第3話

「おっと、もうこんな時間か」


 時計を見ると夜の九時を過ぎていた。隣では鬼気迫る表情で奈乃香が漫画を読み込んでいる。来季から放送予定で奈乃香がメインヒロインを務める原作漫画だ。


「奈乃香、もう帰るぞ」

「んにゃ? もうそんな時間?」


 肩を揺すると霧雨奈乃から天坂奈乃香に戻った。役に入り込んでいる時は緊迫した空気が伝わってきて、本当にプロなんだなと感心する。


「もう雨止んだぞ。送ってくから荷物持って」

「え~、今日はお泊りする。にぃやん一人だとすぐだらけるし」

「俺は大丈夫だ。帰らないとあの人に怒られるぞ。俺が」

「あ、ほんとだ。ママから帰るようにって来てる。もぉ~、にぃやんは彼氏じゃないから問題ないのにね。いい加減仲直りすればいいのに」

「別に喧嘩はしてないよ」


 最後にちゃんと喋ったのは三年前か。俺が家を出たのも同時期だ。


「まあ……身体に気をつけてくださいとは言っておいてくれ」

「素直になればいいのに。ツンデレなの?」

「うるさい。ほら行くぞ」

「わわ、待ってよにぃやん!」


 もうずっと帰っていない我が家への道は、目を瞑っていても辿ることが出来る。

 風はまだあるが雨は止んでおり、十月の夜の寒さが肌を撫でた。

 上着を羽織って来ればよかったと思い手をポケットに入れようとすると、奈乃香が俺の手をぎゅっと握り、ピクニックにでも行く気分で前後に振り始めた。


「お化けは出ないぞ?」

「にぃやんが迷子にならないように握ってあげてるの」

「そういう事にしてあげるよ」


 仲良く二人でアニメの主題歌を歌っていると、あっという間に家に着く。

 手を離すと「またね」と笑顔で手を振ってくれて、「おやすみ」と返す。

 回れ右をしようとしたところで、奈乃香が家に入るよりも先に戸が開いた。


「お帰りなさい、奈乃香」

「うん、ただいま。ママ」


 奈乃香と並ぶと親子だと一目でわかる女性。つまり俺の母でもある。

 俺は実家の前なのにアウェーな気分になり、目を合わせることが出来なかった。


「奈乃香からいつも聞いてるわよ。あなた、ちゃんと一人で生活できてるの?」


 話しかけられるとは思わなかった。間接視野で母を視界の端に捉える。


「……まあ。一応」


 ごにょごにょと口ごもってしまう。頑張れ、と奈乃香がガッツポーズを作っているが、何をどう頑張れというのか。別にこの人と仲良くしたいとは思わない。


「まだ書いてるの?」

「は?」


 ピク、と俺の琴線に何か不快なものが触れるのを感じた。


「小説ばかり書いてて生活は出来るの? 最近はあまり売れてないみたいじゃない。いつまでも書いてないで、現実も少しは見てみたら? もういい大人なんだから……」

「うるさい」


 決壊するように溜まった感情が飛び出した。特に今は、この話題には過敏だった。

 久しぶりに見る母親は、つまらない大人の顔で俺を子どものように見てくる。

 それが気に食わない。何も知らないくせにどいつもこいつも俺を語るな。

 だからつい。いろんな苛立ちを一つに混ぜて、ろ過したような声が口を出る。


「ほっとけよ。他人だろ」

「にぃやんッ!」


 叫んだのは、傍観していた奈乃香だった。大事な喉を気遣いもせず、ただただ感情のまま乱暴に発声しているようだった。それだけ奈乃香にとっては譲れないものがあったのだろう。涙を流して俺に言葉以上の何かを訴えてくる。


