コーヒーと小説家と柴犬

浅野じゅんぺい

コーヒーと小説家と柴犬

その日、彼の静かな生活は、ほんの小さな音に揺れた。

隣室から聞こえる柴犬の爪の音。

夜の沈黙を裂くように響き、胸の奥で小さな波紋を広げる。

たかが生活音のはずなのに、孤独がひそかに膨らむ。



彼は小説家だった。

名前は知られていても、人前では言葉を失う。

ぎこちない会釈、子どもの声に反応して窓を閉める──

自分はそういう人間だ、と諦めていた。


でもその日、波紋の先に、何か違うものが揺れている気配があった。



駅前の喫茶店で、差し出されたカップを見つめる。

「ブラックでいいんですよね」

沙耶の声に、彼の「はい」は少し遅れた。

微かに浮かぶえくぼが、胸の奥に熱を残す。

それが何なのか、考えないようにした。



ある日、画家の入院で柴犬のタロを預かることになった。

慣れないリードに振り回され、靴紐に絡まり、息を整える余裕もなく立ち尽くす。


背後から落ちる声。「大丈夫ですか?」

振り返ると沙耶がいた。


「……なんとか」と弱い声。

それでも笑みが近づくと、胸の奥の強張りがふっとほどける。

数秒のやり取りが、長く尾を引く温もりになる。



夜の並木道は、静寂が耳に痛いほどだった。

街灯の下で沙耶と目が合う。

息をひそめるような一瞬。

ポケットに差し込んだ手が小さく震える。


掌の中で触れたら、消えてしまいそうな衝動。

差し出せば触れられる。

でも、守られた距離を壊すのが怖くて、立ち尽くした。


「……また、お店で」

沙耶の声。口元の笑み。

歩き出す彼女がふと振り返る。

街灯の光が横顔をかすめ、視線が一瞬だけ重なる。

それはすぐに離れた。

胸の奥の温度は消えない。



残されたのは沈黙と、夜にひそむ鼓動の余韻。

耳を澄ませば、まだあの爪音が胸の奥で鳴っている気がする。

それは孤独を告げる音ではなく、

誰かと生きる未来の扉をそっと叩く音。


彼はその確かさに気づき、目を閉じるしかできなかった。

波紋の中心に、ほんの少しの希望を抱きながら。












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コーヒーと小説家と柴犬 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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