魔導犯罪課の零係
桃神かぐら
第1話 港湾倉庫爆発事件
神代朔は、昨日付けで魔導犯罪課〈零係〉に配属されたばかりだった。
新人研修も半ば、机上の講義ばかりで実地はゼロ。
「魔力ゼロの刑事」を抱える物好きは、署内でも御堂課長くらいだと囁かれている。
その辞令から一日も経たぬうちに、朔はこうして港湾倉庫の爆発現場に立っていた。
足下の灰はまだ温かく、潮の匂いが煙と混じって胸に刺さる。
自分の居場所を確かめるように、指先を小さく握りしめる。
夜明け前の海風は、焦げた金属と潮の匂いを湿らせて運んでくる。バース17番、港湾倉庫B棟。シャッターは内側から捲れ上がり、骨だけ残った鉄骨が濁った紫の煤を吸っていた。救急の赤色灯が遠ざかり、代わりに鑑識の三脚が並ぶ。薄い霧のような陣光が床へ浮かび、空気の層にゆるく触れている。
「魔導犯罪課、現着。……ったく、朝イチからこれかよ」
鷹村沙耶が胸元の警章を弾き、焦げた床をつま先で示す。細身の左手首には封印刺青が走り、指先が小さく発光した。灰が、光の揺れに合わせて細かく震える。
その後ろを、神代朔が無言でついていく。まだ着慣れないスーツの肩が硬い。同行の巡査が小声で囁いた。
「例の“魔力ゼロ”の……」
「え、マジでゼロ? うちの課で?」
「課長の趣味だろ、拾ってきた天才くんってやつ」
朔は聞こえないふりをした。聞こえなくても、同じだけ刺さることを彼は知っている。
「状況、口頭で」
御堂課長が現場テープを跨ぎ、眠気だけをうまく押し潰した顔で入ってくる。深い皺の口元に、笑いと苛立ちの境界線が刻まれていた。
鑑識員が手早く答える。
「爆発は四時三十二分ごろ。監視魔眼は白飛びで判別不能。被害者一名、残留炭化。他に出入りの足跡複数、式痕は——」
「薄い。密度が合わない」
沙耶が投影陣の縁を指でなぞり、眉をひそめる。「高位の式にしては、残り具合が“軽い”。洗浄式の上書きがあるね」
「洗ってあるなら、そこを見ろ」
御堂が顎で示す。床板の継ぎ目に沿う蛇腹状の焼け筋。灰の粒の大きさが均一ではない。朔はしゃがみ、指先で煤を崩した。ざらり、と乾いた音がする。
「……位相煤が立ってる」
「は?」沙耶が目を瞬いた。「あんた、魔力ゼロなんでしょ。どうやって“見る”の」
「目と癖で足りるよ」
朔は煤を親指と人差し指で擦り合わせ、爪に残る微かなきらめきを光に向ける。「触媒灰にグラフェン粉が混ざってる。導路の“向き”が出る。普通の爆縮なら渦が内回りするのに、ここは外回りが強い。誰かが“式の走査”を入れて、導路を逆流させてる」
鑑識が顔を上げた。「走査痕、ってことですか?」
「はい。式を読むための式。拡大すればノイズが縞になるはず」
御堂の目尻がわずかに動く。「走査痕と逆流……つまり、仕掛けた本人が“わざと爆させた”線が強いか」
「『回収じゃなく破棄』に見せかけた“宣告”です」
朔は焼痕の周囲、コンテナの影へ歩いた。シャッターの歪みが風を渦に変え、灰が薄く踊る。黒い線が床に這い、ところどころで“途切れて”また繋がっている。点線が半周ごとに抜けていた。
「式盤の鏡写し……?」沙耶が口にする。「でも、鏡にする理由は?」
「追跡式を弾ける。でも“綺麗すぎる鏡”じゃない。利き手が途中で変わる雑な左右反転。……書き手は右利き、左はぎこちない」
「利き手まで言うかね」
「筆圧が均一じゃない。右から左へ移るタイミングで灰の山が細く崩れてる。——それと、ここ。四つ角。全部、ほんの少しズレてる」
