第3話 八拍子の指揮者

 午前七時、灰色の雲が港の上を低く滑っていた。警視庁の古い庁舎は湿り気を吸って重く、窓ガラスの向こうではコンテナクレーンがゆっくり腕を回している。魔導犯罪課〈零係〉のフロアに灯がともると、コーヒーと古い配線の熱の匂いが立ち上がった。


 神代朔は窓際の席に腰を下ろし、胸の内側で拍を数えた。六。半。三。——昨日の“工房”で割った鏡の残響がまだ喉の奥に残っている。机の引き出しから薄いメモ帳を取り出すと、先代の零係の走り書きが一枚、折れて挟まっていた。輪、目、戻り、角、鏡——そして「拍は“空白”で折れる」とだけある。


「おはよう、ゼロ」


 鷹村沙耶が紙コップを二つ持って歩いてくる。左手首の封印刺青は袖に隠れて見えないが、指節に残る微かな擦れが朝の光を跳ね返す。


「おはようございます」

「眠れた?」

「三拍くらいは」

「それ睡眠って言わない」


 沙耶は苦笑し、コーヒーを差し出す。砂糖なし。朔は小さく礼を言って一口飲む。熱が舌を刺し、その刹那に体内の拍が“始まる位置”を探る。六。半。——空白をわずかに広げておけば、今日も噛ませられる。


 ドアが開き、御堂課長が入ってきた。深い皺の口元に、昨夜より一本多い疲労の線。


「起きてるか、零」

「常に」

「ならよし。——仕事は三つ。ひとつ、押収した“輪の糸”の鏡面分析。ふたつ、魔生体の状態評価。みっつ、署内導路の戻りの残滓洗い直し。順番は逆。内側から潰す」


 御堂は指を鳴らした。朔の胸ポケットの内側で、反射的に同じ拍が鳴る。


「昨日の工房。鏡は工業ロット、刻印があったはずだ」御堂が朔を見る。「拾ったか」

「はい。縁に微細な数字。……“0-8-3-α”。ゼロ/八/三/アルファ。拍の記号でもあり、製造番号でもある」

「ゼロの次が八、ってのは嫌味が効いてるわね」沙耶が鼻で笑う。「そこから辿れそう?」

「官公庁納入品の規格刻印に近い。民間工業区だけの記号ではない。——つまり、どこかに“正面口”があるはずです」


 御堂は頷き、薄いファイルを机に置いた。留置管理報告。狩野義一、意識不明のまま。喉奥に鏡面片の切創。輪の刻印なし。昨夜より容態は安定——だが、安定という言葉は朔の耳に重く響く。拍が止まった安定。動かない安定。


「狩野から離れすぎない位置で動く」御堂は言った。「午前は署内。午後、港東に再度入る」


     ◇


 三階東の廊下。天井板の継ぎ目の一つだけがわずかに波打ち、光が右へ逃げていた。沙耶が脚立に上り、パネルを外す。埃の粒がわずかに舞い、それ自体が導路の向きを指す。


「ここ、昨日も一度切ったわよね」

「戻りは“生える”。輪は増える。——もう一度噛ませます」


 朔は携行端末で三拍を溝に差し込み、鈍いクリックを聞く。金輪が一つ、奥から転がり出てきた。鏡の縁は均一、傷の間隔は一定。人の手の呼吸がない。


「ロットは同じ。——0-8-3-α」


「“八”が混じってるの、気になるのよね」沙耶が輪を封印袋へ入れる。「七は踊り子、八は指揮者。そんな感じがする」


「八は“満ちる拍”です。輪を閉じる拍。中心を埋める拍」


「ゼロの反対、ってわけね」


 冗談めいた口調とは裏腹に、沙耶の眉間には薄い縦皺が立っていた。朔は頷き、廊下の最奥の照明に目を向ける。蛍光の唸りが一瞬だけ遅れる。半拍。六半。——こっちの領分だ。


