3話
利津がいなくなって何時間経っただろうか。
世那はずっと布団の中で丸まっていた。部屋に小柄なメイドが一人入ってきたが、身を縮こませ隠れ続けた。メイドはテーブルに何やら置くと、気を利かせてカーテンを閉めて行った。おそらく日の光はない。だが、誰かと鉢合わせになることだけは嫌だ。そう思えたのも数分だった。
「あぁ、トイレ……」
そうぼやきながら世那は布団を一気にはぎ取った。
汗だくの身体は外気に触れて涼しいを通り越してヒヤッと寒気がするほどで、自然と身体がぶるっと震えた。
利津の言う通りならば、足枷を繋ぐ鎖はベッドの前にある鎖に繋がっている。つまり、少しは行動ができるようになっているということだろう。
そう思った世那は、ベッドから降りた。布団に引っかかった忌々しい鎖を振って地に落とした。汗だくの前髪をかきあげ、今一度周りを見渡す。
部屋の中は簡素ながらどこか品のある作りだった。ベッド、料理が置かれたテーブルに椅子が二脚、部屋を出るためのドア、ベッド横には壁、その壁の向こうにはもう一つ扉がある。
世那はジャラジャラと鎖を引きずりながら壁の向こう側にいってみた。幸い鎖の長さは足りた。ドアを掴み引いてみた。
むわっと湿気を含んだ空気が肌を撫でる。そこは脱衣所でご丁寧に同じ着流しが一反畳まれていて、バスタオルも一枚だけあった。
「……ホテルかよ」
捕虜にしては高待遇な対応に世那は首を傾げた。
自分を捕えた久木野利津という男は何を考えているのだろう、と疑問ばかりが浮かぶ。
普通ならば警察や軍に突き出すべきだし、地下牢に縛り付けるなりすればいい。
確かに鎖に繋がれてはいる。しかも、吸血鬼が苦手とする銀製の足枷が嵌っているため身体はだるく、逃げようにも力が入らない。
「っ……」
じくっと下腹部が痛む。尿意の限界を感じた世那は脱衣所の向こう側にあるドアを開いた。そこにはシャワーとトイレがあった。
「……風呂も入っちまうか」
世那は汗で濡れた着流しを脱ぎ捨て浴室に入った。シャワーとシャンプーとボディソープがあるだけの簡素な空間。足枷が邪魔して完全にドアを閉めることはできなかったが、尿意と汗だくの身体を綺麗に出来て満足だった。
風呂から出て水気を拭き取り、新しい浴衣に袖を通して部屋に戻った。下着はもとより履いてなかったので股下が妙にスース―するが、仕方がない。枷の嵌った足に下着を通すことは無理であり、そもそも用意すらされていなかった。
ぐぅ〜
情けない音が鳴り、世那はここに来て初めて笑ってしまった。そうしてテーブルに置かれた何かに目を向けることになった。
そこには、色とりどりの料理が乗っていた。柔らかそうなパンが2つ、ドレッシングがかかって少ししんなりしてしまったサラダ、冷めてしまったクラムチャウダー、ぬるくなったコーヒー。どれもこれも美味しそうで、世那の咥内が反射でじわっと濡れた。
「……」
とりあえず腹ごしらえだ、と世那は意を決した。重たい鎖を引きずり、テーブルの前についた。そうして誰もいない部屋を右、左と確認し椅子を力強く引いて座り、同時にパンを握り口の中に押し込んだ。毒が入っているかもしれないなど考える余裕もなかった。
「……はぁ、んめぇ」
何日ぶりかの食事は世那の身体を大いに喜ばせた。つい熱い溜息が漏れてしまうほどの嬉しさだった。興奮からスプーンを取る手が震え、食器とスプーンがぶつかりカチャカチャと無機質な音が鳴ったが、室温と同じ温度になったクラムチャウダーを一思いに掬って飲んだ。
「っ……」
じわっと溢れるアサリの香り。少し味付けが濃くて懐かしい。
スプーンを持った手は止まり、ごくりと喉を上下させて飲み込んだそれに、世那の目から大きな雫が溢れ出した。
「……は、ざけんなよ」
こんなところで、こんな目にあって、人ではなくなってしまったというのに蘇るのは幸せな記憶。久しく受けていなかった人間のような扱いに、世那は嗚咽を漏らしながら一滴も残すことなく食べきった。
――――
食事も摂った。風呂も入った。水だってたくさん飲んだ。だというのに、喉の奥から湧きおこる渇きを満たすことは出来ていない。
