第19話 虚構の証言 1

 灰が再び街を覆い始めた朝、市庁舎の灯りは夜の延長のようにまだ点いていた。

 監査室の奥、金属製の書類棚の前で、石田が黙々とタイプライターのキーを叩いている。紙の送りローラーの音が乾いた呼吸のように響き、薄い煙草の煙が漂う。


 机の上には、港湾爆発に関する供述書が二部並んでいた。どちらにも高梨の署名があり、日付も印章も同一。だが、わずかな文体の差――に変わっている。それだけで、責任の所在はまるで違う意味を持つ。


「これを見てくれ」

 石田が指で示した。

 印刷のインクが薄くなっている箇所、署名の端のかすれ具合――そして、複写紙の裏に残った打刻痕が微妙にずれている。

 「複写ミスじゃない。……意図的に打ち直された跡だ」


 夜勤明けの若い監査員が椅子の背から身を乗り出す。

 「誰がそんなことを?」

 石田は答えなかった。窓の外、灰色の光がゆっくりと庁舎の壁を照らし始める。

 その光の中に、彼はかすかな恐怖を感じていた。――この改竄は、単なる一人の誤りではない。組織そのものの呼吸の仕方が変わり始めている。


 午前十時、杉原が監査室に姿を現した。

 彼は朝からの会議を中断して来たらしく、上着の肩口に灰が積もっている。

 「報告を」

 石田がファイルを差し出す。

 杉原はページをめくり、二枚の供述を見比べた。眉間の皺が深くなる。


「これは……誰の承認で複写した?」

 杉原の声は低く、紙の擦れる音に沈んだ。


 石田は机の上に一冊の閲覧簿を広げた。

 罫線の隙間には、鉛筆の走り書きと、薄く押された印影が並んでいる。

「おかしいんです。高梨の供述を閲覧した記録が、同じ日に二度あります。ひとつは昼間、もうひとつは夜更け――署名が違う」

 

 杉原が顔を上げる。

「誰の署名だ?」

「判読しづらいんですが……最初の閲覧は私が確認しています。二度目の署名は、筆跡からすると庶務係の誰かかもしれません。ただ――」

 石田は指で欄外を指した。そこに、薄く擦れたインクの跡があった。

「この部分、上から消しゴムをかけて別の印を押してます。おそらく、閲覧印の改竄です」


 杉原はその頁を傾け、光に透かした。

 紙の繊維がわずかに盛り上がり、古いインクの染みが下から浮き上がる。

「……上書きか」


「はい。しかも、この閲覧簿は鉄製の鍵箱に入れてあります。保管鍵は三人――監査長、私、それから市長室の事務官だけが持っています」


 沈黙が落ちた。

 杉原は視線を落としたまま、ゆっくり息を吐く。

「つまり、内部の人間だな」


 石田は頷き、さらに言葉を重ねる。

「おそらく複写は、夜間に手動で行われています。印刷機を使った痕跡があります。紙質も少し違う。新しい方は外国製の薄紙で、タイプライターの活字が深く食い込んでいる。……戦後の占領期に入ってきた備品を使ったんでしょう」


 杉原の眉がわずかに動く。

「戦時中の記録と、戦後の用紙か」

「ええ。まるでを作り直したように」

 


 石田は机の下からもう一冊の台帳を取り出した。

 「そして、もう一つ、妙な記録が出ました」

 開かれたページの端には、鉛筆で書かれた細い文字がある。

 “K.確認。夜間輸送OK。”

