6話

 利津が家を空けるといった、次の日。


「おはようございます」


 世那が日差しを避けるように布団にくるまっていると、メイドの少女が部屋に入ってきた。


 少女は布団の隙間から見えた世那に、にっこりと微笑んだ。

 そうして、テーブルに食事を置き、窓のカーテンを閉めた。室内灯をつけ、ベッドに近づくと布団にくるまる世那の顔を覗き込んだ。


「今日は床の掃除をします。あ、食事にはかからないようにフードをかけてありますし、モップがけだけなので」


 世那の返答を待たず、少女は脱衣所に消えていった。暫くして濡れたモップを床にあて、掃除を始めた。


「……」


 世那はおずおずと布団の中から出た。少女はちらりと世那を見ると、にっこり微笑み頭を下げた。

 人懐っこい笑みに世那は答えられず視線を逸らした。今まで向けられたことのない優しい表情に戸惑ってしまったのだ。


「な、なあ……」


 世那は勇気を振り絞って声をかけた。すると女は手を止め、きちんと世那に向き直り首を傾げた。


「はい、なんでしょう?」

「……」

「……?」


 世那は礼が言いたかった。

 苦しくなるだけの日差しを遮ってくれたこと、ご飯を運んできてくれること、掃除をしてくれること。何より親なし吸血鬼だと軽蔑しないこと。


 黙り込んだ世那を見て、少女はモップの柄をゆらゆらと揺らしながら笑った。


「ご主人様の命でお仕事をしているだけですから、気負わずのんびり暮らしてください」


 ご主人様と言うのは利津のことだろう。その名が頭に浮かぶだけで、世那は酷い嫌悪に苛まれる。

 懐柔したいのか、罪を認めさせたいのか、……それとも他に何か企んでいるのか。ならば何故、こんな回りくどいことをするのか。

 考えれば考えるほど、世那にはわからなくなっていった。


「ご飯どうぞ。冷めたら勿体無いですよ」

「あぁ、うん……」


 世那のぶっきらぼうな返事に、少女は微笑んでモップがけを再開したが、すぐに手を止め世那を見た。


「あ、私、リリィて言います。気軽に呼んでくださいね」


 太陽のような笑顔と性格は、世那の心に影を落としかけた。しかし、世那は首を横に振って少女・リリィに笑いかけた。


「ありがとう、リリィ」


 リリィは目をぱちくりさせ、肩をすくませて笑った。


「あ、そうだ。ご主人様からお預かりしていたものが」


 何かを思い出したリリィは、手をポンと叩いてカートの方へ駆けて行った。そうしてあるものを手に取って世那に差し出した。


「ご主人様がいない間、飢えてはいけないですよね。ですからこれ……」


 言いかけた言葉を飲み込み、リリィはじっと世那を見つめた。世那はリリィの手元を見たまま固まっていた。


 身の毛もよだつような寒気が世那を襲う。喉が引き攣り、息もうまくできなくなっていた。毎日のように飲んでいたそれを、身体が欲していない。

 何故か? 理由は簡単だ。


――生きた血、利津の血が欲しい。


 世那は咄嗟に口を押さえてしゃがみ込んだ。


「大丈夫ですか?」


 リリィの優しい言葉すら気分が悪い。


――認められない。認めたくない。あんな男の血が欲しいなど。


「私は吸血鬼ではありません。……でも、飲まなくていいのでしたら、無理に飲む必要はないと思います」


 馬鹿にするわけでも、軽蔑するわけでもなく、リリィは淡々と話した。ただ、世那の心中は複雑だった。ここにいない利津が、今の世那を見て笑っているような気がしてならないのだ。


「何かあったら言ってください。私はこれで失礼します」


 そう言ってリリィは、部屋から出ていった。


 鎖が擦れて音を鳴らす。世那は拳を地面に叩きつけると勢いのまま立ち上がった。テーブルに置かれた血液パウチを手に取り、開ける。

 そして、一気に飲み干した。


「っ、はぁ……」


 咥内から喉、胃へと流れ、身体の奥底から溢れる欲求が満たされる。空腹とは違う、化け物の飢えがおさまっていく感覚に、世那は口角を上げた。


「ふふっ、ばっかくせえ……」


 生きた血でなくていい、真祖……利津の支配に堕ちていない。己は己のまま、己の意志で吸血している。


 世那の手からこぼれ落ちた血液パウチの中には一滴の血も残っていなかった。


「人間だ、俺は……。な、父さん、母さん」


 吸血鬼に堕ちようと、世那の支えは幼い頃の記憶だけだった。




―――



 世那は両親に愛されていた。

 父は工場で働き、母は弁当屋のパート勤め。ごく普通の温かな家族。お金持ちとは程遠かった。

 それでもボーナスが入れば、少し高い牛肉ですき焼きをしたり、年に一度は家族で近場を旅行したりした。

 今思えば、十分すぎるほど満たされていた。世那は、一生懸命な父母が大好きだった。


 生活が一変したのは世那が十歳。暦の上ではまだ真夏とは程遠かったが、汗がにじむ程の暑い日だった。


 夏休み前でウキウキする気持ちを隠しきれない世那は、終業式を迎え、大荷物を抱えながら帰路を歩いていた。友達と別れ、人気の少ない裏道に入った時、こつんと誰かにぶつかった。世那が抱えていた袋からどさどさと物が零れ落ちた。


「あ、ごめんなさい」


 世那はすぐに謝り、自分の荷物を拾い始めた。

 一方、ぶつかった大人は動かずじっと世那の前に立ち続けていた。荷物を抱えながら世那は恐る恐る見上げてみた。

 年は三十を超えたように見える男がそこにいた。ぼろぼろの服でぼうっとどこかを見つめている。

 その男は、世那が見えていないように、ただまっすぐ虚空を眺めていた。日陰のせいではっきりと顔を見ることはできないが妙に鉄臭い。


「っ……」


 世那は気味が悪くなった。荷物を抱え、逃げるように男を抜かして家の方へ走った。追いかけられたらいやだ、そう思って振り返ることを忘れ、全速力で走った。


 じりじり焼けるような道路を駆け抜け、やっと家に着いた。扉を開けて、中に入り鍵をしめた。


「は、は、よかった、逃げ切れた……」


 そう思ったが、すぐに違和感に気づく。

 いつもは出迎えてくれる母の声が聞こない。いつもは綺麗にそろえられている玄関の靴が四方八方に乱れていた。


「ただいま……」


 抱えた荷物を掴む手に、更に力がこもる。鍵は開いていた。なのにどうして母が出迎えてくれない。


 世那は靴を脱ぎ、荷物を下ろすとリビングの方へ歩いた。涼しいエアコンの風が廊下を抜け、汗だくの世那の体を冷やす。リビングのドアも開けっ放しだった。


 世那は恐る恐る、リビングに入った。

 探すまでもなく母はいた。しかも、仕事に行っているはずの父と共にそろってソファに座っていた。

 世那の緊張の糸が解け、深い溜息が漏れた。


「お父さん、今日お休みになったの? てか、二人とも、おかえりくらい言ってよね」


 返事はなかった。二人は何も映らないテレビの方を向いたまま世那を見ようとすらしない。

 世那はテレビの方へ回りソファに座る二人を見た。


「っ!」


 思いもよらない光景に世那の足から力が抜け、尻もちをついた。


 父と母はソファに座っていたのではない。首から真っ赤な血を流し、ソファに置かれていた。

 何が起きているか世那はわからなかった。震える指先は床を撫で、ふと何かに当たってそちらに視線を向けた。そこにあったのは紫色の部隊章だった。

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