朔は床の角を爪で軽く弾いた。チッ、と乾いた音。
「“遅延起動”の癖がある人間のズレ。七拍目に踏むなら、角は軽く遅らせる。爆発そのものより、“見せ方”に拘るタイプ」
御堂が口の端で笑う。「いい目をしてるじゃないか、神代。沙耶、どうだ」
「……理屈は通ってる。ただ、見てるだけでそこまで言うなっての」
「見えるものは嘘をつかない」
そのとき鑑識の一人が走ってきた。
「課長! コンテナの角、印が。削られてますが縁に残渣が」
錆びた扉のリベット間、直線三本を斜めに重ねた削り痕。朔は息を呑む。
「“三叉印(トリデント)”……」
「知ってるのか?」御堂。
「密輸港で二度。受け手が〈オルビス会〉系列だと、この印で合わせる」
沙耶の目が細くなる。「あの都市伝説みたいな魔術結社?」
「都市伝説にしては、死体がよく出る」御堂が淡々と返す。「神代、ここまでの“解析”を言語化しろ」
朔は海面、風向き、シャッターの捲れ方、柱の変形、焼痕の広がりを一度で結び直す。
「発火点は搬入口から六メートル。“火走り・七拍短縮式”の変形。上に走査痕。〈三叉印〉側が仕掛け、目的は証拠の消去に見せた“宣告”。パラメータの置き方、鏡写しの雑さ、七拍目の踏み方——合わせると、“狩野義一”の癖に近い」
空気が止まり、遠い海鳥が一声だけ鳴いた。
御堂が低く笑う。「名前が出たな」
沙耶は半歩前に出る。「根拠は薄い。狩野は去年逃げた運び屋。癖だけで指名はできない」
「できない。けど、狩野は起動文を“踊る”。七拍目で踵を鳴らす。現場で二回、踵の擦り傷が“変な位置”に出た記録がある」
「目撃者?」
「鑑識の雑記の端に一行。——それと、利き手は右。鏡写しにすると左がぎこちなくなる。そのぎこちなさが、角のズレと一致する」
御堂が短く頷く。「沙耶、狩野の動向。港内の監視魔眼、夕方から今までサルベージ。神代、式の“バグ”を抽出できるか」
「できます。追い式で〈遅延起動〉を崩す。七拍目を“六拍半”に詰めれば、狩野の癖が逆に足をすくう」
沙耶が舌打ちし、だが口角が上がった。「——面白いじゃん。ゼロのくせに、喋るね」
「ゼロだから、見えるものがある。魔力が鳴ってると、逆に聴こえない音がある」
御堂が手を叩く。「動け。残留文脈は神代優先。沙耶は外回り、監視魔眼の白飛び前後で影を拾え。——それと」
課長は焼痕の人型を見る。「こいつは運び屋じゃない。“消される側”が逆に押した。誰かが怖がって、スイッチを踏んだんだ」
「何から?」沙耶。
朔は倉庫奥の二重扉の影を見た。煤の流れだけが不自然に“避ける”四角い空白。そこに本来あった輪郭。
「檻。魔法生体か、違法触媒の“保管用”。搬出済み。……“餌の跡”もある」
沙耶の喉が硬く鳴る。「オルビス会、魔生体のペット商い——」
「都市伝説の方が優しい」御堂は淡々。「神代、そこを取れ。君の“ゼロ”に寄せる。バグの形が見えるなら、次の現場で首根っこを掴める」
朔は頷き、爪の隙間に残る微かなきらめきを拭った。遠くでコンテナクレーンが唸る。朝がだんだん形を持ち始める。
「——次は、こっちが踏む番です」
◇
監視魔眼の復元映像は白飛びと歪曲の無数の層でできていた。解析室の暗闇で、朔は一コマごとに粒子の揺れを目で拾う。魔力を持つ者が“音”として感じるノイズは、朔には“画素の寄り目”のように見えた。
七拍目——白飛びの縁で画素が一度だけ外へ“膨らむ”。ほんの六分の一拍、早い。六拍半。狩野の癖に合わせた〈遅延〉は、最終拍で攻めの詰めが甘くなる。
