@Harunomuku

 早く酔いたいと願って飲んでいたウイスキーのロック。味わうでもなく、この場の気まずさにのまれないよう、ただ酔う為だけに飲んでいたもの。大して仲のいいわけでもない知り合いに連れて来られたお店で、僕は愛想笑いをしながら孤独に苛まれていた。明日も休みだから別にいつまで飲んでもいいのだが、この場には僕は不釣り合いだった。いや、楽しめていないだけだ、それを理由に思考が逃げようとしているだけだ。久々に外で飲む酒がこんなものでいいのかと思っていたが、思考に浸れるのならいいのだろう。何もない日常のただほんの少しの刺激、そんなつもりで訪れたのだからなんでもいいんだ。

 お金もないから何も生み出さない、刺激もない、ただ生きているだけの僕はこの場でも空虚な存在だった。会話を回そうとする気概さえない、その場にいても相槌を打つだけの空っぽな人間だ。つまらない人間の堕落した時間、僕はそれに身を委ねている。

 そんな空間に現れたのは、僕の心をただの空虚な大人と化したものから、心沸き立つような人生に変えてくれる光のような女神のような存在だった。

 一目見た瞬間に、一言発した瞬間に、僕の心が何も知らなかったあの頃の純粋無垢な僕へと戻る、そんな気配を感じた。これを世間は一目惚れというのだろうか。そんな陳腐な言葉と一緒にしていいのだろうか。この出会いに名をつけるのなら、心が死んでいた僕は、言葉が死んでいた僕は、そう言うしかなかった。

「面白いね。好みでしょ。」

「そうだね。好みかもしれない。」

 面白い言葉なんて出てこない、僕の心はその瞬間から、その子に釘付けだった。明るく会話を繋げていく彼女の姿を僕は眺めていた。きっと誰にでもこのような姿を見せるのだろう。そういった人の良さや愛想の良さを感じた。愛想がいいとは言っても嫌味のない愛されてきた人特有のものを感じさせた。そんな彼女に僕の言葉は少しだけ加速する、これはお酒の力を借りた虚勢なのか、それとも彼女の心に少しでも残ろうとする心なのか、そんなものがわかるなら心というものはここまで難しいものではなかったのだろう。ポニーテール姿の愛らしい、愛嬌たっぷりな彼女は、僕の心と脳内にしっかりと刻み込まれた、この場に来れば彼女に会えるのだと、もっと話したいと心が訴えている、今さっきまで早く帰りたいと思っていた心は、正反対にこの時間がずっと続いてくれればいいと、彼女のことを永遠に見ていたいと訴えかけている。そんな幸せな時間はあっという間に過ぎていくものだ、お金もない僕はこの場に居続けることさえ出来ず、その場を後にした。その時にはもう、彼女のことばかり考えてしまう、思春期の男の子であった僕が心の中に産まれていた。

 その日すぐに彼女の存在を探っていた僕は、ストーカーか、良く言うなら探偵に向いているだろう。そのBARのSNSアカウントからすぐに彼女を見つけ出していた。出会った彼女からも、眼鏡をかけていたから、有名なアニメに例えられて、探偵事務所のかたですか、なんて言われたことを思い出した。まさに探偵のような所業だろう。ただ違うのは、個人的な事情で動いているということだけだ。我ながらに気持ち悪い人間だと思う。この行動力を人生に活かしていれば、今頃充実した人生を歩んでいたのかもしれない。それでも今は、気持ち悪いとわかっていても、この気持ちを優先したいと思ってしまった。仕方ないではないか、あの人に僕は近付きたかったんだ。でも、お金のない僕はすぐにBARに行くことが出来ない、なら言葉でもいいから彼女に送りたかった。僕を覚えていてほしかったんだ。これは恋なのか、歪んだ想いなのかはわからないが、その時はそれでいいと思った。フォローボタンを押すのを少しだけ躊躇する。多数が訪れるお店のただの一客でしかない、覚えてさえいない可能性だってある。拒絶されるのだって怖いんだ。でも、これで気持ち悪がられても、それで終わりなだけだ。それでもいい。何もないより、少しでも何かを生み出したいと思ってしまったのだから。

