古書店の片隅で、もう一度【後編】

三崎栞という、止まり木を得た鳥のように、僕の時間は再びゆっくりと、しかし確かな手応えを持って流れ始めた。


彼女のアドバイスを元に始めたSNSや特集コーナーは、少しずつだが着実に店の新しい顔になっていった。僕もただ彼女のアイデアを待つだけでなく、自分から「作家の初版本フェア」や「映画化された文学特集」などを企画するようになった。埃をかぶっていた古書たちが、新しい光を浴びて再び誰かの手に渡っていく。その循環を見ているだけで、胸が熱くなった。

「最近、一ノ瀬くん、顔つきが変わったね。店主の顔になった」

いつかの作業終わり、彼女にそう言われた時は、照れくさくてまともに顔が見れなかった。

僕の中で、一つの決意が固まっていた。『水無月の恋人』を見つけ出す。そして、その本を彼女に渡す日に、この胸にしまったままの想いを伝えよう。それが、今の僕にできる、精一杯の勇気だった。


僕は神保町の古書組合の会合にも顔を出すようになり、年配の店主たちに頭を下げては、『水無月の恋人』の情報を集めて回った。それはまるで、宝探しのような、途方もない作業だった。

栞とは、いつの間にか仕事終わりに食事をしたり、休日に神保町の本屋を一緒に巡ったりするのが当たり前になっていた。彼女が担当した新刊の話、僕が見つけた珍しい古書の話。話題は尽きることがなかった。友人以上、恋人未満。その心地よくももどかしい距離が、僕にはひどく愛おしかった。

そんな穏やかな日々が、永遠に続くかのように思えた。


その知らせは、冬の気配が街を包み始めたある日、あまりにも突然もたらされた。

いつものように店を開けていると、珍しく開店直後に彼女がやってきた。いつもより少し強張った表情に、僕は胸のざわつきを覚える。

「一ノ瀬くん、あのね…」

彼女が切り出したのは、僕にとって祝福すべき、しかし同時に、残酷すぎる報告だった。彼女が長年追いかけていた海外作家の翻訳出版プロジェクトが大成功を収め、その功績が認められて、ニューヨーク支社への栄転が決まったというのだ。

「…ニューヨーク?」

「うん。期間は、最低でも三年…かな」

おめでとう。そう言うべきなのは分かっている。なのに、喉がひりついて声が出ない。頭の中で、何かがガラガラと崩れ落ちる音がした。

「すごいじゃないか、三崎さん。夢だったんだろ?」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。彼女は、嬉しさと戸惑いが入り混じった、複雑な顔で僕を見ていた。

「うん…。でも、この店のことが、なんだか心残りで…。せっかく軌道に乗り始めたのに、途中で放り出すみたいで、ごめんね」

違う。僕が聞きたいのは、そんな言葉じゃない。でも、僕には彼女を引き止める資格なんて、どこにもなかった。ニューヨークと、神保町の片隅にある古書店。輝かしい未来へと羽ばたいていく彼女の足枷に、僕がなってはいけない。


『水無月の恋人』は、まだ見つかっていない。想いを伝えるという、僕のささやかな決意は、あまりにも脆く崩れ去った。

「応援してるよ。三崎さんなら、どこへ行っても大丈夫だ」

僕は、精一杯の笑顔を作った。それはきっと、ひどく歪んだ笑顔だったに違いない。


彼女の出発日は、一ヶ月後に迫っていた。それからの日々は、まるで現実感のない、映画の早送りのようだった。僕たちは、残された時間を惜しむように、店の引き継ぎ作業を進めた。SNSの更新方法、特集コーナーの作り方。彼女は自分の知識をすべて僕に叩き込んでくれようとした。

僕は、もう大丈夫だよ、という感謝の気持ちと、まだ行かないでくれ、という悲痛な叫びを胸に押し込め、ただ黙々と彼女の言葉に耳を傾けた。


そして、出発の前夜がやってきた。

僕は一人、明かりを落とした店内に佇んでいた。栞と二人で動かした本棚。彼女が書いてくれたポップ。店のすべてに、彼女との思い出が染み付いている。出会わなければよかった、なんて思わない。でも、出会わなければ、こんなにも胸が張り裂けそうな想いをすることもなかった。