朔はキーボードに指を置き、復元シミュレータのパラメータを変える。詠唱の韻律、導路の位相、走査痕のノイズ位階。音のない拍子が脳内を打った。
(七、七、六半——)
走る。画面の灰が外へ流れ、次の瞬間、別のフレームで戻る。外回りと内回りが一瞬重なる“位相ずれ”。そこに爪を立てるように、追い式を噛ませられる。六半の溝へ、自分の拍を差し込む。
「神代」
背後から御堂の声。朔は振り返らずに答える。「拾えます。六半の溝に、こっちの三を刺す。三拍子で噛ませれば、遅延は崩れる」
「よし。沙耶が狩野の端末を吊った。港区内、電波の影が二つ。どちらかがダミーだ」
扉が開き、沙耶が入ってくる。肩で短く息をし、髪に潮が混じっていた。
「二つのうち、北側は走査ノイズがきれいすぎる。囮。南側は雑。……ねえ、神代。あんたの“雑”ってこういうの?」
「多分、好きなほう」
「は?」
「器用な奴は綺麗に鏡を作る。狩野は器用じゃない。焦ってるときは特に。——南だと思う」
御堂が頷く。「いい。突入は外さない。沙耶、南。神代はバックアップで“噛ませ”を回せ。走査は俺が持つ。——これは零係の初仕事だ」
零係。朔は喉に小さな熱を感じた。肩書きは何も変えない。だが、その言葉が、背骨を一本増やしてくれるときがある。
◇
南側埠頭。積み重ねられたコンテナの谷間を、海風が細く鳴く。太陽はまだ鉄の街を温め切れず、五時台の空気には夜の抜け殻が残っている。
沙耶が指を立てる。封印刺青が淡く光り、海風が音を持ち始める。風圧が灰の層を撫で、薄い膜のような流線を作る。
「可視化。——見えた?」
「見える」朔は頷く。風で炙り出された細線の流れが、ある一点で歪む。歪みは渦に変わり、渦の中心に小さな“空白”——遅延の溝——が生まれる。
コンテナの上から乾いた笑い声が降ってきた。
「おいおい、朝っぱらから楽団のリハかよ。七拍子は踊りづらいぜ」
狩野義一。細身、頬骨がやや出て、左耳の軟骨に銀の輪が二つ。右手に古い端末、左腰に式盤を吊っている。目が踊るように笑い、足元で踵を小さく鳴らした。
「踵、鳴らすんだね」朔が言った。
「癖でな。——で? 魔力ゼロ坊や。何しに来た。お前の目は、俺の火よりあったかいのか」
沙耶が一歩進み、掌で風を握る。「おしゃべりはそこまで。狩野義一、港湾法違反及び魔導特別法違反の疑いで——」
「はいはい、懲りないねえ“刑事さん”。でも、お前らが来るの、待ってたんだよ」
狩野は式盤に親指で触れ、カチリと音を立てる。コンテナの谷間に、目に見えない輪が走った。灰の層が外側へふくらむ。七拍目——。
「今!」
沙耶が風をひねり、圧力で灰の膜を剥がす。朔は端末に仕込んだ簡易追い式をタップし、〈三〉を六半の溝に噛ませた。拍が一瞬、重なる。
(六半に三を刺す——)
灰の膨らみが頓挫し、渦がつんのめる。狩野の式の遅延が狂い、発火のタイムラインが一拍ぶれる。コンテナの壁に低い唸りが走り、上にいた狩野の足場が不安定に揺れた。
「ちっ……!」
狩野が跳ぶ。谷間の反対側へ、踵で七拍目を刻みながら駆ける。左右のコンテナ外面に、彼の掌が描く薄い火走りが点々と残る。鏡写しの雑な線。右から左へ移るたびに筆圧が抜け、角がズレる。
「追うよ!」沙耶が走る。朔は背後で遅延の残滓が再点火しないよう、三拍の噛ませを繰り返し入れた。拍を聞き、拍を差し込む。魔力はないが、拍はある。朔の中では、世界が常に拍子で回っていた。