 僕のメッセージは眠る前には返信が来ていた。これほど喜んだのは、いつぶりだろうか。僕の心が動き始めた。いや、人生さえ動き始めたのではないかと感じてしまう。それほど、僕はこの出会いに興奮を覚えていた。そのメッセージに僕はすぐに返信を返す。ただの挨拶、『探偵事務所のかたですね!』なんて僕との会話を覚えている返信をくれていたことにも舞い上がってしまう。きっと客に対する営業のようなものなのだろう。それでも、僕は彼女に言葉をなげかけることが嬉しくてたまらなかったんだ。だから、思わず一目惚れでしたという言葉を添えて返信をしてしまった。脳が酔っている、アルコールにもこの出会いにも。正常な判断なんてつきはしない。でも、それでいい。僕はこの出会いに誠実に向き合いたかった。自分の想いを全てストレートに伝えたいと思えたんだ。『また口説きに行きますね』、なんて言葉を送って僕は眠りについた。いい夢が見れた記憶なんてここ最近なかったけれど、この日はいい夢が見れそうだ。

 僕と彼女はそれからメッセージを送り合うだけの関係が続いた。僕の中学生が書くポエムのような口説き文句に、健気に返信をしてくれる。彼女の笑顔が頭に浮かぶ、話す時に動作をとりながらオーバーにリアクションするかわいらしい姿。少し茶色味がかったポニーテールを揺らしながら、無邪気に笑うあの顔はまさに幸せを夢見るプリンセス。そんな姿が僕の脳内にはずっとある。彼女の言葉が、僕にその姿を描かせるのだ。そんな彼女に会いたい、その気持ちは日々増すばかりで、僕は毎日のように夢を見ていた。起きている間、仕事をしている時もご飯を作っていても、寝る前も寝てからもずっと彼女という夢の中にいた。

 給料日というものは、誰にとっても嬉しいものであり、幸せに満ちた日だろう。それでもこの日をこのまで心待ちにした人間は僕以外には居ないのではないだろうか。オアシスを探し求める旅人が、蜃気楼の先にある水辺を見つけるかのごとく僕は歓喜していた。やっと彼女に会いに行けるんだ。それだけでどんな嫌なことでさえ忘れられる気がする。今までの人生がどれほど空虚なものであろうと、今の僕は誰がなんと言おうと幸せに満ち溢れている。その日彼女が出勤していることを確認して、僕は店へと向かった。普段ならこの程度で汗をかくことはないが、少し汗ばんでしまうのは、僕の緊張か、気づいたら普段より早足で歩いているせいか。いや、初夏の暑さのせいだろう。

 初デート前の学生が待ち合わせ場所で少し怖気付いてしまうような緊張した心持ちで、僕は店の前に立つ。一滴のアルコールも飲まずに、彼女と素の僕で会う。もちろん、店に入ればお酒は飲むだろう。今この瞬間だけは記憶にしっかりと焼き付けたいと思ったのだ。

 薄暗い店内、カウンターの奥に彼女の姿が見えた。下を向いて作業をしている彼女は僕に気付かない。彼女が存在している。その場に居る。それだけでここまで嬉しくなるものなのだろうか。神がここにいる、この薄暗い店内で彼女のいるところだけが輝いて見えた。

 カウンターの一番奥に座る。彼女が他の人間に接客をしている姿をその場から眺める時間が少し続いた。そしてふとこちらを見た時に、笑顔を浮かべながら会釈をしてくれる。その姿はどれだけ夢見たかわからない僕の想像していた姿そのままだった。女神様は何も変わらずその場に立っている。胸が高鳴るのを抑えられない。上手く話せるだろうか、彼女の心に少しでも残れるだろうか、そんなことを思いながら僕はなんのお酒を頼むか悩んでいた。

「こんばんは。来てくれたんですね!」

「やっと会いに来れました。今日も変わらずにかわいくて生きててよかったなって思います。」

 そんな軽口を叩きながら、僕はジンリッキーを頼む。すぐに酔うような酒を飲んで、緊張なんて飛ばしてしまいたいとも思ってしまうが、そんなことをするのはもったいない。この夢を僕は最大限楽しまなければいけないと心に決めていた。

