第6話 雨音がいまも耳に残っている
***
「……荷物はこれですべてか?」
「ええ、これだけですわ」
大公はロクサーヌの下げた小袋ひとつを見つめた。
袋の中身はほんのわずかな貴金属しかなかった。ここに来た時に着けていたピアスやネックレス、リングなど一式である。
着ていたドレスの方は、こちらでしばらく生活するのに邪魔だったのですぐに売り払った。そして、当面の生活費としてミナに丸ごと渡したのだ。
『要らないよ!! こんな額もらっても困るよこわいよ!!』
とミナは悲鳴に近い声を上げたが、むしろロクサーヌのほうが納得できなかった。
身の振り方が決まるまでの衣食住が守られたうえ、右も左もわからない世界で親切にしてもらい、夫のせいで人間不信になりかけていたのにそれすら払拭してもらった。
一般的な赤の他人の面倒ですら大変であろうに、さらに妊婦でもあるロクサーヌの面倒をみてくれたのである。この恩はこんな額で賄えるものではない。
かといってこの貴金属を渡しても、売ることもなく思い出の品としていつまでもとっておきそうだった。困ったものねと思いつつ、そんな彼女の素朴な人柄をすっかり好きになっていた。
別れるのは寂しいが、また笑顔で会えるはずだ。悪い別れ方ではないのだから。
大公は大袈裟な馬車を何台も連れて迎えに来た。だが、乗せるものといえばロクサーヌ本人くらいのものである。地元の老若男女が通りすがりを装い、辺りを幾度も往復し、そのたびに豪勢な馬車を口を開けて見やっていた。
不思議そうになおも小袋を見つめる大公に、ロクサーヌは笑顔で応じた。
「この世界には身ひとつで来たものですから」
忘れてはいけないのはお腹の子くらいですわと微笑んでやると、それは忘れてはならないな、と大公も軽く笑った。
こちらの世界に落ちてから早数か月、ロクサーヌの腹も徐々に膨らみ、より妊婦らしくなってきて、悪阻の症状も落ち着いてきた。
幸いなことに無事安定期に入ったため、婚約はまだだが侍医のいるうちの屋敷に住んではどうか、と大公に誘われたのである。
野次馬の中に、相変わらずヘロヘロの姿を見つけた。目が合うと、男は恭しく礼をした。貴族の作法はきちんと身についている。ますますもったいなかった。
「ロクサーヌ様、こたびはおめでとうございます。道中お気をつけて」
「恩に着ます、テランス卿。貴方が手を尽くしてくださったおかげで、素晴らしい方とお会いすることができました」
私は職務を全うしたまでです、とテランスは微笑んだ。
「レディは大公妃となられるお立場なのですから、もし次お会いしたときは、どうか楽にお話しください」
テランスは先日の自分の発言をあっさりと反故にした。まぁこれも、貴族社会あるあるである。この世界も、どうやら前の世界と違わずわかりやすい縦社会のようだ。
「……」
ロクサーヌが黙って見つめると、疲れた目をしながらもテランスはキョトンとした。
「――わたくしはね、受けた恩は忘れないのよ。貴方にもいつかきちんと、わたくしなりのやり方で報いるわ」
「? お気遣いいただきありがとうございます」
それまでに引き受けすぎた仕事はきちんと整理して、くれぐれも早死にすることのないようにするのよ、と滔々と述べると、なにもわかっていない顔をしたまま頷いた。
「~~ロキシー!」
「! ミナ!」
人をかき分け駆け寄ってきたその人と、わっと抱き合った。
ハグをしたときの体の温かさも、背中に回された掌の熱さも、間近から香る彼女お手製のヘアオイルの香りも、なにもかもがすでに懐かしい。
気位の高いロクサーヌが、自分から愛称呼びを申し出るくらいミナとは親しくなっていた。数か月も寝食を共にすると、どうしたって彼女の人の善さに絆されていったのである。
「寂しくなるよー……!」
「わたくしもよ! 貴女がそばにいてくれたから、わたくしはこの世界でも前向きに過ごせたのだもの」
「わたくしって……またそんな貴族様みたいな話し方して……」
あぁでもそっか、貴族様なんだっけね……、とミナは瞳を潤ませた。
相手に合わせて話し方を変えるのは、ロクサーヌなりの礼儀であった。拾ってくれたミナや、彼女の周りの人々に合わせた話し方で過ごしたつもりだ。親切にしてくれた人間に、居丈高な印象を与えたくなかったのだ。
ミナには感謝してもしたりない。彼女のおかげで無事に過ごせた。これは紛れもない事実だ。世辞や礼儀上以外のことで、心から礼を述べるなんて初めてかもしれない。