狩野が一段低い積み場へ降りた瞬間、足元の鉄板が鳴って波打つ。そこにも式が仕掛けてある。朔は息を吸い、視線で導路の“向き”を追う。外回りが強すぎる。——戻り道がある。
「沙耶さん、右——三つ目のコンテナ、側面の二段下!」
沙耶が右に抜け、掌で側面を叩く。封印刺青が閃くと、鉄板の下から“戻り”の導路があぶり出される。狩野は舌打ちし、走る方向を変えた。
「なんだよ。ゼロ坊や、耳がいいな」
「目だよ」
狩野の背に向け、朔は平板な声で言う。「オルビス会は、今夜は“見せる”だけのはずだ。完成度の低い式を見せて、恐怖を薄める。次で刺す。それが狩野義一の仕事」
「……誰が教えた」
「床の角。七拍目の踵。鏡写しの下手さ。灰の繊維の折れ方。あなたの前の現場、全部が教えた」
狩野の笑いが、ほんの一拍だけ止まった。彼の足が、七拍目をでも踏むように小さく沈む。その一拍の沈み、朔は見逃さない。
「こっちの番だ」
朔は端末の追い式を“割る”。六半の溝に三を入れてきたが、今度は二を押し込み、最後の一を“外す”。拍を欠けさせることで、遅延の癖が自壊を始める。遅延は、最後に来る“油断”が大好きだ。ならば最初に油断を置いてやる。
コンテナの谷間で、小さく火花が弾け、しかし燃えない。狩野の式は発火前に“息切れ”した。彼は振り返り、目を細くする。
「……踊れるじゃねえか。ゼロの癖に」
「踊れるよ。音がない場所だから」
沙耶が間合いを詰める。封印刺青が二重に閃き、空気が一瞬硬くなる。狩野は式盤で受け、膝を軸に逃げの回転。踵が七拍目を刻む。その踏み込みで、足元の薄線が連動して走る。まだ仕掛けが残っている。朔は灰の模様の偏りで“暴発の種”を見た。
「踏むな、そこは——!」
朔の声と同時に、沙耶が狩野の膝裏へ風圧を滑り込ませる。踏み込みが半拍遅れ、狩野の踵は空を叩いた。連動式は“踏まれなかった”ことで逆に遅延を起こし、連鎖のタイムラインを崩す。朔は二を三に戻し、最後の一を“逆位相”で噛ませた。
火は出ない。代わりに小さな衝撃音と、足元の鉄板が膨らむ音。狩野の重心が前へ泳ぎ、沙耶の手刀が式盤の持ち手を叩く。式盤が転がり、金属音を立てた。
「終了。——狩野義一、確保」
手錠の噛む音は、夜明けの空気に妙に澄んで響いた。朔は息を長く吐き、端末の画面の追い式を全停止に落とす。拍が止まる。世界が一度、静かになる。
狩野は地面に座らされ、肩で笑った。
「やれやれ。……ゼロくん、名前は?」
「神代朔」
「覚えた。——覚えておけよ、俺の名前も。“俺の上”の名前も」
沙耶が眉をつり上げる。「黙秘か、挑発か。どっち?」
「どっちでもいいさ。お前ら、見たろ。“檻”。俺たちはただ運んだだけだ。オルビス会は——」
言いかけて、狩野は唇を閉じた。その代わり、彼の目が谷の上、港の巨大なクレーンの向こうに薄く伸びる雲を見た。雲の切れ間に、わずかに光が差し込む。夜が終わる。
「名は、風が運ぶ。……“会”は丸い。どこへ転がっても、中心に戻る」
「オルビス会」御堂の声が背後から落ちる。現場へ到着した課長は、砂利を踏む音も立てずに近づいていた。「丸い輪っかで、世界を縛るつもりか」
狩野は笑い、肩をすくめた。「輪の中心を見る目があるか、——ゼロに」
朔の喉に、小さな熱が戻った。輪の中心。ゼロ。言葉遊びは好きではない。だが、その嫌味は、図らずも朔の中の拍をはっきりさせた。
「輪の中心は、空洞です。空洞は、形を移す。——なら、掴める」