「文章たくさん送られるのは迷惑じゃないですか?変にポエムのような言葉も送ってたと思うので、嫌な客に思われてるんじゃないかと思ってました。」

「そんなことないですよ、次はどんな言葉が来るんだろうって思ってました。詩人みたいでしたよ。」

「昔、小説を書いていたことがあったので、その力かもしれませんね。夢は諦めてしまいましたが。」

「そうなんですか?読んでみたかったな。」

 そんな言葉を言われてしまったら、僕の口も回る回る。酒も回ってきっと口がまた馬車馬のように走り出す。きっと営業トークなのだ、きっとなんの気なしに褒めてくれているだけなのだ、そんなもんなのだ。それはこころのどこかではわかっていた。それでも、僕は言葉を紡ぐのが楽しくて仕方なかった。彼女は屈託なく笑う。それを嘘とは微塵も感じさせないくらい自然に、その場に存在しているのだ。今日も変わらず後ろ髪を揺らしながら、僕の目をしっかり見つめてくれる。その目から僕の目も離せなくなり、見つめ合いながら会話をする。これが恋する男女じゃないというのが、信じられないという気分になってしまう。ここは夢の中だ、僕は夢の中にいる。そんな魔力がきっとこの夜の街にはある。

 ただ、僕は現実に戻される時もある。彼女が他のお客さんに笑顔を向けている時、僕は何も特別ではないんだ、そんな気持ちにもさせられる、だからこそ漏れてしまった言葉もあった。特別になりたいと願った男の本音が。

「貴女のために、また僕は小説を書きますよ。」

 筆を折ってから、夢を追わずに何処にでもいるような駄目な人間になってしまってから、燃え上がりもせずただ時間を浪費していただけの僕だが、少しだけまた現実から離れようという気持ちが湧いていた。もっと、誇れる自分であらなければ、彼女に相応しくないんだと、僕の心が叫んでいた。どれだけ滑稽なことだろう、僕は浮かれているのだ。そこいらに居る夢焦がれて、夜の街に駆り出す男共と何も変わらない。きっと、彼女にとっても僕はどこにでもいるただ一人の客なのだとわかっている。夢ばかり見ても仕方ないんだと、大人になってしまった僕は言う。彼女が他の男に接客している姿を見て、きっとあの男のことが好きなのかもしれない、いや好きじゃないにしても、僕のことなんて同じ人間としか思っていないんだと、特別でなんてないんだとそうわかってしまう。それが大人だ、諦めを知った大人だ。それが正しい姿なんだ。夜に夢見る男の姿。ありふれた存在の一部でしかない。彼女はどこまでも特別な女神様で、人に夢を見させる天才だ。その存在が夢を見させる、その存在が幸福をもたらす、その愛嬌が笑顔が人を癒す、だが僕はどこまでもちっぽけな、雑踏の中見ても忘れられるような登場人物の一人でしかない。それを理解しているからこそ、気持ち悪くとも彼女の心に残ってやろうじゃないか。彼女のために小説を書くというような人間がどこにいる。この世にいるのか。愛を伝えることは他の男でもしているだろうが、小説なんて書こうという阿呆が他にいるか。居ないだろう。夢を見てやろう。そして一文でも彼女に夢を見させてやりたい。

 その日、僕はそんな宣言をした後に、他愛もない会話を少しした後に店を後にした。前とは違い長い時間を共に過したことで、彼女の人となりを少しでも理解出来たはずだ。だから、僕はその全てを文章にのせることにした。ただ彼女のことを考え、文字を書き連ねた。嫌なことも考えてしまったし、僕の全てを引きずり出されるようで苦しくなる。それでも、一度書き進めれば僕の想いは気持ちの悪い想いたちはひとりでに走り出す。

 僕はずっと夢を見続ける。このまま、僕は現実に戻らず見続けていく。それを愛しているのだ。女神を愛しているのだ。少しでも近づけるようにと僕はこの世界から離れていく。

『僕の小説を受け取ってください。僕の全てです。』

 彼女へ送った小説の最後は僕の今の心境を載せた。


 ――彼女の夢にこれからも狂い続けるだろう。――

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