ちりん、とドアベルが鳴った。そこに立っていたのは、コートの襟を立てた栞だった。

「最後に、顔が見たくて」

彼女はそう言って、少しだけはにかんだ。その手には、一冊の古い文庫本が握られている。

「これ…」

「探していた本、見つかったの。あなたの店じゃなくて、別の場所でだけど」

彼女が僕に差し出したのは、表紙が擦り切れ、ページが茶色く変色した、『水無月の恋人』だった。

「そうか…よかった」

僕は平静を装ってそう言った。これで、彼女の心残りは、もう何もないだろう。

「最後のページ、開いてみて」

言われるがまま、僕は震える指で、その本の最後のページをめくった。そこには、一枚の古びた押し花の栞が挟まっていた。見覚えがある。大学時代、僕がよく使っていた栞だ。そして、その栞の余白に、見慣れた彼女の美しい文字で、こう書かれていた。

『あなたにもう一度会いたくて、この本を探していました。 三崎栞』

「え…?」

どういうことか分からず、僕は栞の顔を見た。彼女は、泣き出しそうな、でも決意を秘めた瞳で僕を見つめ返した。

「ごめんなさい。嘘をついてた。本当は、『水無月の恋人』は、ずっと前から持ってたの」

彼女は、静かに七年前の真実を語り始めた。

大学のゼミで、僕が彼女に一冊の本を貸したこと。彼女はそれを読み終え、僕に返却した。けれど、その本には僕が挟んだままの、この押し花の栞が残っていた。彼女はずっと、その栞を僕に返したいと思っていた。けれど、人見知りで奥手だった彼女は、きっかけを掴めないまま卒業の日を迎えてしまった。

「卒業してから、ずっと後悔してた。どうして、あの一言が言えなかったんだろうって」

卒業後、僕の行方を知らなかった彼女は、数年後、共通の友人から僕が祖父の店を継いだと聞いた。そして、決意したのだという。

「あなたに会う口実が欲しかった。それで、思いついたの。二人にとって思い出の本だった、『水無月の恋人』を探しているふりをして、あなたのお店に行こうって」

店の経営を手伝ったのも、ただの親切心だけではなかった、と彼女は言った。

「あなたの力になりたかった。そして、少しでも長く、あなたのそばにいたかったから」

七年越しの、彼女の秘めた想い。僕が抱いていた劣等感や自信のなさが、いかに身勝手で、くだらないものだったかを思い知らされた。彼女はずっと、僕のことを見ていてくれたのだ。

涙が、止まらなかった。

「馬鹿だな、僕は…」

僕は、彼女の華奢な肩を掴んだ。

「行かないでくれ」

それは、僕の心の奥底からの、初めての叫びだった。

「僕も、ずっと君が好きだった。大学の時から、ずっと。君がこの店に来てくれて、僕の世界は色を取り戻したんだ。だから、行かないでくれ…!」

栞の瞳からも、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「…嬉しい。でも、行く。ニューヨークへ行くのは、私の夢だから」

彼女は、涙を拭いもせず、きっぱりと言った。

「でも、必ず帰ってくる。私のわがままだけど…待っていてくれますか?」

僕は、力強く頷いた。

「当たり前だろ。何年だって待ってやる。君が帰ってくる場所は、もう決まってるんだから」

「どこ?」

「この店だよ。君が、僕と一緒に守ってくれた、この場所に」

僕は彼女を強く抱きしめた。インクと古紙の匂い。そして、涙で濡れた彼女の匂い。それが、僕たちの未来の始まりの匂いだった。


〜それから、三年。

「一ノ瀬書店」は、いつしか神保町の路地裏の名物書店になっていた。僕が店主として企画するイベントは好評で、週末には多くの本好きで賑わう。


ちりん、と懐かしいドアベルの音が鳴る。

入り口に立っていたのは、少しだけ大人びた表情の、三崎栞だった。

「ただいま、一ノ瀬くん」

あの夜と何も変わらない、澄んだ声。

僕は、カウンターから駆け寄り、彼女の手を握った。

「おかえり、三崎さん」

古書店の片隅で、一度は途切れた僕たちの物語が、もう一度、新しいページをめくり始めようとしていた。

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古書店の片隅で、もう一度 はるさき @kazyugonta_7777

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