御堂が顎で示し、部下たちが狩野を引いて立たせる。手錠の鎖が鳴った。
「連行だ。——沙耶、現場封鎖の継続、神代は残留文脈の最終サンプルを確保。檻の搬出経路を洗う。相手は“丸い輪っか”だ。どこへでも転がる」
「了解」
◇
署に戻る車内で、沙耶は窓にもたれながらぼそりと言った。
「さっきのさ、拍。六半に三って、どういう感覚?」
「歯車を無理やり噛ませる感じ。半歯飛びのところへ、別の歯を入れる。規格が違うと壊れるけど、今回は狩野の方が先に欠けた」
「ふうん。魔力の鳴りがないと、逆に“聞こえる”わけか」
「俺には音がないから、見える。君には音があるから、見えないことがある。——どっちも必要だよ」
沙耶はしばし無言で、それから小声で笑った。「生意気。……でも、嫌いじゃない」
運転席の御堂が、バックミラー越しに目尻をゆるめる。
「神代。零係は、名ばかりではない。“ゼロ”から始める係だ。捜査一課の余り物でも、敗残兵でもない。——空洞の中心から、輪を掴みにいく」
朔は返事をしなかった。喉の熱を言葉にする術を、まだ持っていなかった。
代わりに、胸ポケットの中で小さく指を鳴らした。自分だけに聞こえる拍を、確かめるように。
◇
取り調べ室。ガラスの向こうで狩野は、椅子にもたれ、静かに笑っていた。御堂がメモを捲り、沙耶が立って水を置く。朔は背後の壁に寄り、狩野の指先の癖だけを見ていた。爪の角、関節の鳴らし方。七拍目を待つ身体の気配。
「貨物の内容は」御堂。
「知らねえよ。運び屋だぜ。中身を知る運び屋は、長生きしない」
「運び先」
「輪の切れ目」
「オルビス会の誰に繋ぐ」
「丸い名のやつらは、名を持たない」
沙耶が肩をすくめる。「詩人気取り」
「詩は歌の親戚だ。俺は踊る。七拍で」
狩野は踵を浮かせ、落とした。——七拍目。朔の背筋が微かに伸びる。音はない。だが、拍は分かる。
「昨夜の倉庫で死んだ男は、誰を怖がった」
朔が口を開く。狩野の目だけが、そこに向いた。
「檻の中身だ。餌の跡があった。匂いは鉄と——柑橘。魔生体用の“匂い釣り”に、レモノイド型の触媒を混ぜると、活性が上がる。——君の手は、いまもその匂いがする」
狩野は一瞬、息を呑み、それを笑いに変えた。「香水変えなきゃな」
「変えても、爪に残る」
御堂が低く言う。「狩野、輪の中心を言え。——言えば、お前の歯車を直してやる」
狩野はしばらく沈黙し、やがて肩を揺らした。「中心は空洞。空洞には“眼”がある。——“オルビス”の“オル”は——」
扉が開き、事務員が顔をのぞかせる。「課長、署長から至急——」
「後だ」
御堂は手で制し、狩野へ視線を戻す。狩野の唇が、わずかに歪む。踵が床を探す。
「“オルビス会”の“会長”は——」
その瞬間、取り調べ室の照明が一度だけ瞬いた。蛍光の唸りが一拍、遅れる。朔の肩が自動的に反応する。拍がずれた。——遅延。
「下げろ!」
朔の叫びと同時に、御堂が机を蹴って狩野を床へ引き倒し、沙耶が掌で光を握る。封印刺青が眩しく爆ぜ、室内の空気が圧力を持つ。蛍光灯の内部で何かが弾け、しかし燃えない。朔は壁のスイッチボックスへ走り、蓋の隙間に指を差し入れる。稲妻のような痛みが駆け抜ける。六半の溝。ここにも、誰かが〈遅延〉を仕込んでいた。
「誰だ、ここに——」
御堂の低い呟き。取調べ室のガラスの向こう、廊下の端に作業服の男が一瞬だけ立ち止まり、すぐに消えた。清掃員の札。足取りは軽く、踵の落ちる拍が“七”で止まる。