このソバカスだらけの顔すらも愛おしい。明日からもう見られなくなるのね、と切なくなった。
「……ミナ。子どもが生まれたら貴女にお願いがあるの。聞いてくれる?」
「? もちろん。なんだって叶えてあげる」
手紙も書いていい? と述べるとまた、もちろんだよすぐに返事を書くよ、とミナは快諾した。
促され馬車に乗り、すぐに窓を開けて手を振った。
前の世界なら、こんな所作は絶対にしなかった。はしたないと顔をしかめられる振る舞いだったからだ。
手を振り返す彼彼女らの姿が見えなくなり、ロクサーヌはようやく手を振るのをやめた。身内でもない他者との別れで涙が出るなんて、物語の中の大袈裟な表現ってわけじゃなかったのね、と内心思いつつ鼻を啜った。
大公は、そんなロクサーヌをじっと見つめていた。
「住民たちと親しかったようだな」
「……よくしてくれました。なにもわからない中、私どころかお腹の中の子のことまで心配して、とても親切にしてくれたのです」
彼女たちには感謝しかありませんと頷くと、ロクサーヌのびしょびしょになったハンカチを見て、大公は自分のポケットチーフを差し出してくれた。
ありがたく受け取り、ロクサーヌはまた目元を押さえた。
大公は窓を見やると、フと笑った。
「……つくづく貴女と縁が繋がってよかった」
「? 喜ぶのはわたくしの方ではございませんか? 今のところ、わたくしだけが恩恵を享受するわけですもの」
「そのようなことはない。家門にも私にも充分に利点はある」
ロクサーヌが侯爵家の娘であったとはいえ、異世界に飛ばされればそんなものは意味をなさない。ロクサーヌはそれを身をもって痛感した。
平民が平民を助けるのは見返りがあるから、もしくは、見返りがなくてもいいと思えるほどの関係を築き上げているからだと知った。ロクサーヌはそのどれも持っていなかったが、保護してくれたミナは村の人たちにずいぶん信頼されており、彼女の頼みだからと皆は私のことも気にかけてくれたのだ。
助けてくれたのがミナでなければ、今頃どうなっていたかわからない。
大公家へ行って生活が落ち着いたら、やはりまずミナにお礼がしたい。
とはいえ私は、なんの後ろ盾もない状態で大公妃となるのだ。まずは大公アレクサンドロに、役割を担うに充分な妻だと思ってもらわなくては、自由に使える支度金も発生しないだろう。
アレクサンドロは、どこか上機嫌に頷いた。
「貴女の書いた書類には嘘がなかったと聞いた時点で、こんな人はめったにいないとは思ったものだが、突然落とされた新しい世界で、こうも密な人間関係を築けるとは大したものだ」
貴女はきっと良い方なのだろう、とアレクサンドロは続けた。
ロクサーヌはそれを、ぼんやりとした気分で聞いた。ローランドが聞いたら、引きつった笑みを返したのかしら。人の良いこの男が、悪女に愚かにも騙されていると思ったに違いないわね。
内心自嘲したロクサーヌを、大公が不思議そうな目をして見ているのに気が付いた。なんでもない顔で笑ってみせた。
「そういえば、嘘がないとはどういうことでしょう? わたくしの書いた書類になにか?」
「あぁ、あの用紙は魔道具でな。どうも異世界人にはわからないらしいという話は本当だったようだ。この世界の人間には、異世界人が綴った内容が嘘か真かわかるようになっているんだ」
魔道具……、と訊きなれない言葉を私はオウム返しした。
「……まさか、こちらの世界には魔法があるとでも仰るのですか?」
「? 以前の世界にはなかったのか?」
「ええまったく。そういったものはおとぎ話の中だけですわね」
急に異世界っぽさが出てきたわね、とロクサーヌは思った。
「でしたら大公閣下も魔法をお使いになられるのですか?」
「一般と同じく微々たる力だが」
ふと彼は馬車の窓に指を差すと、ちょちょいと横に振った。音を立ててカーテンが閉まり、驚愕した。
「まぁ……! 不思議ですわね!」
「この程度の力で驚かれると少し複雑だな。それに、今のがおおむね私の限界だ。ほんの少し風の適性がある程度だ」
大きな力を持つ魔法師ほどになると、嵐や洪水を止めたりできるらしい。
ロクサーヌは自分の手を見つめた。
「……。わたくしにもなにか適性があるでしょうか。楽しみですわ」
「? そうか?」
こちらの民にとっては普通のことなので、特に力を欲しがったりはしないそうだ。
「少しでも力があれば、誰かのためになるかもしれないではないですか」
風を起こせれば、うだる夏には子どもにそよ風を送ってあげられるし、水を作ることができれば、熱を出した子どもの額に当てた布を、いつでも冷たいものに替えてあげられるだろう。
