八月三十一日のブレーキ

クソプライベート

八月三十一日、午後四時。

​ セミの鳴き声には、どことなく「もう終わりだぞ」という響きが混じっていた。ケンジの家の縁側で、僕とユイとケンジの三人は、目の前に広げられた絶望的な光景を前に、ただ黙り込んでいた。

​自由研究の模造紙は真っ白。習字は手付かず。算数ドリルは、奇跡的に最初の三ページだけ埋まっている。

​「…もう、無理だ」

​ユイがポツリと言った。その声は、カラカラに乾いていた。僕も同じ気持ちだった。もう笑う気力も、焦る気力も残っていない。

​その時、リーダー格のケンジが、物置からホコリだらけの奇妙な機械を引っ張り出してきた。それは、掃除機に鍋と洗濯バサミをくっつけたような、ガラクタにしか見えない代物だった。

​「これを使う時が来たようだな…」

ケンジは、まるで伝説の剣を抜く勇者のように言った。

「『惑星慣性モーメント停止装置』。じいちゃんの遺品だ」

「何それ?」

「簡単に言うと、地球の自転を止める機械だ」

​僕とユイは、ぽかんと口を開けた。

​「太陽が沈まなければ、八月三十一日は終わらない。つまり、宿題をやる時間が無限に手に入るってわけさ!」

​あまりにバカバカしい理屈だった。でも、僕らにはもう、それにすがるしか道は残されていなかった。

​僕たちは、町で一番空がよく見える「みはらし山」の神社へと向かった。ケンジが装置のコンセントを神社の謎のコンセントに差し込み、方位磁石で方角を合わせる。西の空では、太陽がまさに山の端に触れようとしていた。

​「いくぞ!」

​ケンジが、洗濯バサミでできたレバーを力いっぱい押し込んだ。

​ブゥゥン、という低いモーター音が鳴り響き、地面がかすかに震えた。僕たちは固唾をのんで西の空を見つめる。すると、信じられないことが起きた。ゆっくりと沈みかけていた太陽が、ピタリと、山の稜線の上で静止したのだ。

​風が止まった。影の形が変わらない。さっきまで鳴いていたヒグラシが、戸惑うように鳴きやんだ。

​「…止まった」

​僕らは顔を見合わせ、そして、叫んだ。やった!成功だ!

​僕たちは大急ぎでケンジの家に戻り、宿題に取り掛かった。無限に続く夕暮れの中、僕たちのペンは走り続けた。

​しかし、数時間が経った頃から、世界は少しずつおかしくなり始めた。

​まず、風が全く吹かなくなった。空気がよどんで、息苦しい。植物は、太陽に照らされ続ける側だけがカラカラに乾き、反対側は湿ったままだった。近所の犬は、昼なのか夜なのか分からなくなったのか、不安そうに鳴き続けている。

​テレビをつけると、ニュースキャスターが困惑した顔で「世界各地で原因不明の異常気象が…」と伝えていた。

​永遠の夕焼けは、最初はきれいだったけれど、ずっと見ていると不気味な絵のようにしか見えなくなった。僕たちはペンを置いた。あんなに終わらせたかった宿題が、どうでもよくなっていた。

​「ねえ、ケンジ…」ユイが不安そうに言った。「時間って、ただ太陽が動くだけじゃないのかも」

​その通りだった。僕らが欲しかったのは、宿題をやるための時間だったはずなのに、止まってしまった世界では、やる気も、集中力も、全部どこかへ消えてしまった。ただ、終わらない夕暮れが、僕らを閉じ込めているだけだった。

​「戻しに行こう」

​僕は言った。ケンジも、黙ってうなずいた。

​再び神社に戻ると、装置は高熱を発し、壊れそうな音を立てていた。僕たちは三人で、必死にレバーを引き上げた。ガコン!と大きな音がして、装置は静かになった。

​おそるおそる空を見る。山の端に止まっていた太陽が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、再び沈み始めた。

​心地よい夜の風が吹き、僕らの汗を冷ましてくれた。虫たちが、待ってましたとばかりに鳴き始める。当たり前の夜が、こんなに安心するものだなんて、知らなかった。

​結局、僕たちの宿題は半分も終わらなかった。

​九月一日。僕たちは、ほとんど白紙の自由研究を抱えて、先生の前に並んで立った。もちろん、ものすごく怒られた。

​でも、僕たちは不思議と晴れやかな気持ちだった。三人だけが知っている、大きな秘密。僕らは夏休みを終わらせることはできなかったけれど、代わりに、ちゃんと明日が来ることの大切さを知ったのだ。

​教室の窓から見える空は、いつも通りの、完璧な青空だった。

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