第26話 非公式会談

 庁舎の時計が午後八時を指していた。

 外では、避難を終えた通りを風が渡っている。

 瓦礫の隙間からこぼれる赤い残光が、夜を拒むようにまだ灯っていた。


 地下通信室の扉を叩く音。

 石田が顔を上げると、工藤が息を切らして立っていた。

 「上層部が動いた。今夜、軍が正式に庁舎を接収する」

 「――やはり、来たか」

 石田は無言でペンを置いた。


 机の上には、高梨の補足供述の写しと、庁舎日報の空欄ページ。

 そこに何を書くべきか、まだ決めかねていた。


 「ウェイドが直接来るそうだ」

 工藤の声には焦りよりも、どこか諦めに近い静けさがあった。

 「非武装で、だとさ。だが、非武装で来るということは、それだけ確信を持っているってことだ」

 石田は短く息を吐く。

 「つまり、もう筋書きは決まっている。――市長の署名を取る、それだけだ」


 蛍光灯が瞬き、室内の影が揺れた。

 石田は立ち上がり、戸棚から古い録音機を取り出す。

 「何をする気だ?」

 「記録を残す。誰が何を言ったか、それだけでも残らなければ、次の沈黙はもっと深くなる」

 工藤が苦笑した。

 「お前らしいな。だが、録音なんて見つかれば即没収だぞ」

 「それでもいい。沈黙の裏付けには、記録が必要だ」

 そう言いながら、石田はスイッチを入れた。

 古い機械が低く唸り、赤いランプが灯る。


 ◇


 庁舎の上階、議会室。

 杉原市長は暗い窓辺に立ち、外を見下ろしていた。

 街路灯のほとんどが消え、代わりに軍の車両灯が並んでいる。

 「……まるで葬列だな」

 呟く声に、秘書官が顔を伏せる。

 「市民に知らせますか?」

 「知らせたところで、誰が信じる。もうこの街では、真実も嘘も同じ顔をしている」


 扉の向こうから靴音が近づく。

 「ウェイド少佐が到着しました」

 短い報告の後、扉が開く。

 ウェイドは軍服の上に防塵コートを羽織り、手には封筒を持っていた。

 「夜分に失礼します」

 声は静かだった。だが、その静けさの奥に、確かな命令の気配があった。


 杉原は椅子に腰を下ろし、机上の地図を押さえた。

 「命令書か?」

 「はい。軍政局からの通達です」

 ウェイドは封を切り、書面を差し出す。

 《市政の一時凍結及び臨時軍監督権の発効》。

 そこに必要なのは、市長の署名ただ一つ。


 「つまり、これに署名すれば――この街は正式に“管理下”に置かれる」

 「秩序を維持するための一時的措置です」

 「秩序とは便利な言葉だ。誰もがそれを望んでいるようでいて、実際には自分の恐れを隠すために使う」

 ウェイドは言葉を失った。

 沈黙が二人の間に落ちる。

 外の風が窓を叩き、カーテンがわずかに揺れた。


 「私は署名しない」

 杉原は低く言った。

「あなた方が介入しても、この街は救われない。沈黙を命じられるだけだ」

 「沈黙は、時に街を守ります」

 「違う。沈黙は腐らせる」

 その言葉に、ウェイドの視線が揺れた。

 「では、あなたは混乱を望むのですか」

 「混乱は真実の一部だ。削れば、歪む」


 ウェイドは封筒を机に置き、立ち上がる。

 「市長、私もこの命令が正しいとは思っていません。しかし――」

 言葉を切り、彼は遠くの街灯を見た。

 「命令は、私の意志より早く届く」

 その一言に、杉原は静かに笑った。

 「あなたは、まだ観測者でいようとしている」

 「それが私の役目です」

 「だが、観測する者は必ず観測される。今のあなたは、自分の沈黙を見つめているだけだ」


 その瞬間、扉が開き、工藤が駆け込んできた。

 「市長! 地下通信が傍受されています!」

 杉原の顔が強張る。

 ウェイドが振り向いた。

 「傍受?」

 「録音機の回線に何者かが割り込んでいます。おそらく軍の通信網です」

 「――誰が指示した」

 工藤の視線がウェイドを刺す。

 「あなたか?」

 「違う。そんな命令は出していない」

 「信じろと?」

 「信じなくていい。だが、今この庁舎には別の“耳”がいる」


 ◇


 通信室。

 石田が録音機に顔を近づけ、ノイズの中に微かな声を拾っていた。

 《……認識せよ。対象地点、庁舎第三層。文民代表交渉中。――武装班、十五分後に進入》。

 「武装班……?」

 彼は息を呑み、受話器を取る。

 「工藤、聞こえるか。誰かが、命令を上書きしてる」

 「何だと?」

 「非武装接収のはずだ。だが、別の部隊が動いてる。――ウェイドとは無関係だ」

 その瞬間、廊下の奥で金属音が響いた。

 警報ではない。銃の装填音だった。


 石田は録音機を止め、紙束を掴む。

 その中に、高梨の最後の文がある。

 《沈黙もまた、言葉を生かすためにあるのかもしれない》。

 ――だが、今の沈黙は、誰かの命を奪う。

 思考より先に、身体が動いた。

 彼は資料を胸に抱え、階段を駆け上がる。


 ◇


 議会室では、銃声が遠くで鳴った。

 工藤が窓際に走り寄る。

 「進入だ!」

 杉原が顔を上げ、ウェイドを見た。

 「これが、あなたの“秩序”か」

 ウェイドは即座に無線を取る。

 「こちらウェイド、即刻攻撃を中止せよ! 繰り返す、非武装での介入命令だ!」

 しかし応答はない。

 ノイズだけが響く。


 扉の外から、荒い息と靴音。

 兵士たちが突入を始めた。

 工藤が机の下に隠していた非常用無線を起動する。

 「地下、応答しろ! 石田!」

 だが、ノイズの奥から微かに聞こえたのは――録音機の再生音だった。

 《……沈黙もまた、言葉を生かすためにある》


 ウェイドが息を呑む。

 その声が今、庁舎全体に流れていた。

 兵士たちの動きが一瞬止まる。

 録音機の声が続く。

 《だが、沈黙が長すぎれば、言葉は死ぬ》

 高梨の声だった。


 その一瞬の隙をついて、杉原が封筒を掴み、机に叩きつける。

 「これが、お前たちの言葉だ!」

 書面は破れ、白い紙片が宙に舞う。

 ウェイドは銃を抜いた兵士たちの前に立ち、腕を広げた。

 「撃つな! 命令は撤回だ!」

 叫びが反響し、天井の照明が一つ弾けた。


 静寂。

 煙の中で、紙片が舞う。

 破れた命令書の欠片がウェイドの肩に落ちる。

 《秩序とは、構造である》。

 印字されたその一行を見つめ、彼は微かに笑った。

 「構造は、崩れて初めて形になるのかもしれない」


 ◇


 庁舎前の通りには、まだ煙の匂いが残っていた。

 軍の車両は撤退し、街は再び静寂に包まれている。

 石田は階段に座り、焼け残った録音機を抱えていた。

 再生ボタンを押すと、微かな音が流れる。

 《……言葉は、沈黙を壊すためにある。だが、沈黙もまた、言葉を生かすためにある》

 ――そして、その沈黙を破る音は、いつも誰かの決意から始まる。


 彼は空を見上げた。

 灰色の雲の向こう、かすかに光が差していた。

 港の方角で、通信塔の赤いランプが一度だけ点滅する。

 まるで街そのものが、沈黙の中から息を吹き返そうとしているかのように。

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