第2話 抗う――辺境へ追放され、腐敗した砦を睨む
夜明けの光は薄く、砦の石壁をただ白くするだけで、暖かさは一片も運んでこなかった。中庭はぬかるみ、昨夜の酒の残り香と動物の汗、腐った木材の匂いが混ざり合って鼻腔を刺す。見張り台の一本が折れて傾き、旗は色を失って絡まり、影をつくる価値さえ放棄している。兵舎の戸口には無精髭の兵がぶらりと腰を下ろし、革紐の切れた鎧を肩で支えて欠伸をした。彼らの表情は、眠さと諦観のあいだで揺れているだけだった。
「王都から捨てられた悪役令嬢さまだとよ」
誰かが笑い、別の者が唾を吐いた。その唾は石に当たり、また跳ねて土に混じる。ここでは〈悪役令嬢〉という言葉が侮蔑の合言葉になっていた。名づけられることで、個は丸裸になり、誰もが安全に石を投げられる。けれど、私の目は逸らさなかった。顔を背けるのは、初めから女を陰に追いやるやり方だ。私は胸を張って扉を開け、低い声で言った。
「私はクラリス・リンドバーグ。今日からこの砦の責任者です」
言葉は冷たい朝気の中に溶け、しかしぬかるみへと確かな印を落とした。護送兵の隊長は鼻で笑い、通行証をぽんと私の胸元に放り投げると、馬を戻して去っていった。「さっさと首を垂れて冬を越せ。生き延びたら褒めてやる」——土煙のむこうへ去る背中は、城に戻るための報告書の一行に過ぎない。彼らにとって、ここは誰かが片づけるべき場所でしかない。そうして片づけられた場所は、腐敗の自律群を育てる。
土煙が収まると、黒外套の男がようやく近づいてきた。昨夜の影よりもはっきりした輪郭を持っている。彼は名乗らずに、私の脇へ静かに立つ。
「昨夜の言葉の続きを聞こう。国を作る、と言ったな」
私は姿勢を正した。足先でぬかるみを踏みしめるたびに、泥が靴底に張り付き、音を立てる。朝露がまだ衣の裾を湿らせている。
「あなたは?」と私が訊くと、男は短く応えた。
「リュシアン。亡国の軍師だ」
彼の言葉はまるで帳簿をめくるように簡潔で、感情の余白を残さない。その目は、地図の上に置かれた石を眺めるように、この砦と周囲の地勢を見渡した。彼は手短に要点を列挙する。川沿いに点在する三つの村、盗賊団の影、王都へ伸びる街道が補修されず事実上の死線になっていること、補給が枯渇寸前であること。砦の兵は百に満たず、士気は底を這っている——つまり、守備の皮を被った放置であると。
放置は罪を匿名化する。責任を投げれば誰もが責められなくなる。貴族教育で教わった言葉が胸腔に響く――無能の最大の罪は、無責任を大量生産することだ。私はその言葉を、石の冷たさとともに噛み締めた。
砦長の部屋と称される石窟は、天井が低く、空気が昔の煙を含んでいた。机上には古びた地図と駒、羽根ペンが一本。私はリュシアンと差し向かいになると、まず決めるべきことを二つ口にした。
「一つ、誰が私の命令系統に入るのか。二つ、最初の勝利をどこで掴むのか」
彼は口角をわずかに上げる。「命令系統は簡単だ。君は象徴と断じられている。なら象徴らしく“宣言”をし、私は実務を束ねる。最初の勝利は盗賊団の掃討だ。だが、その前に君は兵を動かす理由、民を味方にする理由を示す必要がある。兵は金と食を追う。民は安全を求める。放置されている者は、『見捨てる』という決定に慣れてしまっている。君が変えるのは、その慣性だ」
言葉は明晰だが、簡単ではない。兵は怠惰で、信頼はゼロに近い。私は微かに笑い、儀礼の力を信じることにした。
「ならば儀礼から始めましょう」と私は言った。「朝礼を復活し、装備点検を義務化し、訓練閲兵は私自らが行う。だがただ罰を与えるだけでは駄目。罰と同時に報酬も設ける。鍛錬達成者には衣食の優先配給を。家族を持つ者には特別配慮を。病者には医務室の再整備を約束する」
リュシアンは短くうなずいた。「仮面をかぶるのだな。君は“悪役令嬢”と呼ばれている。ならその外装を借りて規律を敷く。だが内実を変えよ。仮面の下に暖炉を入れろ。人は暖炉の光でしか耐えられぬ」
罰の仮面をかぶる――それは皮肉な戦術だ。人は嫌悪するものにも従うが、そこに公正が混じれば、心は緩む。私は自分の手袋を外し、机に置いた。決意の表明より先にやるべきことを見せる。象徴は言葉を持つが、象徴はまた行為で証明される。
その日の最初の仕事は市場への訪問とした。代官邸は王都の任命者であり、賄賂と相互見逃しで回るこの地の腐敗の核心かもしれないが、力はそこに直行しても握れない。人の流れと噂は市場で最速に混ざる。私は裾を気にも留めず、朝霧に満ちた市場へ足を運んだ。粉屋は肩をすくめ、魚屋は目を逸らす。だが、老婆が私の前にすっと現れ、小声で囁いた。