 杉原は黙ってその文字を見つめる。鉛筆の筆圧は軽く、しかし慌ただしい。

 石田が口を開く。

 「高梨の報告に出てくるKという名。偶然とは思えません。おそらく、承認者の頭文字かと」


 杉原は短く頷いた。

 その瞬間、背後でドアが開く。

 「入っていいか?」

 ウェイド少佐だった。

 彼は灰を払いながら部屋に入ると、机上の書類をざっと一瞥した。

 「これが噂のか」

 声には皮肉が混じっていたが、興味を抑えた気配はなかった。


 石田が説明しかけるが、ウェイドは手で制した。

 「見れば分かる。文の構成、文体、筆圧……すべてが作り物だ。だが問題はどちらが本当かじゃない。どちらが信じられるかだ」

 「あなたの国では、それを情報操作と呼ぶのか?」杉原が低く問い返す。

 「違う。これは戦後に生まれた新しい兵器だ――信頼の改竄だ」


 沈黙が落ちる。

 ウェイドは一枚の供述書を取り上げ、指先で折り目をなぞった。

 「紙は真実を記録するが、人は記録を都合よく読む。――君たちはこの都市を守ると言いながら、すでに記録そのものに手を加えている」

 杉原は睨みつけるように言った。

 「それが私の命令だと言いたいのか」

 「言ってはいない。ただ、君が沈黙している間に、誰かが語り始めたというだけだ」


 ウェイドは立ち上がり、窓辺に歩み寄る。

 ガラス越しに外の街を見下ろす。港の方向から、細い煙がまた立ち上っていた。

 「君ももう理解していると思うが、沈黙は、最も美しい爆薬だよ」

 彼は淡々とそう言い残し、部屋を出ていった。


 その言葉が残響のように部屋に漂う。

 工藤が静かに息を吐いた。

 「少佐の言う通りかもしれません。誰かが真実を作っている。それも、市の中で」


 午後、庁舎の廊下では報道局の記者たちが慌ただしく行き来していた。

 誰かが改ざん記録の存在を外に漏らしたらしい。

 夕刊の特報が刷られ、庁舎前の売店で並んでいた。


 > 「港湾爆発供述に改竄疑惑 市監査室に内部犯か」


 その紙面を手にした職員たちの間に、ざわめきが走る。

 報道規制が敷かれているはずなのに、なぜここまで速い。

 杉原は廊下で紙面を握りつぶした。

 「まだ出していない情報が、なぜ……」


 工藤が息を荒くして駆け寄った。

「通信課の配線が、一時的に切り替えられていました。外部回線を通じて、印刷所に直接、稿が送られた形跡があります。軍の通信線を経由していました」


 杉原の表情が凍る。

「つまり、内部の誰かが軍の回線を使って情報を流したと?」

「その可能性が高いです。電信機の送信記録に、見慣れない発信符号がありました。……市庁舎内の装置からではありません」


 杉原は机に手をつき、しばらく言葉を失った。

 灰のような静けさが、室内を満たしていく。

 市庁舎の奥で、まだ熱の残る真空管がかすかに唸っていた。

 杉原の表情が凍る。

 「ウェイドか……」

 否定も肯定もできなかった。ただ、全てが彼の掌の上にあるように思えた。


 夕刻、市の庁舎前では、新聞を手にした市民が群れを成していた。

 「真実を出せ!」「市は腐っている!」

 怒号が石造りの壁に反響する。憲兵が制止に入り、記者たちがフラッシュを焚く。


 その光の中で、杉原は庁舎の窓から群衆を見下ろした。

 人の声が波のようにうねり、意味を持たぬ叫びに変わっていく。

 ――真実が、独り歩きを始めた。


 背後で工藤が言った。

 「市長、どうしますか。会見の延期を?」

 杉原は首を振った。

 「延期は燃料を注ぐだけだ。……明日の朝、声明を出す。事実を一度すべて晒す」

 「リスクが大きすぎます。市長が非難される可能性が――」

 「いい。沈黙よりはましだ」


 窓の外では、夕陽が灰色の街を鈍く照らしていた。

 その光は弱々しくも、確かに存在していた。

 だが、庁舎の壁の影は長く伸び、港の方角まで届いていた。


 その夜遅く、監査室の倉庫から高梨の原本供述が消えた。

 鍵は壊されていなかった。

 つまり、正式な鍵を持つ者が――扉を開けたのだ。


 闇の中で、紙の匂いがわずかに漂っていた。

 真実という名の火種は、もう燃え始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る