第35話 G.F.000.31――生還
キィィィィン……。
聴覚センサーの奥で鳴り止まない高周波音を聞きながら、俺はシートに深く身体を預けていた。
窓の外には、光のラインが無限に流れている。
光速航行(FTL)。
物理法則の壁をすり抜け、因果律の彼方へと船を運ぶこの亜空間の中は、静寂に支配されていた。
先ほどまでの閃光、船体をきしませるG、そして背筋を凍らせるアビスウォーカーの気配。
それら全てが、まるで悪い夢だったかのように消え去っている。
聞こえるのは、一定のリズムで響くエンジンの駆動音と、自身の荒い呼吸音だけだ。
「……ふぅ」
俺は大きく息を吐き出し、接続ケーブルを首筋のポートから引き抜いた。
船体制御システムへのジャックイン解除。
拡張されていた意識が、急速に『ナイトハウンド』という個の器へと収束していく。
ドッと、鉛のような疲労感が押し寄せてきた。
義体に肉体的な疲労はないはずだが、脳が錯覚を起こしているのだ。
『思考加速』による脳への過負荷と、極限の緊張状態からの解放。
指一本動かすのも億劫なほどの脱力感。
だが、それ以上に胸を満たしていたのは、圧倒的な達成感だった。
生き残った。
あの地獄の底から、俺たちは生還したのだ。
***
『……生きてるか、お前ら』
操縦席から、ギデオンのかすれた声が響いた。
いつもの豪快なダミ声ではない。
張り詰めた糸が切れたような、震えを帯びた声だった。
「ああ、ピンピンしてるよ。……そっちはどうだ、船長」
俺が軽口で返すと、短い沈黙の後、深い溜め息が聞こえた。
『正直、ちびりそうだったぜ。……いや、笑い事じゃねえ。俺の手、まだ震えてやがる』
ブリッジで操縦桿から手を離したギデオンが、自身の震える手を見つめている姿が想像できた。
数々の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の傭兵である彼にとっても、あの「アビスクイーン」との遭遇は、死を覚悟する瞬間だったのだろう。
『アキト。……礼を言うぞ』
ギデオンが、真摯な声色で言った。
『あの瞬間、俺は恐怖で竦んじまった。コンマ数秒、判断が遅れた。……お前のあの怒鳴り声がなけりゃ、俺たちは今頃あの化け物の胃袋の中で消化されてたところだ』
船長としてのプライドが高い彼が、自分のミスを認め、新入りに頭を下げている。
「たまたまだよ。俺はただ叫んだだけだ」
『へっ、謙遜すんな。……この借りは、いつか返すからな』
会話が途切れる。
その言葉だけで十分だった。
このチームでの俺の居場所は、確固たるものになった気がした。
***
格納庫の空気も、安堵に満ちていた。
「ううぅ……も、もうダメかと思いましたぁ……!」
ハルが『タイラント』のコクピットハッチを開け、座り込んで泣き崩れている。
極限状態では「歩く要塞」として頼もしかった彼も、緊張が解ければただの気弱な少年に戻っていた。
だが、その泣き言を笑う者は誰もいない。
「……たく、情けない声出すんじゃないわよ」
レベッカが呆れたように言いながらも、その声には優しさが混じっていた。
彼女も強化服を脱ぎ、僅かに震える手で噛みタバコを取り出し、口に含んだ。
「でもまあ……今回ばかりは同感ね。あんなサイズのアビスが出るなんて、聞いてないわよ。寿命が三年は縮んだわ」
彼女は大きく息を吐き出し、シートに深く沈み込んだ。
その横顔には、生還の実感を噛み締めるような色が浮かんでいた。
そして、ノア。
彼は生存者たちの元へ歩み寄っていた。
『もう大丈夫や。怖いもんは全部、後ろに置いてきた。……安心しい』
ノアの言葉に、身を寄せ合って震えていた13人の男女が、涙を流して頷いている。
彼らにとって、この一週間は永遠に続く悪夢だったはずだ。
それが今、ようやく終わったのだ。
