第3話 束の間の愛

 田中俊介は、首都高を降り、なんとか黒塗りのセダン――そして氷室零と思しきそのドライバー――の追跡を振り切った。恐怖と興奮で脈打つ心臓を抑えながら、彼は携帯電話を取り出した。

​「…頼む、出てくれ」

​ コールする相手は、品質管理部の齋藤智子。彼女は俊介が派遣されている**『大和フーズ』で、数少ない彼の理解者、そして秘密の恋人だった。彼女は高野課長代理の目を気にせず、俊介に優しく接してくれる、この白い地獄における唯一の「聖域」**だった。

​「もしもし、俊介? どうしたの、息が上がってるわよ」

​ 智子の落ち着いた声を聞いた瞬間、俊介は堰を切ったように安堵し、そして疲弊した。

​「智子…頼む、今から会えないか? 少し、命懸けの逃げ方をしてしまって…」

​ 智子は一瞬ためらった後、低い声で答えた。

​「分かったわ。いつもの場所よ。すぐ行くから、落ち着いて」

 密室の告白:カラオケルーム

​ 二人が待ち合わせたのは、池袋の雑居ビルにある、古びたカラオケボックスだった。

​ 智子はいつも通り、清潔感のあるブラウスにタイトスカート姿。しかし、その瞳には、彼を案じる強い光があった。

​ 俊介は、高速でのチェイス、氷室零と思しき男の冷たい視線、そして高野課長代理の罵倒のすべてを、尾崎豊の歌詞のように吐き出した。

​ 智子は黙って聞いていたが、彼の話を終えるや否や、突然立ち上がり、部屋の鍵をかけた。

​「俊介。あなたは、私が守る」

​ その言葉と同時に、彼女はスカートのファスナーに手をかけた。

​「…智子?」

 俊介は驚いた。

​「会社のストレス、上司の醜い目、追跡者の冷たい視線…ぜんぶ、ここで忘れて。私で、あなたを浄化してあげる」

 ​智子は、会社の制服とは真逆の、解放された本能をむき出しにした。彼女は俊介にとって、純粋な愛と肉欲の両方を提供する**「裏の智子」だった。彼女の大胆な行動は、俊介を束縛する「日常の倫理」**を、最も直接的で、そして快楽的な形で破壊した。

​ 狭いカラオケボックスの密室で、尾崎豊の歌は止まり、二人の息遣いだけが響き渡った。この時間が、俊介にとって、**「暴力のアルゴリズム」や「評価のアルゴリズム」とは無関係の、真の「聖域」**となった。

 癒しと背徳のスパ

​ 熱を帯びたカラオケの部屋を出た後、二人は池袋の有名スパ**『スパ・リラフュージョン』**に向かった。

​ 高級感あふれるスパの静かで清潔な空間は、ダンボール置き場の薄汚れた空気や、高速道路の喧騒とは隔絶された世界だった。

​ 薬湯に浸かりながら、智子は俊介に寄り添った。

​「高野さんの件、私もずっと知ってた。彼は、正社員の優越感で派遣社員を食い物にする、一番醜いタイプの人間よ」

​「俺は…智子のおかげで、なんとか持ってるよ」

 俊介は、彼女の肩に頭を預けた。

​「ねえ、俊介」智子は囁いた。「あなたは、もう逃げなくていい。あの録音データ、私に預けて。品質部として、そしてあなたの恋人として、私が責任をもって、あの男を**『監査』**してあげる」

 彼女の瞳は、昼間の仕事で見せる**「品質管理」**のプロとしての厳しさと同じくらい、強い決意を帯びていた。

​ 智子の提案は、俊介にとって、『暴力』ではなく『秩序』の力を使って高野を打倒し、**『日常』を正常化する唯一の機会だった。それは、長十郎が選んだ『悪の道』とは異なる、『倫理』**を通じた復讐劇の始まりだった。

​ 齋藤智子の協力を得て、田中俊介は高野課長代理への反撃の手段を得ました。

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