あはれ、ビートなり

クソプライベート

あはれ、ビートなり。

 ​音季(おとき)の世界は、寸分の狂いもなく定められた音だけで構成されていた。

父は宮中の雅楽師。中でも拍子を司る打楽器方の長であり、音季が物心ついた時から、その手には撥(ばち)が握らされていた。父の教えはただ一つ。「古(いにしえ)の調べを、寸分違(たが)わず奏でること。それ以外は全て雑音なり」

​退屈だった。庭の蛙の鳴き声も、風に揺れる竹林の音も、父の耳には雑音でしかない。だが音季にとって、その雑音こそが心躍る音楽に聞こえた。

​ある雨の日。蔵にこもり、一人で羯鼓(かっこ)の練習をしていた時のことだ。降りしきる雨だれが、屋根を、地面を、様々な音色で叩いている。音季は撥を置き、そのリズムに耳を澄ませた。

(……ドゥン、タッ。チキ、チキ、タッ……)

無意識に、口がその音を真似ていた。唇を弾けば羯鼓の乾いた「タッ」という音に、喉を震わせれば太鼓の低い「ドゥン」という響きになる。舌打ちをすれば、金属を打つ鉦(かね)の音に似ている。

​「ドゥン、タッ、チキ、ドゥン、タッ……」

​見つかったら、父に殺されるかもしれない。だが、やめられなかった。己の身体が、たった一つの楽器になる。それは、定められた音しか許されなかった音季にとって、初めて見つけた自由だった。彼はそれを秘かに「口拍子(くちびょうし)」と名付け、誰にも知られぬよう磨き続けた。

​その「遊び」が露見したのは、ある秋の夕暮れだった。

神泉苑の池のほとりで、水面に映る月を眺めながら、音季が口拍子に興じていた。水鳥の羽ばたき、鯉が水を跳ねる音、遠くで鳴く鹿の声。それらを即興で自らのビートに織り交ぜ、一つの曲のように奏でていた。

​「──そなた、まこと面白い遊びをしておるのう」

​絹を擦るような声に振り返ると、そこにいたのは、当代きっての風流人として知られる敦子内親王(あつこないしんのう)の一行だった。音季は血の気が引き、その場に平伏した。

「も、申し訳ございませぬ!無礼なる雑音、お耳汚しを……!」

「雑音?わらわには、聴いたこともない楽の調べに聞こえたが」

姫は扇で口元を隠し、楽しげに目を細めた。

「そのほうの口より出でしは、鼓か、蛙か、それとも風の声か。……うむ。実に、をかし」

​この一言が、音季の運命を変えた。

姫に気に入られた音季の口拍子は、瞬く間に宮中のサロンで評判となる。若い貴族たちはその斬新なリズムに熱狂し、古めかしい雅楽を時代遅れと笑う者まで現れた。

​当然、伝統を重んじる者たちは激怒した。筆頭は、音季の父であった。

「万物の音を真似るなど、猿の芸!千年の歴史を持つ雅楽への侮辱である!」

父は激昂し、音季を蔵に閉じ込めた。

​だが、姫の力はそれよりも強かった。数日後、帝の前で音楽の技を披露する宴の席で、姫はこう宣言したのだ。

「この宴の締めくくりに、我が推薦する若き楽師の芸を披露させたく存じます。その者の名は音季。楽器は──己(おのれ)が身体、ただ一つ」

​広間はどよめいた。父は顔面蒼白になり、その場で倒れんばかりだった。

宴の終盤、居並ぶ公卿たちの前へ、音季は引きずり出されるように進み出た。目の前には、父をはじめとする雅楽寮の楽師たちが、苦々しい表情で座している。

​「では、奏でよ」

​姫の涼やかな声が響く。

音季は目を閉じた。父の怒り、貴族たちの嘲笑、姫の期待。全てが重圧となってのしかかる。

(……これが、俺の音だ)

彼は覚悟を決めた。

​「ドゥン……」

​静寂の中、地の底から響くような深い一声が放たれる。太鼓の音だ。

「ドゥン……タッ!」

乾いた羯鼓の音が、空間を切り裂く。

「ドゥン、タッ、チキチキ、ドゥン、タッ!」

空気が震えた。それは、誰も聴いたことのない拍子。生命の躍動そのもののような、力強いビートだった。

​呆気に取られる楽師たちを尻目に、音季はさらに音を重ねていく。口笛で龍笛(りゅうてき)の物悲しい旋律を奏で、喉の奥で唸るようにして琵琶の低音を響かせる。その全てが、口から放たれるビートの上で完璧な調和を保っていた。

​それはもはや物真似ではなかった。雅楽の荘厳さと、市井の躍動感が融合した、全く新しい音楽。

気づけば、若い公卿たちが扇で拍子を取り始め、姫君たちは袖で顔を隠しながらも、楽しげに体を揺らしている。

​音季は、クライマックスに、当時流行していた今様(いまよう)の一節を歌い上げた。

「遊びをせんとや生れけむ……!」

その声は、力強いビートに乗り、広間の隅々まで響き渡った。

​演奏が終わる。

水を打ったような静寂の後、誰からともなく、熱に浮かされたような拍手が巻き起こった。

​音季は、父を見た。

父は、まだ撥を握りしめたまま、呆然とこちらを見つめていた。その目に、怒りの色はなかった。ただ、己が信じてきた音楽の世界が、根底から覆されるのを目撃した者の、畏怖と驚愕だけがあった。

​敦子内親王が、満足げに微笑む。

「聴き届けたか、皆の者。これぞ、この平安の世に生まれた、新たなる楽の調べ。なんと、あはれ、ビートなることよ」

​その日を境に、京の都の音楽は変わった。

和歌にはビートが添えられ、雅楽にはグルーヴが生まれた。

全ては、定められた音に抗い、自らの「声」で世界を奏でようとした、一人の少年から始まった。

千年の都が、初めてリズムに揺れた瞬間だった。

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