窓際
ハスイは窓際の席で、誰の会話に加わるでもなく空を眺めていた。空に関心があるわけでも、黄昏るほど自分自身に酔っているわけでもない。クラスメイトの会話に加わらない口実として、そして、好き好んで一人でいるアピールとして、ハスイは「空を眺める少女」を無意識に演じていた。
教師が教壇に立つとざわついていた教室が、波が引くように静かになった。教師は静けさではなく、完全な沈黙が訪れるまで、忍耐強く静止している。教室のちょうど真ん中あたりの虚空を見つめながら。虚空へと向けられている教師の目に、一人、また一人と生徒たちが目線を合わせた。ただ一人、空を眺め続けるハスイを除いて。
教師は、芝居じみた動きで両手を広げた。腕は棒のように細いが、手のひらは大人のものだ。
「今日の授業では、いよいよ我々アポトシスの歴史……、その核心に迫る」
いよいよ、と言われたところでハスイにとっては初回の授業。なんの感慨も湧かなかった。
「想像力…… 。それは、人類が持ちえた最大の力であり、同時に、最大の過ちでもあった能力だ」
教師が指を鳴らす教室の中央に旧人類が作り上げた美しい大聖堂のホログラムが浮かび上がった。きめ細かな装飾は白い石へさらに柔らかな質感を与えており、中央に据えられた薔薇の形をした窓は太陽の光を静かに反射し、美しく輝いている。
「きれい……」
教室のあちこちで感嘆の声や、ため息が聞こえた。
想像力がこうした美を生み出す原動力ならば、本当に、その力は過ちなのだろうか。ハスイは横目でチラリとホログラムを眺めながらも、正面はかたくなに向かなかった。
「想像力とは“存在しないものを、あると信じる力”だ 。その力で、彼らはまず第一のウイルス、『宗教』を生み出した。宗教は善悪の規範を人類に与えたが……」
次の瞬間、大聖堂のホログラムは炎上した。赤々とした炎は美しい装飾をどす黒い色へと変えていった。窓枠は熱で歪み、ガラスは溶け、屋根は崩れ落ちる。
そして、異なるシンボルを掲げた兵士たちが殺し合う映像に変わった。その殺し合いをしているのは大の大人たちのはずだが、横目で見ているハスイには子どもの喧嘩のように見えた。
「……異なる神への信仰は、流血の歴史を繰り返した」
次に現れたのは、地球全土のホログラムだ。美しい青と緑の球体へ、素早く引かれていく鮮やかな国境線。そして、その線が拡大されると、一糸乱れぬ軍事パレードの映像へと切り替わった。
「次に彼らが発明したのが、第二のウイルス、『国家』。それは人々を統合したが、その結束は『我々』と『それ以外』を分けた。そして、国境は戦争の口実となった」
その言葉と同時に、パレードの兵士たちが回れ右をした。そして、再び前進をはじめ、そのまま荒廃した街へと消えていった。戦士が消えていった街には火の雨が降り注いだ。
「そして彼らが最後に生み出した、最も悪質、残忍なウイルスが……」
教師はこぶしを突き出すと、ゆっくりと手を開いた。その上に浮かんだホログラムは、小さく、薄汚れた、長方形の紙……。これまでの映像と比べると、実に見にくく、また、迫力も、恐怖さえも欠けている。
「貨幣だ」
教師は貨幣のホログラムを手のひらの上へ投影しながら、教室内を練り歩いた。生徒たちが顔を近づけては「これが?」と言いたげな表情を見せた。
「ただの紙切れ、ただのデータ。だが、人類はこれを『貨幣』と呼び、絶大な力を与えた。自分の持っている物や技術を一度、貨幣を通して数値的な価値に置き換えたんだ。リンゴ一つなら貨幣一枚、リンゴ二つなら貨幣二枚といった具合に、規則性を持って。そして貨幣一枚分の価値は、別の価値へと交換が可能になる。貨幣の恐るべき点は、あらゆるものと交換可能な点だ。たとえば、衣服や食料、土地といったものから……命までもね」
ハスイの目の前に貨幣のホログラムが突き出される。
「そして、もう一つが、貯められるという点だ。リンゴを溜めたところで腐ってしまう。しかし、貨幣はその価値が信じられているうちは、いつまでも腐ることはない。そして、一枚では力を持たなくとも、十枚、百枚、千枚と数を増やすごとに力を増していく。貨幣が多ければ多いほど、それだけ価値の高いものと交換できた。この紙切れを何枚集めれば、命に届いたと思う?」
教師は少しだけ微笑んでいるように見えた。ハスイは目をそらし、再び空を眺める。
「貨幣が少なければ弱く、貨幣が多ければ強い。単純な仕組みだからこそ、富の偏在と貧困を生んだ。一見すると、誰でも平等に貨幣を増やせる機会が与えられているように思える。その結果、人類の欲望を煽ったのだ」
ホログラムが、着飾った富裕層と、路上で倒れる貧しい人々の対比を映し出す。
