『かくも雄弁なる英国紳士の告白』
クソプライベート
英国
1888年、ロンドン。霧が煤と混じり合い、街全体が巨大な灰色の肺のように呼吸していた。私の名はアーチボルド・グレイ。紳士クラブの片隅でブランデーを嗜み、タイムズ紙に高尚な美術評論を寄稿するのが私の表の顔だ。だが、私の真の稼業は、インクと紙、そして大衆の愚かさを元手にした商い――すなわち“風評屋”である。
その日、私の元を訪れたのは、鉄道王として名を馳せるヘンリー・ダグラス卿だった。彼の分厚い指が弄ぶ金時計は、それ自体が小さな工場の年間予算に匹敵するだろう。
「グレイ君、君の“筆”の腕前はかねがね」
ダグラス卿は、本題に入る前の無駄な探り合いを好まない、実に合理的な男だった。
「新興の『ユニバーサル電灯会社』。叩き潰してほしい」
理由は聞くまでもなかった。ダグラス卿の持つガス灯会社にとって、トーマス・エジソンが発明した白熱電球は、まさしく事業の根幹を揺るがす悪夢そのものだったからだ。
「報酬は君の言い値で構わん」
私は、暖炉の火に揺れる琥珀色の液体を静かに飲み干した。
「お任せを。ダグラス卿。一ヶ月後には、ロンドンの民衆が『電灯』という言葉を聞いただけで、不快に眉をひそめるようお約束いたしましょう」
私の武器は、事実ではない。事実らしく見える「物語」だ。
私はまず、匿名の投書という形で、幾つかの三流新聞に火種を蒔いた。
『電灯の光は、あまりに白く、あまりに冷たい。あれは神の創りたもうた蝋燭やガスの温かい光とは似ても似つかぬ、非人間的な輝きではないか?』
『先日、ユニバーサル電灯の工場で火災があったという。電気とは、かくも御しがたい悪魔の力なのだ』
『そもそも、あの光の下では、淑女の肌の繊細な陰影が失われ、誰もが青白い幽霊のように見えてしまう。家庭の団欒を破壊する悪魔の光だ』
馬鹿馬鹿しいだろうか? その通り。だが、大衆とはそういうものだ。彼らは論理ではなく、感情で動く。私は「電灯」という新しい技術に、「冷たい」「危険」「醜い」という物語を貼り付けていった。アンブローズ・ピアスは雄弁を『白とは白であるように見える色を指すと、愚かな連中に口を使って思い込ませる技術』と喝破したが、まさしくその通り。私は、煌びやかな光を、不気味な怪光へと仕立て上げていったのだ。
仕上げは、私が『現代英国評論』に寄稿した署名入りのコラムだった。
『……我々大英帝国の誇りとは、七つの海を照らす灯台の光であり、家庭の暖炉に揺れるガスの炎である。それに引き換え、かのユニバーサル電灯の性急な事業展開は、アメリカ資本に媚びへつらうものであり、その光は英国の伝統を焼き尽くす非愛国的な閃光と言っても過言ではあるまい。我々は今一度、足元にある真の豊かさ、すなわち“英国の光”とは何かを、冷静に問い直すべきではないだろうか』
この記事が決定打となった。「非愛国的」という焼印を押されたユニバーサル電灯の株価は、崖を転がるように落ちていった。不買運動が起こり、契約は次々と破棄された。私は、自室の窓からガス灯に照らされた街並みを眺め、大衆という愚かな獣が、いとも簡単に手懐けられる様を心から楽しんでいた。
だが、一枚のゴシップ紙が、私の完璧な計画に僅かな影を落とした。そこには、心労でやつれたユニバーサル電灯の社長の写真が載っていた。
チャールズ・アトキンソン。私の、学生時代のただ一人の恩師、アトキンソン教授の息子だった。
アトキンソン教授は、古代ギリシャの哲学を教える、清貧という言葉が服を着て歩いているような人物だった。彼は常々、私にこう説いていた。
「グレイ君。言葉とは、真実を語るために神が我々に与えたもうた、最も神聖な道具なのだ。決して、欺瞞のために使ってはならん」
若き日の私は、彼の理想論を青臭いと感じながらも、その実直な人柄を心のどこかで尊敬していた。その息子を、私は言葉という神聖な道具で、破滅の淵に突き落とそうとしている。
一瞬、私の心に鈍い痛みが走った。だが、それも一瞬のこと。私はすぐに冷笑を取り戻した。
(先生、あなたは間違っていた。言葉とは道具にすぎません。神聖でもなければ、邪悪でもない。ただ、使う人間によってその価値を変えるのです。そして私は、この道具を誰よりも巧みに使いこなす術を知っている)
私は、チャールズ・アトキンソンに最後の一撃を加えることにした。私は彼に面会を申し込み、同情的な友人を装って近づいた。そして、偽りのアドバイスを与えたのだ。
「アトキンソン君。君の潔白を証明するには、公の場でダグラス卿を弾劾するしかない。君の技術の正しさを、情熱的に訴えるのだ」
感情的になりやすい彼が、その罠に飛びつくことは分かっていた。
数日後、彼の行った記者会見は、破滅的な結果に終わった。彼はダグラス卿を口汚く罵り、民衆を「新しい時代の良さを理解できない愚か者」とこき下ろした。そのヒステリックな姿は、私が作り上げた「危険で不安定な電灯」というイメージを、完璧に補強してしまった。
翌日の新聞には、私の書かせた『若き理想家の暴走、電灯事業の未来に暗雲』という見出しが、踊っていた。
一週間後、ユニバーサル電灯は倒産し、チャールズ・アトキンソンはピストルで自らの頭を撃ち抜いた。
ダグラス卿から約束の倍額の報酬を受け取った私は、その足でハイゲート墓地へと向かった。古びたアトキンソン教授の墓石の前に立ち、私は冷たい雨の中で、静かに語りかけた。
「先生、私はただ、先生の教えを実践したにすぎません。言葉を、最も効果的に使っただけです。これもまた、一つの雄弁でしょう?」
墓石には、教授が好きだった言葉が刻まれていた。
『真実は言葉と共にあり』
雨は、その言葉を黒く濡らしていた。まるで、真実が涙を流しているかのように。だが、私には分かっている。真実など、初めからどこにも存在しないのだ。ただ、そうらしく聞こえる言葉があるだけなのだから。
『かくも雄弁なる英国紳士の告白』 クソプライベート @1232INMN
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