「まだ潜んでる。……でも、今日は“顔”を見にいくべきです」


「工房?」

「いえ。“正面口”。ロット刻印は官公庁の規格に似ている。なら、どこかに納入ルートがある。全て裏口に流れるわけはない」


 御堂の短い返事は電話口から落ちてきた。「よし。港湾の入札台帳を洗う。俺が取る。昼前までに、目星をつける」


 通話が切れ、廊下の静けさが戻る。朔は胸の中で三拍を二度刻み、耳の奥の空白を広げた。音が消える。見えるものだけが残る。


     ◇


 午前十時三十五分。零係フロアの一角、簡易鑑識スペース。押収した“輪の糸”が顕微鏡の下で光る。糸の断面は幾重にも積層した鏡で、極薄の防護符がサンドイッチのように挟まれている。人の手では不可能な均一さ。だが——


「ここ」朔は覗いたまま言う。「層の一枚だけ、微かに“呼吸”がある。手作業で貼り合わせた層です」


「工業製の中に、一層だけ手仕事」沙耶が腕を組む。「職人の指紋、残ってない?」


「鏡に指紋は残りにくい。——でも、“拍”は残る」


 朔は糸の端を爪で軽く弾く。チッ。遅延の角が鳴り、半拍の空白が走る。貼り合わせの層だけ、音の立ち上がりが柔らかい。息を含む音。女性の手か。工房で見た踵の軽い女の声の手触りに似ている。


「工房の女の仕事だ」朔は顎を引いた。「でも、彼女は職人の一人。ロットの運用は別の“指揮者”が握っている。八拍子の」


 御堂が戻ってくる。片手に台帳、もう片手に許可証の束。「入札経路が出た。港湾清掃局の“管路監視鏡”の改修に、鏡面部材が大量に入ってる。納入元は“オルベ工機”。登記は真っ当だ。——工房の“正面口”だな」


「“オルビス”に似た社名」沙耶が吐き捨てる。「わざと?」

「隠しもしないってことだ」御堂は肩をすくめる。「午後はオルベへ行く。だが——」


 御堂の視線が端末の通知に落ちた。眉間の皺が一本、深くなる。


「狩野が、動いた」


     ◇


 留置場の廊下は、昼なのに夜のように静かだった。金属の格子が並び、奥からは誰の声も響かない。

 狩野義一はベッドに横たわり、昨日から昏睡状態。医師は「自然昏睡」と言ったが、喉奥の“輪の傷”は自然の語彙から遠い。


 そのとき、狩野の指先が小さく震えた。


「……っ」


 朔は格子へ一歩。沙耶が制止の手を伸ばす。狩野の唇が微かに動き、空気が変わった。


「ひ……とつ、ふたつ……みっつ、よっつ……」


 低い声。七ではない。八。数えるごとに、喉の奥から白い糸がじわりと伸び、格子に触れる。糸は金属に吸い込まれるように溶け込み、小さな鏡面の刻印を刻む。


「八拍……!」朔は息を呑んだ。「昨日の“女”とは違う。もっと深い拍だ」

「止める!」沙耶が封印刺青を輝かせ、掌を叩きつける。空気が圧縮され、糸が一瞬たわむ。だが、次の八拍目で再び伸びる。拍そのものが強固な律動だ。


 狩野の瞳が開いた。そこに彼自身はいない。黒目の中心に輪の光、その中に目が一つ。


「……輪は、八で満ちる。空洞は、埋まる」


 声は狩野のものではない。別の“指揮者”が遠くから声帯を操っている。


 朔は胸ポケットの内側で指を鳴らす。三。二。空白。

 八拍子の流れに欠けを作る。逆らわず、穴を開ける。


「今だ、沙耶!」

「了解!」


 沙耶が空気を板に固め、糸を押さえ込む。八拍目に合わせて叩きつけられた圧が、喉奥の“輪”を一瞬だけ外させる。輪の中心が空白へ滑る。


 狩野の身体が痙攣し、糸がぶつりと切れた。鏡面片が格子に跳ね、床へ散る。


「……っ、は、はぁっ……!」


 光が瞳から消え、ただの人間の眼差しに戻る。同時に意識も途切れ、また昏睡へ沈む。


 沈黙。朔は鏡面片を拾い、爪で軽く弾いた。

「……八。七じゃない。“上”がいる」

「上?」沙耶が浅く息を吐く。

「七の踊り子の上に、八の指揮者。輪は多層。——“会”は階を持つ」


 御堂が背後から来て短く頷いた。「ゼロ、格子の刻印を全部撮れ。沙耶、医務へ搬送。——留置の鍵管理簿も洗い直す。内側の手が介入できる経路があるはずだ」


「了解」


 朔は刻印を連番で撮り、配列をノートに写し取る。八拍子の並び。七とは逆の弧。埋める拍。中心に向かう矢印。


(埋める、か)