「侵入」沙耶が噛む。「署内の電源盤に式を——」
「ゼロ」
狩野が床から顔を上げ、片目で笑う。「輪は、どこにでも描ける。お前らの足元にも、天井にも、胸の内にも」
御堂は目を細くし、短く息を吐く。「連れてけ。保護房だ。——神代。電源盤の走査をかけろ。沙耶、署内導路の“戻り”を全部あぶる」
「了解」
朔はスイッチボックスに身を寄せ、配線の流れを目で追う。外回りの強い渦。戻りは、照明の安定器の中に隠れている。狩野の癖とは違う。もっと滑らかで、もっと冷たい手。器用な鏡。——別の書き手だ。
(“上”がいる。輪の外側に、もう一つ、輪)
◇
朝の光が、港を本格的に照らし始める。署の屋上に出ると、海が金属のように硬く光った。風が抜け、灰の匂いは消えかけている。朔は胸ポケットで指を鳴らし、拍を数える。六。半。三。二。一。——無音。
「神代」
背後から御堂の声。屋上のドアに寄りかかり、紙コップのコーヒーを手にしている。
「お前の“ゼロ”は、欠けじゃない」
「空洞、ですか」
「そうだ。空洞は、輪を回す。中心がなければ、輪は輪にならない。——迷惑なことに」
御堂は苦笑し、コーヒーを一口飲む。「零係。正式にお前を入れる。紙は後で通す。席は、窓際でいいか」
「どこでも」
朔は頷いた。風が、彼の髪をわずかに持ち上げる。
「“会”は丸い。丸い物は、転がる先が読めない。だが、床の癖は読める。床がどっちへ傾いているか、空洞は教えてくれる」
「今日の傾きは——港の南」
「いや」
御堂の目が鋭くなる。「“署内”だ。侵入だ。お前が止めた遅延は、外の雑な手じゃない。中に入れる“滑らかさ”だ。——上は、近い」
沈黙。風が、二人の間に細い橋を渡した。朔はその橋の上で、指を鳴らした。七拍目を、意図的に外す。
「御堂課長」
「なんだ」
「輪の中心には、目があるそうです」
「見えるか」
「ええ——“見えるもの”なら」
御堂の口元に、小さな笑いが生まれた。「頼もしいことだ。……行くぞ。紙仕事が山だ」
◇
零係のフロアは、建て増しと改装を繰り返した結果、少し迷路じみていた。窓際に新しく空いた席には、古い木製の札が置かれている。“臨時”。朔はそれを指で裏返し、“零”の字を心の中で重ねてみた。輪に、点を打つ。
机の引き出しを開けると、古びた紙束がある。先代の零係の誰かが残したメモ。走り書きの文字。拍、角、鏡、戻り——そして、“オルビス”という単語。輪の上に、目の絵。
(見ていた人が、いた)
朔はメモをそっと閉じ、机の端に置いた。窓の外、港のクレーンがゆっくり腕を回している。輪のように。世界は輪だ。輪の中心は空洞だ。空洞は形を写す。なら、写った形を、ただ見ればいい。
彼は胸ポケットの中で指を鳴らし、初日の拍をひとつ、心に刻んだ。
◇
その夜。倉庫街の外れ、破棄された古い税関の建物。その地下に、輪の壁を持つ部屋があった。壁の中央に、目の絵。細い光が、天井の隙間から一本だけ落ちている。そこに、白い手袋の手が一つ、伸びた。
手は、輪の縁をなぞる。鏡のようになめらかな指先だった。
「——ゼロ」
遠くの海の音が、部屋の石に伝わった。白い手袋の主は、輪の中央を軽く叩く。七拍目で、そっと。
「拍が合うなら、踊ってやろう。拍が合わぬなら、輪を増やすだけだ」
明かりが消えた。輪は、暗闇の中でかえってはっきりと浮かび、目は、何も映さない空洞として光った。
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