ふたりの世界

犬山テツヤ

第1話

 朝の光が埃をきらきらと照らし出す、喧騒が始まる前の教室。俺、池田春樹は自分の席に着くと、深く息を吸い込んだ。チョークの匂い、古い机の木の匂い、そして隣から香る、陽だまりみたいなシャンプーの匂い。全部が混ざり合って、俺の日常が作られていた。


「春樹」


 隣の席から、澄んだ声が俺を呼ぶ。声の主、井上光莉は、特注の車椅子の上で小さな体を少し揺らしながら、得意げに何かを掲げて見せた。白い指先でつまんでいるのは、ふわふわとした素材でできた、少しとぼけた顔のパンダのキーホルダーだった。


「昨日、お父様が買ってきてくれました。かわいいでしょう?」


 ふふん、と効果音がつきそうなほどのドヤ顔だ。黒曜石のように艶やかな髪、長い睫毛に縁取られた大きな瞳。そのすべてが自信ありげに輝いている。光莉は、自分の持つ「かわいい」ものを、一番に見せる相手をちゃんと知っていた。それはいつだって、俺の役目だった。


「……うん、かわいい」


 俺の口から、思ったより素直な感想がこぼれ落ちた。パンダも、そして、それを見せびらかす光莉のことも含めて、全部が。その言葉に、光莉は満足げにこくりと頷くと、今度は自分のスクールバッグをごそごそと漁り始めた。そして、まるで手品師のように、もう一つ、全く同じパンダを取り出してみせる。


「はい、春樹の分です」

「え?」

「おそろい、です」


 差し出されたパンダを、俺はほとんど無意識に受け取っていた。視界の端で、俺たちのことを気にしていた女子生徒たちが、小さく息を呑んだ気配がしたが、よくわからない。俺は言われるがまま、自分のバッグの金具に、そのパンダをぶら下げた。


 光莉のバッグと俺のバッグ、二つの場所で、とぼけた顔のパンダが二匹、ゆらゆらと揺れている。


 それが、どれだけ特別なことなのか、俺には分からなかった。


 教室の移動で、俺が光莉の華奢な体を「お姫様抱っこ」で運ぶのも。その代わりに、壊滅的な俺の数学のレポートを、光莉が完璧な数式で埋めてくれるのも。俺たちが「二人」でいるために必要な、当たり前のこと。


 俺が彼女の足になり、彼女が俺の頭脳になる。

 そうやって二人三脚で生きてきた俺たちにとって、「おそろい」のキーホルダーは、その日常に加わった、ただの新しい“しるし”くらいにしか思えなかった。


 それが恋の始まりだなんて、ましてや、とっくの昔に始まっていた恋の、これはただの確認作業だったなんて。

 俺たちのどちらも、まだ知る由もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る