「それは言っちゃダメなことだよ」

「……悪い、奈乃香。また今度な」


 俺はその場に居続けることに耐えられず、母には一瞥もくれず逃げ出した。

 後ろで奈乃香が何か言っているが振り返らずに走り去る。

 ここにいたらダメだ。現実に引き戻されてつまらない生き方しかできなくなる。俺が俺ではなくなってしまう。そんな予感がして、一刻も早くこの感情をぶつけたかった。


 アパートに戻ると鍵も閉めずに靴を乱雑に脱ぎ捨てる。前のめりに背中を丸めながら座椅子に腰かけ、机にかじりつく勢いでノートパソコンの電源を入れた。

 執筆に使用しているアプリを立ち上げ、新しい真っ白なページを作成。


 一行目に『新作プロット』と打ち込み、次回作の構想に取り掛かった。

 小説を書いているときは全てを忘れて物語に没頭できる。その感覚が堪らないほど心地良く、苦難を乗り越えて書き上げた達成感は何事にも代えがたい。


 自分には小説しかなく、小説を書いて生きて行きたいと本気で思っている。

 読者に万感の体験を届け、誰かの心に残る物語を紡ぐことが俺の夢だ。

 しかし夢というのは誰もが叶えられるものではない。

 逃げても逃げても、現実というのは俺を捕食しようと追いかけてくる。そして捕まったが最後、自力で抜け出すことは不可能な底なし沼に引きずり込まれるのだ。


「……くそ、なんでだよ」


 カチ、カチ、と秒針を刻む音が反響する。一時間、二時間と過ぎて行き、日付が変わって深夜の二時を過ぎようとしていた。

 目の前の画面は未だに白紙のままである。

 あれからたったの一文字たりとも進んでいない。

 何度か頭の中で設定やキャラを思い浮かべ、それをアウトプットしようと試みた。

 しかし納得いくものは書けず、すぐに消しては書き、また消しての繰り返し。

 構想がすんなり行くことの方が少ないのはわかっている。構想に五年以上かかった超大作だってあるくらいだから、ほんの数時間で進まないことは何らおかしくない。

 だが、俺の場合は違っていた。いや、この症状というべきか。


「おぇ……気持ち悪い」


 もう何度目になるだろう。頭の中には書きたいネタがたくさんあり、アイデアも次々湧いてくる。今日はいつになく調子が良いという実感すらあった。

 それなのに、文字を実際に打ち込むと、とてつもない吐き気が俺を襲った。自分の文章を見ることが出来なくなり、目眩や動悸などの発作が起こるのだ。

 文字をバックスペースで消すと体調は戻り、また書くと再発する。


「ふざけんなよ」


 もう一度タイピングを始め、頭の中を出力する。

 一文書くと脳震盪を起こしたような気分になり、二文書くと全身が痒くて堪らなくなった。なら文字を見なければいいと思い、目を瞑り三文目を書き始めたところで、心臓を直に握られたような気分になった。座っているだけなのに息が上がり、全身から汗が噴き出して止まらない。それでも書くことを辞めないと、金縛りにあったように指先が動かなくなり、指をコンセントに突っ込まれたと錯覚するような痺れが走った。


 と、そこで耐えられなくなり──


「っぷ。おげぇ……」


 胃に溜まっていたものが込み上げ、床に吐瀉物をぶちまけた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 身体が落ち着くと、今度は恐怖が襲って来た。

 自分の大切なものが失われ、心に大きな穴が広がるような感覚。こんな経験は初めてで、今まで味わって来たどんな挫折よりも地獄の苦しみだった。


「嘘だろ……?」


 この時、俺は打ち切りや酷評レビューよりも最悪があることを知った。

 雨の日も風の日も。良い事があった日もそうでない日も。

 毎日毎日、体が覚えてしまうくらい書き続けてきた。

 勉強も運動も人並み以下の成績だった俺が、唯一頑張ったと胸を張れるもの。

 他の人とも張り合えると、自分の存在を認めてくれたもの。

 そんなあたりまえが壊れていく音を聞きながら、俺は絶望に打ちひしがれる。

 手や口が汚れたのも気にせず机に向かい、もう一度画面を見る。

 キーボードに手を添える。

 その瞬間、頭が真っ白になる。

 無色透明な日々に戻っていく──


「小説って、どうやって……書くん、だっ、け……」


 俺は電池が切れたようにその場に倒れ、深い深い眠りについた。


 この日。

 俺はプロの作家どころか、物書きですらなくなったのだ。

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