よばれて、おちる

晴れ時々雨

第1話

 老朽化した室内と同化を許さぬ突飛な場所に置かれた冷蔵庫と出くわしたときの気持ちは、ときめきと言える。初対面の人と出会うときの恐れと緊張、微かな期待。「彼」の容貌は好みだった。それで充分。彼は内面すら外面の一部であり、人間よりよほど解りやすく、探究心をも擽る。厳かに彼をひらいていく。

 彼の生死は拘る要素ではないが、今日の出逢いは運命に近いものを感じた。ここは廃屋のはずだが、冷蔵庫には電気が通っていたのだ。思い込みからブレーカーの確認を怠った自分が少し恥ずかしかった。彼の心臓が動いていることに気づくと、ポリウレタン樹脂製の手袋の中の手が瞬間的に汗ばんだ。その具体的な理由はあとになれば幾らでも挙げられるが、慣れと本能からというのが一番だろう。

 この家には鍵が掛かっていない。しかし誰も住んでいないことは様子からも分かる。なにも飛び込みで訪れたわけじゃなく、下調べをして確認済みなのだ。なのに電気メーターは確認しなかった。このの運命めいたものに、背筋がぞくりとした。

 和式の居間の中央に設えられた冷蔵庫を目の前にすると、彼と出逢うために今まで生きてきた、そんな陳腐で馬鹿げた感傷が胸を痺れさせた。この四角い人格は誰かを待っていたのだ。

 跪いたまま、気を取り直して再び手に力を込めた。密着したパッキンが粘りながら離れる。古式ゆかしい緑色のツードアの冷蔵庫は開けやすい反動の機能がなく重いので、きちんと開ける動作をしなくては開かない。しかし省エネを考慮しないスタイルから、一旦開けてしまえば押さえなくても自然と閉じることはなかった。

 冷蔵室の中に、願っていたような目ぼしい物はなかった。しかし三段のワイヤー式の棚の真ん中に、ロープとラップ、ビニール袋と白いタオルが並べられている。それが暖色の庫内灯の逆光で黒い影になっていた。

 ふう、と一つ息をつく。部屋の室温は快も不快もなかったが、自分は汗ばんでいる。じっとりと背中の衣類が張り付いていた。

 ドアをそのままにして立ち上がり、上の冷凍室を開ける。霜ひとつない庫内に、一本の庖丁が寝かされていた。自然と手が伸びた。庖丁の柄は、手袋からでも感じるほど冷たかった。金属の部分がすぅっと結露して白ずむ。刃渡りは20センチ以上あるように見えた。冷たくて重い刃物が活きのいい魚のように手の内で跳ねたので、逃がすまいと握り直す。刀身の曇りを指で擦ると、そこに自分の鼻の穴が映った。

 物を全て元に戻し、閉めた扉に背中を預けた。今、目にしたものを脳内でぐるぐると循環させ、答えを得て立ち上がる。少し見上げたところに破壊された欄間があり、その辺に細い何かが強く擦れたような跡を見つけた。

 冷凍室を開ける。自分の選択はこれしかない。なにせ恋をしているんだ。最初からすべてを捧げてしまうなどという愚行を犯すわけにはいかない。まずは挨拶からだと相場は決まっている。左の手袋を脱いだ。

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よばれて、おちる 晴れ時々雨 @rio11ruiagent

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