「盗賊が、橋を焼いたんじゃ」
橋の焼失は、ここを袋小路にするということだ。補給路を断ち、村を隔離し、砦を孤立させる。孤立は、腐敗の温床だ。リュシアンの顔には短い緊張が走った。彼は地図の上に指を落とし、「橋を修繕しない限り、我々は退路を絶たれる」と言った。
私は即断する。「橋の再建を最優先、盗賊団を偵察——戦う前に戦う条件を整える」
広場に戻ると、私は宣言を作り、声を張った。紙片に印を押すほどの形式はないが、言葉は人の耳へ届く。広場の石に立ち、私は言った。
「私がここに在る限り、辺境は捨て置かれない。婚約破棄で失った名誉は、この地で取り返す。悪役令嬢の名は、腐敗を断つために使う」
沈黙のあとに失笑がいくつか起きた。しかし、私は見逃さなかった。ほんの少数の兵が、無意識に踵を揃える動作をした。軍の躾は、小さな動作から生まれる。信頼は点から線へ、線から面へと広がる。その最初の点をいくつ増やせるか——それが今の私の仕事だ。
私は自分の手を泥に突っ込んだ。貴族の白い指は瞬く間に黒く染まり、爪のあいだに土が詰まった。兵の一人がぽつりと言った。
「お貴族さまが泥に触るなんて……」
そして、誰もが見たくないものを見たかのように、一瞬だけ目を逸らした。だが目を逸らしたこと自体が、変化の端緒だ。人の視線は、慣性でしか戻らない。
日が傾くころ、砦にはわずかな張りが生まれた。橋の再建計画を立て、村人たちに木材と手伝いを手配し、備蓄の棚は優先順位をつけて整理した。医務室には布が引かれ、薬草が洗われた。小さな勝利は、すぐに消え去るほど脆いが、継続すれば鋼の筋になる。
夜、リュシアンは地図の上に石をぽんと置いて私を見た。
「君は敵ではない。君の相手は無関心だ」
その言葉は冷たいけれど真実だった。無関心は敵よりも果てしない。だが、私は頷いた。
「だからこそ、抗う。放置という最大の暴力に」
彼は静かに笑い、そして地図の角を指差した。そこには橋の位置と、盗賊の潜みそうな林が示されている。彼の指先は、計画の始まりを示す。数は足りない。物資も足りぬ。だが、意思はある。意思はやがて形に触れていく。
翌朝、橋は幾分か形を取り戻していた。村の若者と兵数人が泥を運び、ロープを張り、梁を起こした。私は手袋を外し、木材の継ぎ目を固めるために最後の釘を打った。小さな金槌の一打ちが、私の手に伝わる。振動は冷たく、確かな仕事の証拠だった。誰かがそっと私の隣に立ち、桶を差し出した。私は顔を上げると、兵のひとりが恥ずかしそうに笑っている。笑顔は形をもって伝染する。笑顔は稀少だが、それが育つ土は、決して貧しくない。
それでも、夜の帳が下りると、私は石窟に戻り、地図に新しい線を引いた。盗賊の動線、補給の予定、橋の負荷計算、村の人口と食糧消費の予測。数を載せれば計画は少しだけ現実味を帯びる。リュシアンは黙って見守り、時折小さな修正を指示する。そのたびに私たちの盟約は細かく織り上げられていく。
「抗う」と宣言するのは易しい。抗い続けるのは難しい。だが、ここは最下層だ。最下層は最も自由だ。私は夜ごとに小さな帳簿を増やし、朝ごとに声を合わせる人を一人ずつ数えた。信頼は点から始まり、私たちはその点を線にしていく。線が交われば面が生まれる。面は、やがて城の白い光を反射しはじめるだろう——だが反射はまだ遠い。まずはこの砦の井戸を満たす。まずは橋を渡れるようにする。まずは、ここにある人々が夜、安心して眠れるようにする。
リュシアンが最後に言った言葉は小さく、しかし明晰だった。
「君は良い約束をした。だが約束は、履行する者でなければ単なる紙切れだ」
私はその言葉を胸に、もう一度地図に目を落とした。泥に付いた指紋は消えない。指紋は、証拠であり、記憶だ。記憶を刻むのは、痛みでも誇りでもない。日々の手仕事だ。私はペンを取り、明日の項目を記した。
放置は暴力だ。腐敗は黙認の結果だ。私はその暴力に、黙してはいない——抗う。抗い方は、叫びや刃だけではない。草鞋を結い、材を運び、帳簿を付け、約束を守ること。私は泥の匂いを深く吸い込み、夜空の冷えを肩で受け止めた。辺境の朝は、まだ寒い。しかし、そこに小さな島が生まれつつある。その島の灯りは、白くはないかもしれない。だが、人を誘う温度を少しだけ持っている。
砦の壁の隙間から、遠い村の子供が笑う声が聞こえた。笑いは小さく、でも確かな反響を持っていた。私はそれを聞きながら、静かに歯を見せた。抗いは、始まったばかりだった。
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