第21話 灰の街の祈り 1
灰が降っていた。
夜明け前、港の空気はまだ湿っていた。
昨夜の煙の残り香が、潮に混じって漂う。
通りの角に倒れたままの横断幕に、雨が落ちていた。
墨で書かれた文字は、にじんで読めなくなっている。
――「真実を出せ」。
◇
午前八時。
港区の広場に、すでに数百人の群衆が集まっていた。誰もが手に古新聞や布切れを掲げ、墨で書かれた文字が風に揺れている。
《真実を出せ》《市を解体せよ》。
木箱をひっくり返した即席の壇上で、男が拡声器代わりのブリキ缶を口に当て、怒鳴り続けていた。声は次第に重なり、やがて意味を失って轟音となる。
倒れた交通標識の上では、少年が火を点けた瓶を掲げている。石畳に落ちた火が油を這い、古い車両のタイヤを焼いた。煙が低く流れ、視界が灰色に染まる。
憲兵の部隊が到着する。盾もなく、古い軍用ヘルメットを被ったまま整列したが、隊列はすぐに崩れた。
警笛の音。馬の嘶き。叫び声。
それらすべてが混じり合い、街はもはや言葉ではなく音で満たされた。
市警の本部はすでに麻痺していた。通信線が焼け、各署との連絡が途絶している。
そのため指揮権は臨時的に占領軍へ移譲された。
港湾地区の高台で、ウェイド少佐が無線機の受話器を握りしめていた。
「第一区画、退避線を保て。撃つな、群衆を散らすだけでいい」
声は冷静だったが、その奥には苛立ちが滲んでいる。
背後では若い将校が地図を広げ、各隊の配置を記していた。
「感情の上に秩序は築けない」
ウェイドは低く呟き、港の煙を見下ろす。
市庁舎の塔が、遠く鈍く光っていた。
◇
同じ頃、市庁舎では緊急会議が開かれていた。
議場の空気は湿っていた。床には踏み荒らされた灰が溜まり、窓から差す光が煙に霞んでいる。
軍代表の通訳官が書類を机に叩きつけた。
「戒厳を布告すべきです、市長。状況はすでに統治の限界を超えています」
杉原は眉をひそめ、答えずに灰皿に視線を落とした。
灰の中に、一本の火の消えた煙草が転がっている。
「民を押さえつければ、彼らの叫びは地下へ潜るだけだ」
ようやく口を開いた杉原の声は低かった。
「叫びが地上を焼いているのが見えぬか?」通訳官が苛立ちを露わにする。
それを制すように、背後からウェイドが入ってきた。
軍帽を外し、灰を払う仕草が無駄に静かだった。
「叫びを恐れるな、市長。だが燃やし尽くされる前に、線を引くのは政治の役目だ」
「あなたの線はいつも、誰かの首の上に引かれる」
「秩序とはそういうものだ」
二人の声が交わるたび、部屋の温度が確かに下がっていく。
窓の外では、遠くで爆音が響いた。燃料庫のひとつが炎上したらしい。
午後。
杉原と工藤が言い争いをしていた。
「行かせてください、市長。あの人たちの言葉を、誰かが受け止めなければ」
杉原は短く目を閉じた。「危険だ」
「危険なのは、誰も耳を傾けなくなることです」
工藤はそう言うと、外套を羽織った。
外へ出ると、街路はすでに瓦礫と煙で覆われていた。
バリケードの陰で、子供が泣いている。倒れた街路樹の枝に、誰かが旗を結びつけていた。
《声を返せ》
墨の滲んだその旗が、風に翻っていた。
工藤は群衆の間を歩いた。鉄条網の向こうで怒号が飛ぶ。
「お前も同じ穴の狢だ!」「市長の犬め!」
誰かの投げた瓶が足元で砕け、炎が跳ね上がった。
憲兵が割って入り、工藤を庇うように盾を構える。
しかし、その憲兵の目にも迷いがあった。
誰が味方で、誰が敵なのか。誰も分からなくなっていた。
次の瞬間、石が飛んだ。頬をかすめる痛み。
誰かの拳が腹を打つ。倒れた工藤の視界に、街の壁が映る。
そこに貼られた紙。煤けた標語。
《沈黙は罪》。
雨に濡れた墨の線が、ゆっくりと滲んでいく。
胸の奥が焼けるように痛んだ。
夕方、ようやく治安部隊が撤退線を引いた。
港の煙はまだ消えず、灰が雪のように降り積もっていた。
工藤は市庁舎に戻され、応急室の椅子に腰を下ろした。
消毒液の匂いの中で、指先に残る熱を見つめる。
そのころ、庁舎の廊下を石田が駆け抜けていた。
「報道局の紙面が出ました!」
彼の手には、湿った新聞が握られている。
見出しには黒々とした活字――
《軍、戒厳を要請/市長は拒否》。
「早すぎる。……誰が流した?」
杉原が紙を握りつぶす。
「誰かが民を動かしている。だが、それが敵なのか味方なのか、もう誰にも分からない」
石田の声はかすれていた。
外では鐘の音が鳴り続けている。避難を促すための非常鐘だ。
窓辺に立つ杉原は、灰に煙る街を見下ろした。
人の列が蛇のようにうねり、避難民が橋を渡っていく。
街路灯が一つ、また一つと消えていく。
「……声が、糧になってしまうのかもしれない」
杉原の呟きに、背後のウェイドが静かに応じた。
「声は武器だ。沈黙こそ、暴力より危険だ」
窓の外では、群衆の声が遠くに吸い込まれていく。
灰がまだ降っていた。
その灰の中に、誰かの祈りが混じっているように思えた。
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