向こうに巨大な森が姿を現した。
蒸気を吐く木々と機械の残骸が混ざり合った不気味な森――機巧の森。
商人たちが言っていた。
「外で力を求めるなら、あの森を抜けろ。
だが、戻って来られた者はいない」と。
リクは立ち止まり、息をついた。
「……怖い。でも……進むしかない」
背中の奥で、再びエンジンが微かに鳴った気がした。
あの鼓動が、まだ自分を走らせようとしている。
「ブラックレイヴン……俺に、道をくれ」
彼はゆっくりと森の闇へ足を踏み入れた。
その空のずっと高いところでは、勇者騎士団の飛行船がゆっくりと進路を変えていた。
セリナの瞳が迷いを抱えたまま、遠くの荒野を見つめている。
そしてさらに遠く――黒い城塞の中で、ひとりの男が静かに微笑んだ。
漆黒の鎧をまとい、かつて“勇者”と呼ばれたその男は、世界の鼓動を感じ取っていた。
「……目覚めたか。新しいライダーが」
その声は、魔王の玉座にまで届くほど低く響いた。
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