 ゼロに対する情念のようなものが、鏡の微小な光にまとわりついている気がした。空洞を許さない意志。中心を奪う意志。


     ◇


 午後二時。港東・オルベ工機本社。海風に晒された銀の看板、磨かれたガラス、ロビーには鏡面ディスプレイが並ぶ。「管路監視鏡」「港湾清掃用反射板」「災害用照明反射ユニット」——正面から見れば、どれも公共的で真っ当だ。


 受付の女性は事務的な微笑みで対応したが、御堂が令状を示し、鏡面部材のロット番号を告げると、目の奥の温度がわずかに落ちた。


「製造記録と出荷記録を拝見したい」

「少々お待ちください」


 間もなく、黒縁眼鏡の品質管理担当が現れた。白衣の胸ポケットにペンが三本、規則正しく並ぶ。歩幅は一定、踵は床にあまり落とさない。七拍子は踏まない。だが、呼吸が“八”で区切られている。吸い四、吐き四。均等。整いすぎた呼吸。


「ロット“0-8-3-α”ですね。こちらが製造台帳です」


 台帳は完璧だった。材料のロット、工程、担当者の押印、検査記録。指摘できる“乱れ”がない。乱れがないこと自体が、最大の乱れだ。


 朔は視線を台帳の角に落とした。上質紙の縁。ほんのわずかな逆立ち。紙は湿度で膨らみ、呼吸する。その呼吸が、台帳のある一ページだけ違っていた。ページが、八のリズムで反っている。


「このページ。印刷の日付が、他と違う気がします」


 品質管理担当は眼鏡を押し上げ、微笑した。「よくお気づきで。こちらは再印刷分ですので」

「なぜ再印刷?」

「インクのムラがありまして」


 御堂が頭を掻いた。「現物を見たい。インクのムラの方を」

「——破棄済みです」


 躊躇が一拍。呼吸が七で乱れ、すぐに八で整う。その一拍の乱れは、人のものだ。朔は胸ポケットで指を鳴らし、三拍で空白を作ってから、ゆっくり言った。


「管路監視鏡の“鏡面”を、港湾清掃局以外に卸していますね」

「いえ、卸しておりません」

「では、“鏡面通信陣”の素材としての相談は?」

「聞いたことがありません」


 言葉の調子も鏡面のように滑らかだ。表面張力だけで形を保つ水滴のよう。そこに針の先で触れれば、崩れる。


「検査機器のログ、見せて」沙耶が割って入った。「製造ラインの温度カーブ、圧延の張力、合格範囲。全部」

「捜査令状の範囲を超えています」

「じゃあ、こうしよう」


 御堂がコートの内ポケットから別の紙を出した。段取りは早い。昨夜のうちに準備していたのだろう。品質管理担当の喉仏が小さく上下する。


「協力を拒めば、行政監査を要請する。港湾清掃局の管路監視鏡は“公共物”。災害対応の保守に支障があれば、君らも困る」


 品質管理担当は唇に笑いの形を作り、肩を落とした。「……どうぞ」


 製造ライン監視室。大きな窓越しに、鏡の板がベルトの上を流れていく。圧延ロールが低く唸り、油の匂いに柑橘のような甘さが微かに混じっている。朔はその匂いを嗅ぎ、昨日の檻の内側で嗅いだ“レモノイド系の誘因触媒”と重ねた。


「触媒を工場で扱っていますね」

「——鏡の洗浄に香料を使うことがあります。作業者の不快感を軽減するためです」


 微笑は相変わらず表面張力で形を保っている。だが、ラインの隅に立つ女性作業員の踵が、七拍目で小さく地に触れた。軽い。工房の女の踵に似ている。指先が治具の角で一瞬、呼吸する。


 朔は窓に近づき、作業員と視線が交差する位置で指を鳴らした。三。二。空白。女の踵が半拍、迷う。視線が、わずかに笑った。見えている。——見せに来ている。


 そのとき、監視室の上の非常灯が一度だけ瞬いた。蛍光の唸りが半拍遅れる。八拍の影。朔は反射的に空白を広げ、沙耶が掌を肩の後ろで軽く開く。圧はまだ出さない。拍だけ合わせる。指揮者の息を読む。


