木曜日の金魚
鉢
第1話 すねこすり
夏の夜更けの下町は、どこか薄い明かりをまとっていた。
町工場を出た田島清三は、油と鉄の匂いが染みついた生成りのシャツを着て歩いていた。汗と煤が布の色を曖昧にし、肩は重い。遠くからテレビの笑い声や皿を洗う水音が漏れ、暮らしの気配が路地の隙間に漂っている。だが清三には、その輪の中に自分がいる実感はなかった。
ふと、足元に何かがまとわりついた。
「……うわっ」
膝が折れ、砂利に手をつく。影のようなものが足首に絡んだが、次の瞬間にはすっと消えた。
「何だ……?」
そう呟いたが、足元には何もいない。街灯の下に影はなく、路地はただ暗く続くだけだ。
気づけば、見覚えのない細い道に入り込んでいた。煤けた格子戸に金魚柄の暖簾が掛かる小さな店がひとつ。戸口の裸電球が、弱々しくも確かに灯っている。
こんな所に店など有っただろうかと困惑しながらも清三は戸を引いた。扉は静かに開き、中の空気が流れ出す。
そこは駄菓子屋だった。
だが、置かれているものはすべて金魚だった。
瓶のラムネには赤い金魚の絵。飴玉は尾をひるがえす形をしている。紙袋のお面も、風車も、紙風船までも金魚柄。裸電球に照らされ、赤い鱗が無数に揺れていた。
奥から煙管を咥えた少女が出てきた。
年の頃は十五に満たないように見える。少しぼさっとした黒い髪の下の目は澄みすぎていて、声は妙に古びて低かった。
「……お主、すねこすりに嗅がれたな」
清三は眉を寄せ怪訝な表情をした。
「すね……何だって?」
「すねこすり、じゃよ」
「あぁ…猫みたいな妖怪だったか…?」
「あやつらは、人の心の穴を埋めるために纏わりつくのじゃよ」
「心の穴って…そんなもん俺には…」
少女と短いやりとりをした後、「はぁ」と短い溜息を一つ吐き出した。
少女は菓子棚の上にある大きなガラスびんから、紐付きの赤い金魚型の飴をひとつ取り出した。
「舐めろ。足元は離れる」
言われるがまま、つい清三は飴を口に含んでしまた。口に入れ冷たい甘さが広がった途端、赤い光が喉の奥からふっと漏れた。光は小さな金魚の形をとり、尾を揺らして足元を漂った。
漂った足元の先に影が見える。最初は薄っすらとしていたが金魚がくるくると漂うたびに影を濃くしていく――すねこすりは、それにまとわりついた。甘えるように、寂しさを埋めるように。
そして、溶けるように消えた。
清三は立ち尽くした。
胸の重みはわずかに軽くなったが、心の奥の穴は埋まらない。
「困り事は、木曜日に来るがよい」
振り返ると、いつの間に店の外に出たのか駄菓子屋の戸は閉まり少女の姿もどこにもなかった。
清三は、何かに釣られるように駄菓子屋の看板――金魚屋を見上げた。
舐めて溶かけの金魚飴だけが、口の中でかすかに甘さを残していた。
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