生存者たちが落ち着いたのを確認すると、ノアは俺の方へ振り返った。
義体のスピーカーから笑声が漏れる。
『それにしても、最後にいたアレ……何なん? あんなん「イベントボス」やろ? 正規ルートで戦う相手とちゃうで』
プレイヤー同士にしか通じない軽口。
俺は苦笑して答えた。
「ああ。たぶん、本来なら艦隊を組んで挑むようなレイドボスだ。ソロや少人数パーティで遭遇していい相手じゃない」
『せやろなぁ。運営のバランス調整ミスを疑うレベルや。……ま、逃げ切ったワイらの勝ちやけどな!』
ノアはガハハと笑い、俺の肩をバンと叩いた。
その明るさが、張り詰めていた俺の神経を優しく解きほぐしてくれる。
俺は背中のマウントラッチに手を伸ばし、固定していた「戦利品」を取り外した。
銀色のアタッシュケース。
表面には煤や傷がついているが、中身を守る堅牢さは失われていない。
俺はそれを膝の上に置き、そっと撫でた。
ずしりとした重み。
これが、今回のクエストの目標物だ。
「……なんとかなったか」
俺は小さく呟いた。
あのライバル部隊――漆黒の戦艦と、精鋭義体部隊。
奴らは俺たちを出し抜き、漁夫の利を得ようとしたが、結果はアビスクイーンの餌食となって全滅した。
対して俺たちは、生存者13名全員と、ターゲットであるチップの両方を守り抜いた。
誰も見捨てず、何も失わず。
これはまさに「パーフェクト・クリア」だ。
ゲーマーとして、これ以上の結果はない。
『――まもなく通常空間へ戻る。到着だ』
ギデオンのアナウンスと共に、窓の外を流れる光のラインが収束していく。
不快な浮遊感と共に、船体がガクンと揺れた。
FTL解除。
モニターに映し出されたのは、穏やかな星々と、その中に浮かぶ巨大な建造物――俺たちの拠点、コロニー『アマミヤ』の姿だった。
地獄のようなタルタロスの宙域とは違う。
そこには人の営みがあり、明かりがあり、帰るべき場所がある。
ピピッ。
通信回線が回復した瞬間、コンソールに割り込み着信が入った。
『アキトさん! ギデオンさん!』
モニターにユイの顔が表示される。
彼女は両手を胸の前で組み、涙目でこちらを見つめていた。
『無事……なんですね? こちらから観測できなくなって、ずっと心配で……!』
その声を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた最後の緊張が溶けていった。
「ああ、ただいま。……約束の物は確保した。全員無事だ」
俺がアタッシュケースを持ち上げて見せると、ユイは堪えきれずに涙を溢れさせた。
『……はい。……おかえりなさい!』
その言葉が、俺たちを「日常」へと引き戻してくれた。
ーーー
『スターゲイザー』は、ゆっくりとアマミヤの港へとアプローチを開始する。
俺はシートに身を沈めたまま、窓の外の星空を見つめた。
現実世界での俺は、ただの退屈な高校生だ。
だが、この世界ではどうだ。
死と隣り合わせのスリル。
仲間との絆。
己の力で運命を切り拓く高揚感。
そして、誰かに必要とされ、感謝される喜び。
鮮やかさが、違いすぎる。
「……まだ、帰りたくないな」
無意識に、そんな言葉が漏れた。
ヘッドセットを外せば、またあの重力と閉塞感に満ちた部屋に戻ることになる。
アキトという仮面を外し、ただの秋人に戻らなければならない。
その事実が、少し辛かった。
俺の魂は、すでにこの電子の宇宙に深く根を張り始めているのかもしれない。
『アキト、接舷作業に入るぞ。センサーがやられちまってるから、手伝ってくれ』
ギデオンの声に、俺は思考を中断させた。
「……了解」
今はまだ、この余韻に浸っていたい。
俺は意識を切り替え、着陸態勢に入る船のシステムへと再びアクセスした。
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