第3話 痩せた理由

午前の巡回を終え、カートを押しながら廊下を歩いていた。

誰の目にも平静を装い、必要以上に視線を泳がせない。

けれど耳は、どうしても拾ってしまう。

低く響く指示の声。患者にかける柔らかな調子。

――忘れろって言われたのに。

胸の奥がざわめき、ペン先がわずかに震える。



「……痩せたな」

背後から声をかけられて、足が止まった。

振り返る瞬間、腕を引かれて廊下の影に引き込まれる。

「ぁっ」

小さく声を上げると、彼の腕の中で抱き締められていた。

いつも恋い焦がれていた、あの彼が白衣を着て俺を抱き留めている。

彼の指先が俺の頬のラインをなぞり、口元が冷たく緩む。

熱く抱かれていた頃には気づかなかった、冷たい微笑み。

俺の顎のラインへ指をずらし、静かに聞いてくる。

「俺のせいか?」

心臓が跳ね、喉が詰まる。

「……関係ありません」

否定したのに、声が震えていた。

胸の奥では――そうだ、と叫んでいる。

彼は近づき、腕を掴む。

「嘘つくなよ。顔に書いてる」

囁きが耳たぶをかすめる。



力は強くないのに、逃げ場を奪われた感覚。

「離してください」

必死に言葉を吐いたが、弱々しい。

顎を掴まれ、顔を持ち上げられる。

目が絡み合い、視線を逸らせない。

「やっぱり……そういう顔するんだな」

唇が触れた。浅い一瞬。

それだけで背筋に稲妻が走る。

「……っ」

押し返そうとしても、腕に力が入らない。

頭の奥で、あの夜の熱が蘇る。

忘れたいのに、身体は覚えている。

もう一度、彼の唇が俺の唇を塞ぐ。彼は口を離さず、さらに角度を変えて深めようとする。

舌をからめ取られようとした瞬間、心臓が跳ねた。

「やめっ……!」

ようやく声を絞り、肩を押す。

ほんのわずかに距離が開いた。

彼は目を細め、余裕の笑みを浮かべる。

「まだ俺を欲しがってる。……違うか?」

低い声が胸の奥をえぐる。

言葉が出ない。

唇に残る温度を、必死に拭っても消えない。


「またな」

俺の腕から手を離し、背を向けて歩き去る。

白衣の裾が揺れ、残り香だけが残った。

壁に背をもたれかけ、肺の奥で荒い呼吸を繰り返した。

――二度と関わらない。

そう決めたのに、震えは止まらない。

更衣室の鏡に映る顔は、頬がこけ、唇が赤い。

水で洗っても熱は消えない。

その夜も眠れず、シーツを握りしめて目を閉じた。

耳にはまだ、囁きが残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

激しく壊され 優しさに抱かれる 杜若薫(かきつかおる) @kakitsukaoru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