第4話 逃亡者リク、世界を知る



夜明け前のスチームベルは、冷たい霧に包まれていた。

煙突群から吐き出される蒸気が夜空を曇らせ、街灯の光がぼんやりと浮かぶ。

スラムの路地を駆け抜けたリクは、ついに都市の外壁へとたどり着いていた。


「……はぁ……はぁ……」


装甲はすでに解け、ただの整備服に戻っている。

体は重く、呼吸は荒い。昨夜の戦闘の疲労が全身を蝕んでいた。


巨大な鋼鉄の門は、夜間でも監視が厳しい。

兵士たちが見回りをしており、通行許可のない者はすぐに拘束される。

だがスラムの人間は、裏の抜け道を知っている。


リクはガロから聞いていた古い排気ダクトを探し当てた。

錆び付いた格子を外し、暗いトンネルへと潜り込む。


(ガロ……ごめん。俺、あんたの言うことを聞けなかった)


胸の奥に罪悪感が渦巻いた。

だが同時に、背中の奥からまだエンジンの残響が聞こえる気がした。

あの力を手放すことは、もうできない。


トンネルを抜けると、目の前には果てしない荒野が広がっていた。



朝日が昇ると同時に、外の世界が姿を現した。

地平線まで続く灰色の大地。

ところどころに砕けた塔や崩れた橋の残骸が転がり、遠くには黒い煙を上げる巨大な要塞が見える。


「……これが……外の世界……」


リクは呆然と立ち尽くした。

スチームベルの中では見えなかった現実が、ここにはあった。

大地は魔王軍の支配下にあり、かつての王国の痕跡は廃墟に変わっている。


道の脇には旅商人らしき一団がいた。

蒸気馬車を止め、焚き火を囲んでいる。

彼らはリクを見ると、一瞬だけ警戒したが、すぐに笑みを向けてきた。


「おい、兄ちゃん。珍しい顔だな。まさか都市からの逃げ出しか?」


「……まぁ、そんなとこだ」


リクはとりあえず嘘をつかずに答えた。

商人の中年男が肩をすくめる。


「勇者騎士団に追われたんだろ。あいつら最近、やたら動きが慌ただしい。

 魔王軍の機巧獣が都市近くまで出てきたらしいじゃないか」


「……ああ」


昨夜の出来事が脳裏をよぎる。

男はため息をつき、空を見上げた。


「百年前に勇者が敗れてから、この世界はずっとあの有様だ。

 王国も貴族も、勇者の名を盾にして生き延びてるが、結局は街ひとつ守れやしない」


「勇者は……もう、いないのか?」


リクの問いに、男は苦笑した。


「さぁな。噂じゃ、勇者は魔王に殺されたとも、どこかで隠れてるとも言われてる。

 けどよ、誰も見たことがねぇ。俺たち庶民にとっちゃ、勇者なんて遠い昔話だ」


その言葉が、リクの胸に重く沈んだ。

子供の頃から聞かされてきた勇者の物語。

それを信じることで、このスラムでも少しは夢を見られた。


だが、現実は違った。


「……ありがとう」


リクは短く礼を言うと、商人たちは肩をすくめて手を振った。


「気をつけろよ、兄ちゃん。外の荒野は魔物と盗賊だらけだ。

 力がない奴は一瞬で食われるぜ」


(力……か)


リクは無意識に胸元のキーを握った。

あの力がなければ、きっともう死んでいる。

だが今のままでは、制御できないまま暴走し、誰かを傷つけるかもしれない。


(……使いこなせるようにならなきゃ)



その頃――


スチームベルの城壁内。

勇者騎士団の臨時駐屯地では、セリナが報告書をまとめていた。


「禁忌の適合者……少年のようでした。まだ制御は未熟。

 しかし、魔王軍のスチームウルフを単独で撃破できるだけの力を持っていました」


上官が眉をひそめる。


「また適合者か……面倒な時代だな。

 だが禁忌の力を使う者は、すべて排除しろというのが王都の方針だ。分かっているな?」


「……はい」


セリナは答えたが、心は揺れていた。

あの少年――リクの目に宿っていたもの。

恐怖と同時に、諦めていない光があった。


(あの力は危険だ。放っておけば、多くを傷つけるかもしれない。

 でも……あの時、私を助けたのも確かに彼だった)


一瞬、剣を振り下ろせなかった自分を思い出し、奥歯を噛む。


「セリナ。お前は勇者の名を継ぐ者の一人だ。

 迷うな。禁忌は悪だ。王都がそれを決めた」


上官の言葉が冷たく響く。


「……分かっています」


彼女は静かに頭を下げた。

だがその手は、わずかに震えていた。



リクは荒野を歩き続けていた。

遠くには古びた塔が見える。

かつて王国の中継基地だったが、今は魔王軍の監視塔と化しているらしい。


昼が近づくにつれ、熱気と砂塵が彼を苦しめた。

それでも歩みを止めなかった。


やがて、地平線の向こうに巨大な森が姿を現した。

蒸気を吐く木々と機械の残骸が混ざり合った不気味な森――機巧の森。


商人たちが言っていた。

「外で力を求めるなら、あの森を抜けろ。

 だが、戻って来られた者はいない」と。


リクは立ち止まり、息をついた。


「……怖い。でも……進むしかない」


背中の奥で、再びエンジンが微かに鳴った気がした。

あの鼓動が、まだ自分を走らせようとしている。


「ブラックレイヴン……俺に、道をくれ」


彼はゆっくりと森の闇へ足を踏み入れた。


その空のずっと高いところでは、勇者騎士団の飛行船がゆっくりと進路を変えていた。

セリナの瞳が迷いを抱えたまま、遠くの荒野を見つめている。


そしてさらに遠く――黒い城塞の中で、ひとりの男が静かに微笑んだ。

漆黒の鎧をまとい、かつて“勇者”と呼ばれたその男は、世界の鼓動を感じ取っていた。


「……目覚めたか。新しいライダーが」


その声は、魔王の玉座にまで届くほど低く響いた。

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