第21話 呉太妃の私塾

 今日はまるで熱に浮かれているように思考が定まらない。

 早朝から木剣を振るうが、剣筋が定まらない。


― 昨夜は一晩中、周公瑾こうきん様の横顔が頭から離れなくって、全然寝付けなかったわ ―


 シャオは頭を振って、朝の鍛錬に集中する。

 一汗流したところで、清拭で身を清め身支度を整える。


 今日から、呉太妃たいひの私塾が再開する。

 午前中は座学で『孫子そんし』『呉子ごし』を教本とする。

 時には具体的な古戦図を用いて、軍略を問う。

 孫家の中にあって孫権そんけんは常に『孫子』に基づき、最良の策を用い続けている。


― さすがにけん兄様ですわ。これならば将軍となっても敵に後れを取ることは無いわね ―


 午後は練兵場に移って、武術の鍛錬にも余念がない。

 さすがに屋敷内では、阜陵ふりょう県で行っていたような模擬戦までは行えないものの、毎日積み重ねる鍛錬はきっと裏切ることは無いはず。

 真剣に打ち合う剣技には、鍛錬と言えど『生』そのものへの執着を垣間見る。


 その中でも一際目を引くのは、孫権そんけんと施ランとの手合わせで有ろう。

 基本的には剣技の型をなぞって打ち合うものの、その足運びや剣先の鋭さが徐々に相手を押し込む様子が手に取るように分かる。

 しかし二人の剣技は優劣が付かない。

 共に隙を見せずに、疲れを見せることもなく打ち合い続ける。


 やがて呉太妃たいひから掛けられる「止め!」の合図とともに、両者離れて一礼をする。


― きっと、この二人なら戦場にあっても余人に引けを取ることは無いわ。だから数え十五歳にして成人とするのに、伯符はくふ兄様も迷うことがなかったのね ―


 次はわたしの番だ。

 相手はいつもなら、兪河ゆかが率いる衛士の一人となったであろう。または一つ上の兄、孫匡そんきょうだ。

 しかし二歳年上の孫匡そんきょうには、どうしても敵わない。

 そこで衛士のベテラン武官が、手加減をして相手を務めてくれていた。


 孫策そんさく曲阿きょくあ県に合流したことで、兪河ゆかも衛士を従えて本来の任務として、今は孫策そんさくの側近として軍務についている。


 そこで目の前に佇むのは、砕石洲さいせきすの中洲で出会った張チンである。


― どうして選りにもよって、この人になったのかしら? ―


 まぁ、呉景ごけい屋敷は安全だ。

 そして屋敷の警護の者、元義侠団としては最若年なのだろう。

 それにしてもやり難い。


 年の頃は、孫権そんけんや施ランと同年代に見える。

 義侠団に居たからか体力もあり、剣術もそこそこの腕前である。


― それにしても、なんて打ち合いにくいのかしら? 剣術の流派が異なるだけで、ここまで太刀筋が違うのかしら? ―


 初見とは言うものの、これはあくまで剣術の鍛錬である。

 相手の剣筋を受けつつ、相手に打ち返す。

 流派が違えども、そこは大きな差があるとは思えない。


 しかし張チンの振るう剣は洗練されていて、打ち込む剣は軽く払われ、返す切っ先は最短距離を通って首筋や胸元、つまり急所の手前で寸止めしてくる。

 それに本気を出しているようにも、とても見えない。

 打ち払う剣にしたって、あまり力が入っていないのだ。

 もちろん呼吸も乱れることも無い。


シャオ頑張って!」

 練兵場の脇には、いつの間にか紅紅フォンフォンの姿が目に映る。

 再度、木剣を構え直して間合いを測って打ち込む。

 今度は木剣を打ち合うことすらなく、間合いに入られて木剣が喉元にピタリと止まる。


「止め!」

 呉太妃たいひから終了の合図が告げられる。

 シャオは力なく、その場でうずくまる。


 しかし意に反し、呉太妃たいひは更に言葉を続ける。

シャオは木槍に持ち替えて、鍛錬を続けなさい」


 シャオが握る木槍は、朱塗りの短鎗たんそうを模したものだ。

 幼い体格のシャオは主にこちらの木槍を使い続けていたが、同流派同士での剣術の演舞となると、どうしても使い勝手が悪い。

 しかし他流派となれば、そもそも相性は関係なくなる。


 改めて木槍に持ち替えて、相手との間合いを広げる。

 相手の木剣は正眼に構えたままで、特段に変わる様子もない。

 一気に間合いを詰めて、木槍を相手の胸元に突き込む。


 しかし、必殺の一撃も軽く相手の木剣に絡め捕られてしまう。

 落とした木槍を拾い直して、ギュッと強く握り締める。


「止め!」

 呉太妃たいひから、再び終了の合図が告げられる。

 共に一歩下がって礼を交わす。


 フッと呉太妃たいひを見遣るとちょうど周瑜しゅうゆが脇に佇んでおり、軍配で口元を隠すように何やら小声で話しているようである。

 きっと、シャオの手合いと関係なく試合を止めたのだろう。

 真剣な眼差しを周瑜しゅうゆに向けている。


― ひょっとして今までの不様な試合を、選りにもよって周公瑾こうきん様に全部見られてしまったのかしら? ―


 シャオは今まで流した汗とは、違うものが交り合う感覚がする。


 恐る恐る再び呉太妃たいひの方を見遣ると、背筋を伸ばして皆に号令を掛ける。

「今日の鍛錬はここまでとします。各自解散!」


 各自一礼して、お互いに声を掛け合う。


シャオの振るう槍術も久し振りだったので、もう少し長く見たかったな」

 孫権そんけんが爽やかな笑顔を向けて、一言声を掛ける。


「わたしも木槍の鍛錬も怠ってはおりませんが、未だにけん兄様にお見せするほどではありませんわ」


― それにあのまま打ち合ってても、きっと後手を取ってたに違いないわ ―


 若いとはいえ今回の手合わせには、義侠団の高い戦闘技術に改めて驚かされる。

 改めて張チンに挨拶をしようと振り返るが、深々と拝礼するとそのまま立ち去ってしまう。


「あの青年もあまり見掛けない上に、変わっているな」

  

けん兄様の言われる通りで義侠団の一員ってことでしたけど、とても風変わりですわ」

 青年は二人が見詰める中を一人で立ち去っていく。

 

シャオ! 大丈夫? 怪我とかしてない?」

 慌ただしく、紅紅フォンフォンが駆け寄ってくる。


「大丈夫と言えば大丈夫なんだけど、肝心なところが大丈夫じゃないわ」


 紅紅フォンフォンは小首を傾げながら後を続ける。

「てっきり、この間話していた張チン様と剣術の稽古なんかしているんだもの。早速、出会いのシチュエーションなのかと勘違いしちゃったわ」


「そんな素敵な話じゃないわよ。それよりも、もっと悲しい想いに打ちのめされてたわ」

 シャオは、周瑜しゅうゆの目の前での醜態を思い返しながら頬を赤らめる。


 そう言うことなら、一緒に部屋に戻ってじっくりお話しましょ?

 好奇心漫々な面持ちで、シャオの袖を強く引く。


けん兄様、そう言うことみたいなので、また明日でよろしいかしら?」

 その一言を残して、紺碧こんぺき色の女の子は薄紅うすべに色の女の子に引き摺られるように屋敷に戻って行く。


「フッ、若いな」

 孫権そんけんは前髪を搔き上げる。

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