「優劣が生まれ、弱者と強者が生まれた。これら全て、実体のない『共通幻想』だ 。想像によって生み出され、想像によって破綻する。人類はこのウイルスの暴走を制御する術を知らなかった。その脆さが、最終的に人類を破滅へと導いたんだ」
教室の真ん中あたりに座る生徒が、恐る恐る手を挙げる。
「それって、想像力が悪いってことですか? 」
「いい視点だ。想像力は可能性そのもの。だから、想像力のすべてが悪いというわけではない。人類が生み出した美しい大聖堂をみんなも見ただろう? 我々の祖先、ファーストアポトシスは何もそれを排除したかったわけじゃない。問題は、制御法を知らなかったこと……」
教師は教室を一巡し、教壇へと戻った。
「では、我々がそのウイルスから身を守る、完璧なワクチンとは何か?」
「EMOとVISAによる調和システムです!」
優秀な生徒がいち早く、反応した。
「その通り!」
優秀な生徒とは何だろうか。それは、周りの生徒よりも「大人」であることではない。賢いことでもない。大人が望む答えをいち早く出せる「子ども」であること。
それこそが、優秀な生徒の条件だ。
「優秀な生徒」のVISAが「ピコン」と軽い音を立てる。その音にハスイは顔をしかめた。正しい答えへの報酬、EMOが微量加算される。
「その反省から生まれたのが、ディンナム・シティだ。我々は想像力を排除したのではない。EMOシステムによって、安全に管理・制御している。しかし、みんなはまだその実感が薄いだろう。無理もない」
教師は二度、頷いた。それにつられて何人かの生徒も頷く。
「そのことを学ぶきっかけとなるのが『サクラサミット』だ。そこでみんなは、真の調和を体感し、我々の社会の完成を見るだろう」
教師の目は、教室の天井へと向けられた。けれども、それは、ただ天井を見つめているのではないのだろう。
ハスイは変わらず、空を眺めていた。視界の端に映る、天に伸びたディンナムタワー。そのタワーに美しさよりも、どこか近寄りがたさをハスイは感じていた。
突然、都市の空に巨大な花火が打ち上がった。音もなく火の花弁を開く、赤い光の華。少し遅れて、地鳴りのような爆発音がハスイの鼓膜を揺らした。
鼓膜だけではない。脳が、全身が、ビリビリと小刻みに揺れた。
クラスメイトたちが一斉に立ち上がり、「なにあれすごい!」「え、今日だったんだ!」と口々に歓声を上げながら窓へと押し寄せる。窓際に座っていたハスイは、一瞬にして、生徒たちに囲まれた。背中や二の腕に何度も人がぶつかる。広げていた教科書に誰かの手が置かれ、ページがくしゃくしゃに折れ曲がった。
教師はそれを止めなかった。
「サクラサミットの開催だ」
撮影用デバイスを掲げると「記念に撮っとくか」と教師はつぶやき、シャッターを切った。ハスイが「やめてください」という間もなく。
フラッシュで、視界が白く焼き付く。
「先生、もう一回撮って!」
「タワーも写そうぜ」
「花火も写るかな?」
「早くサミット行きてえわ」
「今日行っていいんですよね?」
生徒たちの声が重なり合う。ハスイは、それが一つの巨大な生き物の唸りのように聞こえた。教室そのものが、何かの胃袋の中になってしまったかのような、火の手がすぐそこまで迫っているような、息苦しい不快感。
耐えきれずハスイは、机と机の間をすり抜け、倒れ込むようにして走り出した。
廊下に飛び出し、勢いそのままに、窓へと手をついた。何度呼吸を繰り返しても、肺に酸素が溜まっていかない。肩が上下し、喉の奥から胃酸が込み上げてくる。落ち着け、落ち着け、と頭の中で自分の声を何度も響かせた。
何とか気を落ち着かせ、呼吸に集中する。少しずつ、教室の音が遠くなっていく。一方で、自分の鼓動や、呼吸音がよりはっきりと耳に届いた。
ハスイは顔を上げ、ガラスに映る自分の姿を見つめた。しかし、そこに映っているのは制服姿の自分ではなく、幼い頃の自分。呆然と立ち尽くしている子どものハスイだった。
ここに映っているのは過去だ、とハスイは理解している。当然、幻だということも。けれども、幻だからこそ、振り払うことも、目をそらすことも、ハスイにはできなかった。
ハスイは教室には戻らず、ひたすら校舎の下へ下へと降りて行った。教室からできる限り遠くへと離れたかった。
地下大体育館へと続く薄暗い廊下は、冷たい静寂に包まれていた。どれだけ静かに歩いても、足音は反響し、けれども、コンクリートへとすぐに吸収される。ここだけ造りが違うのか、コンクリートで造られた灰色の空間で、水の音がどこからか響いていた。
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