第15話 灰の中の印 4
灰はまだ風に舞っていた。
港に残る黒煙は薄くなったが、焼け焦げた匂いは街のあらゆる溝に染みついている。
市庁舎の会議室は連日騒然としていたが、今朝は少し違っていた。
窓の外の空気が冷たいせいか、室内の声にも無言の凍りつきが混ざる。
合同調査班――市の監査チームに加え、占領軍から派遣された二人の監査官、そしてウェイド少佐が席についていた。書類の山のうち、焦げた紙片や黒い粉を含む小さな封筒が一つ、慎重に回されている。石田が現場から持ち帰ったものだ。
「これは工事用の黒色火薬だ」
石田が報告書から目を上げ、言葉を落とした。
「工事用か。製造元のロット番号が残っている可能性はあるか」
ウェイドの声は冷静で、だがその響きには手練れた確信がある。彼の問いに、技師が相槌を打って細部を読み上げる。
「粒子の寸法、含油の比率、硝黄の混合割合…凡そこの仕様の火薬は、軍の弾薬製造ラインではなく、港湾や採掘に使われていた。だが、完全な同定にはロット管理表が必要です」
「ロット管理表…それを辿れば、誰がこの物質を倉庫に持ち込んだか、見えてくるはずだ」
杉原は机の上で指先を組み、目を伏せる。
彼の決意は既に文書として整えられ、外部監査を市の要請で入れる手配も進行中だ。しかし誰がの問題は市政を揺るがす――その重さを彼は知っている。
そのとき、会議室の扉が静かに開いた。
だが入ってきたのは、報道関係でも市役所の職員でもなかった。
乱れた髪を後ろで縛り、顔に煤の跡が生々しい一人の男が、息を切らして立っていた。長い黒いコートを羽織り、その眼光は切迫している。――高梨だった。
「高梨…戻ったのか」
声が室内を走る。数人が彼を凝視する。
消えたはずの男が、市庁舎に姿を現したことが、議会の空気をさらに鋭利にした。
高梨は胸元に手を当て、震える声で言った。
「私は、説明しに来た。あの夜、倉庫で何があったのか、私が知っていることを話す。まず、私を捕えるな。私の言葉を聞いてくれ」
その姿は、弁解を乞う傲慢さでも、逃げる狼狽でもなかった。むしろ、泥の中で脆くも堅く立とうとする者の姿に見えた。しばしの沈黙の後、杉原が立ち上がる。市長として、あるいはかつての同僚としての表情が交互に彼の面を横切る。
「高梨。まずは事実を示せ。感情を振りかざしても、いま市に必要なのは証拠だ」
杉原の声は冷静だが厳しい。会議室の注目は全て高梨に集まる。
高梨は深く息を吐き、手に持っていた小さな紙包みを机に置いた。
包みの中には、夜間に受け取ったという小さな伝票と、焼け残った封蝋の欠片、そして一枚の写真が入っている。写真には、倉庫の一角で誰かが金属箱を抱え込み、薄明かりの中で後ろ姿を見せている。写真の隅には、かすれた文字で「R」の刻印が読める。
「私は、あの運搬に関与していました。だが、私が命じたのではない。命令は来た。外部からの要請だ。――救援を優先するという名目で、物資の再配分をするように、と」
高梨の言葉は震え、次第に声に力がこもる。
「だが私は、その中身までは知らなかった。箱は密封され、上から封がされていた。封は、監査の形式に従っていた。私の署名は、ただの形式的な確認だった」
石田の顔が歪む。
彼は港で見た封蝋の異様さを思い出す。蝋が軽く抉られていたのは、確かに「熱で溶かして押しなおした」痕跡であり、形式は整えてあっても内容は改ざんされていた――誰かがそれを意図的に行った。
「では、誰がそれを指示したと?」
ウェイドの問いは簡潔だった。彼は高梨を直視し、その瞳には追及と、どこか冷徹な期待が混じる。
高梨は視線を落とす。
「…名前は言えない。だが、上の組織――戦時の残滓を継ぐ者たちだ。港の一部を支配している。彼らは『必要な者へ必要な分を回せ』と。ただし、回す先は限られている。私はそれを見て見ぬふりをした。否、関わらざるを得なかった。拒めば、もっと多くの人が飢えると聞かされた」
会議室は沈黙する。高梨の言葉にある理屈は、道徳的ではないが実用的な恐怖と救済の混合を示していた。彼は罪を承知の上で動いたのか、誘惑に屈したのか、あるいは本当に苦渋の選択を強いられただけなのか。誰も即座に裁断できない。
「その組織の印が写真にあるのか?」
杉原が問い返す。高梨は写真を差し出し、小指で印の輪郭を指した。
「R」の刻印――古い軍需の識別であり、戦時の流通網を示すマークだと、ウェイドも、そして市の古参職員も認める。
「もしこれが本当なら、市だけでは収められない。軍の管轄が絡む。だが同時に、君がもし隠蔽を行っていたなら、市はその責を負う」
ウェイドの言葉は正鵠を得ていた。
占領軍にとっても、この発覚は扱い方次第で介入の大義を与える。だから彼らはじっと観察しているのだ。
高梨はさらに続けた。声はますます低く、但し確信に満ちていた。
「私がしたのは、表向きの手続きを通すことだけだった。だが、ある箱は私の知らぬうちに開けられ、別の箱と混ぜられた。穀物袋の中に火薬が紛れ込んだのはそのときだ。誰かが、穀物で火薬を覆い隠した。意図は、監査の目を欺くこと。監査が来る前に、危険を外に出さねばならないと…その手口は巧妙だった。封印は再封された。誰も気づかない」
彼の瞳がぐっと熱を帯びる。そこには羞恥と、言い訳と、そしてどこかで崩れてしまった誇りが混ざっている。高梨は自分の手が血で濡れているとは言わない。だが、その震えた声は罪を認め、同時に自らを正当化しているようにも聞こえた。
杉原は高梨を見つめる。
政治の重み、道徳の限界、人間の弱さ――それらが同時に押し寄せる。
「真相を徹底的に洗い出す。市の主導でやるという君の言葉を信じよう」
杉原は低く宣言した。だがその眼差しには、かつてない厳しさが宿っている。
「だが、調査の過程で誰かを見つけたら、市は公正に裁く。私情は挟まない。高梨も協力しろ。全てを洗い出す。ただし、隠蔽は許さない」
高梨は俯いてから、ゆっくりと頷いた。彼の表情は安堵ではなく、むしろ新たな覚悟の色を帯びていた。彼が何を差し出すつもりなのか、そこにどれほどの真実が含まれているのか――それはまだ測り難い。しかし一つだけ確かなのは、灰の下で眠っていた何かが、少しずつ姿を現し始めたということだった。
部屋を出る者たちの背後で、ウェイドは小さな声で言った。
「覚えておけ、杉原。真実を晒すことは、街に新たな亀裂を生む。だが、亀裂があるからこそ、新しい形が育つこともある。」
杉原は窓の外を見た。灰が舞い、遠くの港の灯がひとつ、消えた。
それでも彼は目を逸らさなかった――この街がまだ呼吸している限り。
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