「うぅ……っ、クソ」
それでも世那は耐えていた。食事を終えて、ふといつも飲んでいたアレがないことに気づいてしまったことが間違いだった。
元人間の吸血鬼も真祖と同様、血を飲まなければならない。それは理性を多摩持つための言わば精神安定剤のようなもので、なければ錯乱し、近くにいる人間に見境なく噛みつき、最後は本能のままに生きる化け物へと変貌してしまう。
親なし吸血鬼も同じことだが、血を与えてくれる主人がいない。そのため、国は期限の過ぎた血液を親なし吸血鬼に無償で与えている。全ては人間が被害者にならないための政策だ。
捕まっている身としては贅沢すぎる生活を世那は送っている。それでも血液だけは欠かすことは出来ない。
世那の頭の中で何かがガンガンと鳴り響く。地鳴りのような音が鼓膜を震わせ、枷に埋め込まれた銀が更に吸血鬼化を急く。
とうとう布団の中にいるのも辛くなり、世那は地面に転がるように倒れた。背中を打ったが、喉を掻きむしるような飢えの方が強く、床に爪を立て這いつくばった。
「もう降参か?」
嫌味たらしい声が聞こえ、世那は睨むように見上げた。
そこには、白軍服姿の利津が立っていた。気配も音も感じることが出来なかった己を呪うように世那は盛大に舌打ちをした。
「血が欲しいか?」
ヒクっと世那の肩が動く。世那の瞳は燃えるように赤くなり、黒かった髪は質の悪い白髪へと変わる。人のものではない鋭い牙がカチカチと音を鳴らし、本能が欲する。
利津は吐息を一つ漏らすとにやりと口角を上げた。まるで悦に酔いしれているような妖艶な笑みを浮かべながら徐に腰にあった短剣を引き抜いた。そうして抜き身の刃を左手で強く握っては一気に動かした。真っ赤な雫が宙を舞うように落ちて行った。
「っは、……あぁ」
世那の中の理性が音を立てて切れた。わなわなと唇を震わせ、濡れた舌を見せつけるように伸ばす。溢れる唾液は地に落ち、這いつくばったまま何度も何度も執拗に床に爪を擦り付けた。
「ふふっ、随分と愛らしい反応だ。……くれてやる」
地を這うような声で笑い、利津は世那の前にしゃがみそっと手を差し出した。
真っ赤な鮮血が見えると世那はうっとりとした笑みを浮かべた。吸血鬼化で鋭くなった牙を見せつけるように大きく口を開き、利津の手のひらにねっとり舌を這わせた。
「っ!」
舐めた瞬間、世那の動きが止まった。
今まで飲んでいた血は偽物だったと思うほど、咥内を占める血液は甘美なものだったのだ。真祖の血、いや……それだけではない、甘く、灼けるような、形容し難い血。
中毒性のある血液に世那は無心でしゃぶりついた。
人間の理性を手放し、獣になった世那を利津は瞳を潤ませながら見つめた。
「世那……」
利津のささやきは、世那に届くことはなかった。
程なくして息が整い始めると世那の髪色は元の黒色へと戻っていった。
やっと自分がしていた行為に気付き、世那は動きを止めた。すると頭皮に強い痛みを感じ、されるままに顔を上げる形になった。
「始祖の血を貪り満足したか?」
「っ……」
さっきまで甘かった咥内が一気に苦くなる。世那は唇を強く噛んで髪が抜けることを覚悟し首を振って利津の手から逃れた。勢いが良すぎたため、引き抜かれていく髪は利津の手のひらを切り、細い傷が何本か出来、うっすら血が滲んだ。
利津は口角を上げ、その傷をわざとらしく世那に見せつけた。
「支給される血など二度と飲めない体に変えてやる。始祖……いや、俺の血に溺れて狂ってしまう程にな」
そう言いながら、指先の切り傷に舌を這わせ、ニヤリと笑みを浮かべる。利津は世那を一瞥し、部屋から出て行った。
世那は床に頭を叩きつけた。やっと自分に下される罰が何なのか理解してしまったのだ。
ゆったりした、衣食住に困らない夢のような生活。ただこれは利津の道楽に過ぎない。本当の目的は血に飢えた世那で弄ぶことだろう。腹立たしさと悔しさとどうにも出来ない自分の無力さ。実感させられるだけの日々が続くのだ。
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