「ね? 素晴らしいことではございませんか」
そういう考え方はしたことがなかった、とアレクサンドロは感心したように述べた。
「異世界から来た者を、皆が家族にと望む理由がわかった気がする」
「? さようですか?」
大公はどこか満足げに頷いた。
「魔法の適性は、屋敷に帰り次第はかってみればいい」
「あら、お屋敷でできるものですの?」
彼はなんでもない顔で頷いた。
「たいていの屋敷には、適性をはかる魔道具がある。我が家では魔石だな。手をかざせば色が変わり、その色でどの適正を持つかわかるという代物だ」
「……神殿やら教会やらに行くのではないのですね」
ロクサーヌは前の世界にいたときも、ファンタジー小説の類は読まなかったのであまり詳しくなかった。
こんなことならお勧めされたときに何冊か読んでおくのだったわ、とぼんやり思う。取り巻き兼友人のひとりとして、ロクサーヌに目をかけてくださっていた王女殿下が、一時期気に入ってよく読んでいらしたのだ。おすすめされた際に話のさわりを聞かされたくらいの、霞のかかったような淡い知識しかない。
こちらにもファンタジー小説ってあるのかしら、あったらどんなものかしらと思う。魔法のある世界が考える、ファンタジーの定義ってどういったものになるのかしら。
異世界に来てからは一般庶民の生活に順応するのに忙しくて、本を読むどころか、譲ってもらった子ども向けの教本で文字を覚えるのが精いっぱいであった。
「神殿や教会に行ってみたいのか?」
「あぁいえ、なにやら儀式をしたりとか特別な手続きですとか、てっきりそういったものがあるのだと思いこんでいたのです」
「? 神殿でも可能だが、わざわざ出向く必要はない。魔法の資質を調べることは、そのような一大事でもないからな」
魔法などと聞いたから、ずいぶんファンタジックな世界に来たものだと思ったものだが、ここではごく身近なもので、大騒ぎするほどのことではないようである。
夢があるんだかないんだかわからないわね、とロクサーヌは内心苦笑した。
「格式ばったことでもないのなら、よかったですわ。まだこちらの作法には疎いものですから。お世話になる閣下に、さっそく恥をかかせるわけにはまいりませんもの」
「そのようなことを気にする必要はない。そういった責任を取ることもひっくるめて、迎える側の仕事と言えるだろう」
そう言っていただけるとありがたいですわ、とロクサーヌはお愛想の微笑みを浮かべた。
「ロクサーヌ嬢は魔法に関して前向きな気持ちがあるようだな。少しでも適性があれば、教師を迎えてもいいだろう」
「そこまでしていただいてよろしいのですか?」
フ、と微笑んだ。
「知りたいことは、知りたい時に学ぶのが一番だ。この世界に早く慣れてもらうためにも、そうしたほうがいい」
アレクサンドロが言うには、ここで生まれ育ったた人間と違い、異世界人はこの世界に馴染めば馴染むほど魔法の適正が上がってゆくそうだ。
なので私には、この世界の人間より充分な伸びしろがあるとのこと。だが生まれる子どもはおそらく、この世界の子どもたちと同じ一般的な適正値しか出ないだろうとのことであった。
どうせなら子どもに適正がでたらよかったものを、とやや残念に思った。
この世界の生まれでも、魔法が不得手という人もいるらしい。ここではないどこかへ行きたい、消えてしまいたいと思っている人は、魔法が使えなくなっていくため、心の病の発見も早いのだそうである。
……便利なんだか不便なんだかよくわからないわね、とロクサーヌは思った。
「ちなみに、複数の適性を持つ者はそういない。私は風の強い日に生まれたため、風の適性がでたのだろうと言われたな」
「生まれた日が重要ということですか?」
アレクサンドロは首を振った。
「それはこの世界の人間の話で、異世界人は別だ。
ロクサーヌ嬢は、こちらに来た際に印象に残っていることはあるか? 暖炉の近くで目覚めたとか、滝の音で目覚めたとか」
――私は。
水たまりに足を取られこの世界に落ち、大雨の日にミナに保護をしてもらった。
窓に激しく打ち付ける雨音で、目が覚めた。
「……大雨の日でしたわ」
「ならば、ロクサーヌ嬢の適正は水の可能性が高いな」
護身にも水は便利らしい、よい結果が出るといいな、と大公はなんでもないことのように述べた。
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