「すみません、電源が——」品質管理担当がインターフォンへ手を伸ばす。指の関節の鳴りが、八で区切られた。


「不具合?」御堂の声は低い。「それとも“合図”か」


 監視室のドアが内側から少しだけ開き、清掃員の札を付けた男が顔を覗かせた。白い作業服。踵は軽く、七拍で止まる。昨日の倉庫で見た“輪の運び屋”の歩幅。


「見学の方、危険ですので——」


 御堂が一歩で距離を詰め、胸ポケットから札を示す。「警視庁。——君の踵、よく鳴るな」


 男の踵が半拍、止まる。視線が御堂を越え、朔へ跳ぶ。目が笑う。指揮者の笑いはしない。踊り子の笑いだ。


「踊る場所を変えるだけですよ、課長さん」


「踊る床は俺たちの方が知ってる」御堂が答えた瞬間、ラインの端で鏡の板が一枚、わずかに浮いた。空気が薄く震え、鏡面に“目”が一つ、滲み出る。反射通信陣。誰かが、見ている。誰かが、ここから“指揮”している。


「割る」朔が囁く。


 沙耶が掌を軽く開き、ほとんど音のしない圧で鏡面の“目”を押さえる。朔は三を二に落とし、最後の一を外して空白を作る。目は中心を失い、輪は輪をやめた。鏡の板が小さく軋み、ライン上に戻る。


 白衣の品質管理担当が青ざめた。「危険です! ラインを止めてください!」

「止めるのはお前たちの“合図”だ」御堂が言う。「俺たちはただ——見えたものを切った」


 短い騒ぎのあと、工場の空気は何事もなかったように整い、白衣は再び微笑を貼り付けた。その微笑は、さっきよりも固かった。


「本日の見学はここまでに……」

「まだ“見学”するよ」御堂はさらりと返す。「行政監査の立会いでな」


 引き際の言葉としては十分だった。オルベ工機は“正面口”だ。これ以上、中で踊れば、こちらの拍を崩される。引いて床の傾斜を読む。輪の転がる先を決めるのは、床だ。


     ◇


 夕刻。零係のフロアは橙色の光に染まっていた。港のクレーンが黒い輪郭になり、遠くの汽笛が低く鳴る。沙耶は封印符の束を整え、御堂は電話で監査の段取りを詰めている。朔はメモの白紙に今日の配列を書いた。0-8-3-α。八。七。六半。三。二。外し。


「狩野の容態」御堂が電話を切り、短く言った。「安定。だが、さっきの発作で喉が少し切れた。鏡片は採れた。刻印なし。——“目”はあった」


「“目”はどこにでもあるんだね」沙耶が椅子を回す。「見られて、繋がれて、忘れさせられる。——それが“慈悲”? 冗談じゃない」


「慈悲を名乗る残酷さは、古今東西一番たちが悪い」御堂が窓を見やる。「だが、拍は揃った。ゼロ、どうだ」


 朔は胸ポケットで指を鳴らした。七拍目を、意図的に外す。無音。


「見えるものなら、切れます。八拍子の“満ちる”を、空白で崩す。工房と正面口は繋がった。あとは——“指揮者”を見つけるだけ」


「いるさ」


 御堂は笑いもしない笑いを口元で転がした。「輪は、中心を欲しがる。中心に座る奴は、必ず“拍”を誇示する。——次は“音”を出してくる」


 窓の外、夜の最初の灯が点った。朔はメモの最後の行に、小さく書いた。


七/六半/八——中心は空洞。空洞は俺たちのもの。


 ゼロは欠けではない。始まりだ。輪の中の空洞がこちら側にある限り、拍はいつでも外せる。輪は回る。なら、床の癖を読めばいい。


     ◇


 同じ頃。どこかの地下。輪の壁の部屋。中央の“目”に、白い手袋の指が触れていた。指は八拍で壁を叩き、七拍で踵を鳴らす誰かの過去を思い出し、六半で笑った。


「ゼロが、いる」


 声は低く、温度がなかった。だが、言葉は輪の内側ではなく外側へ投げられ、どこか別の場所で誰かがそれを拾った。


「なら、満たそう。——空洞を」


 輪の目が瞬き、光が一度だけ遅れた。八拍の指揮が始まろうとしていた。

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