第24話 言葉の閾値 2

 夜が明けきらぬうちに、庁舎の地下室に明かりが灯った。

 通信制限が敷かれてから二十四時間。外の街では新聞もラジオも沈黙し、人々は噂だけを食べて生きていた。

 その噂は、灰のようにどこにでも降り積もり、真実の輪郭を曖昧にしていく。


 石田は暗い記録室の中で、埃をかぶった資料箱を一つずつ開けていた。

 高梨の供述書――二種類のうちの一つが、確かにこの部屋に保管されているはずだった。

 だが、どの箱にも見当たらない。

 「……また誰かが、動かしたな」

 彼は棚の隅に手を伸ばし、封の切られた封筒を見つけた。

 中には、半分ほど焼け焦げた紙片が一枚。

 インクの跡で、かろうじて読める文字があった。

 《利用された。だが、それでも私は沈黙を選ぶ》。


 「沈黙を、選ぶ?」

 石田は眉をひそめ、指先で紙をなぞった。

 焦げ跡が黒く滲んで指につく。

 その瞬間、背後から足音。

 「工藤か?」

 「……ああ」

 現れた工藤は外套の襟を立て、疲れきった目をしていた。昨夜の鎮圧現場から戻ったばかりだ。


 「どうだ、外は」

 「まだ燃えている。だが、燃えているのは建物じゃない。人の心だ」

 工藤は机に手を置き、深く息を吐いた。

 「……市長は?」

 「上でウェイドと話している。放送再開を求めているが、軍は許可しない」

 

 石田はそう言いながら、焼けた紙片を見せた。

 「高梨の新しい供述だ。本人の手書きだと思う。だが、どこにも提出されていない」

 「誰が持ち出した?」

 「分からない。ただ、これには“沈黙を選ぶ”とある」

 「……利用されたと知っても、沈黙を選んだ?」

 工藤は言葉を噛み締めた。その声には怒りよりも、哀しみが混じっていた。


 「真実を出すことが、誰かを救うとは限らない。むしろ壊すことのほうが多い」

 石田の声は低かった。

 「だが、それでも公にするべきだ」

 工藤はきっぱりと言った。

 「それが、この街に残された最後の“筋”だ」

 沈黙が落ちた。

 遠くで電線が鳴る音がする。停電の後、非常電力がわずかに復旧したらしい。

 蛍光灯が一瞬だけ明滅し、また消える。


 ◇


 午後、庁舎の地下廊下に高梨が連れられてきた。

 拘束は解かれているが、両手は震えていた。

 「供述を補足したい」と、彼が自ら申し出たのだ。

 ウェイドは興味を示さず、杉原の判断に委ねた。


 小さな取調室。机の上には蝋燭が一本、細く灯っている。

 高梨の頬には古い傷跡が残っていた。

 「お前が書いたこれは、いつのものだ?」

 石田が焼けた紙片を差し出すと、高梨はしばらくそれを見つめ、ゆっくりと頷いた。

 「……昨夜、燃やした。残ると思っていなかった」

 「なぜ燃やした?」

 「誰かのために、言葉を使うことが怖くなった」

 「怖い?」

 「言葉は、誰かの口を離れた瞬間に、もう誰のものでもなくなる。あの時も、俺の証言が街を動かした。でも、誰も俺の意味を聞かなかった」

 高梨の声は震えていたが、確かに届く重さを持っていた。


 工藤が前に出る。

 「それでも、お前はと書いた。なぜだ?」

 「沈黙していれば、誰も新しく傷つかないと思った。だが、間違っていたのかもしれない」

 「間違いじゃない」

 

石田が静かに言った。

 「誰もが沈黙を使って、生き延びようとした時代だ。お前だけじゃない」

 その言葉に、高梨は苦く笑った。

 「そうやって俺たちは、生き延びる代わりに、何を失ったんですかね」


 蝋燭の火が揺れる。

 薄暗い部屋に、外の風の音が響いた。

 その風には灰の匂いが混じっていた。

 まるで街全体が、まだ燃え尽きていないかのようだった。


 ◇


 夕刻、石田は取調記録を持って庁舎の階段を上がった。

 上階では、杉原とウェイドが再び会談を続けていた。

 扉の隙間から聞こえる二人の声は、まるで異なる言語のようだった。


 「秩序は構造だ」と言うウェイド。

 「筋を失えば、民は立てなくなる」と言う杉原。

 そのどちらの声にも、かすかな疲弊が混じっていた。


 石田は扉を叩かなかった。

 ただ、静かに取調記録を机の上に置き、部屋を去った。

 廊下の窓から見える街には、まだ避難の列が続いていた。

 夕焼けの光が灰を照らし、血のような色に染めていた。


 地下に戻ると、工藤が机に突っ伏していた。

 「どうした」

 「高梨が……また書いている」

 「何を?」

 工藤が差し出した紙には、震える筆跡でこう書かれていた。

 《言葉は、沈黙を壊すためにあると思っていた。

  だが、沈黙もまた、言葉を生かすためにあるのかもしれない》。


 石田はしばらく黙ってその文字を見つめた。

 外の風が通気口を抜け、蝋燭の火を揺らす。

 火が消えかけ、また小さく立ち上がった。


 「……これは残すべきだ」

 「でも市長は、もうこれ以上の混乱を恐れている」

 「混乱を恐れて言葉を封じれば、次に沈黙を恐れる。どちらも同じだ」

 石田の声には、決意というより疲れに近い静けさがあった。

 工藤は唇を噛み、ゆっくりと頷いた。


 「じゃあ、俺が市長に届ける」

 そう言って立ち上がる彼の姿に、かつての記者の面影が一瞬だけ戻った。

 背中越しに、石田が言った。

 「気をつけろ。今の街は、言葉一つで燃える」

 「分かってる。だからこそ、言葉を渡す」


 ◇


 夜、庁舎の屋上。

 空は曇り、星は見えない。

 港の方角では、まだ赤い火がくすぶっていた。

 工藤は手に握った紙を見つめる。

 風が強く、何度も紙を奪おうとする。

 ――《沈黙もまた、言葉を生かすためにある》。


 その一文を、彼は声に出して読んだ。

 誰にも届かない声だったが、その瞬間だけ、確かに街の風が止まった気がした。

 やがて、再び灰が舞い始める。

 工藤は紙を折りたたみ、胸にしまった。


 その下で、庁舎の通信塔が再び光を取り戻す。

 一瞬だけ赤いランプが灯り、また消えた。

 まるで誰かが沈黙の中で、言葉を探しているようだった。

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