コーヒーと小説家と柴犬
浅野じゅんぺい
コーヒーと小説家と柴犬
その日、彼の静かな生活は、ほんの小さな音に揺れた。
隣室から聞こえる柴犬の爪の音。
夜の沈黙を裂くように響き、胸の奥で小さな波紋を広げる。
たかが生活音のはずなのに、孤独がひそかに膨らむ。
*
彼は小説家だった。
名前は知られていても、人前では言葉を失う。
ぎこちない会釈、子どもの声に反応して窓を閉める──
自分はそういう人間だ、と諦めていた。
でもその日、波紋の先に、何か違うものが揺れている気配があった。
*
駅前の喫茶店で、差し出されたカップを見つめる。
「ブラックでいいんですよね」
沙耶の声に、彼の「はい」は少し遅れた。
微かに浮かぶえくぼが、胸の奥に熱を残す。
それが何なのか、考えないようにした。
*
ある日、画家の入院で柴犬のタロを預かることになった。
慣れないリードに振り回され、靴紐に絡まり、息を整える余裕もなく立ち尽くす。
背後から落ちる声。「大丈夫ですか?」
振り返ると沙耶がいた。
「……なんとか」と弱い声。
それでも笑みが近づくと、胸の奥の強張りがふっとほどける。
数秒のやり取りが、長く尾を引く温もりになる。
*
夜の並木道は、静寂が耳に痛いほどだった。
街灯の下で沙耶と目が合う。
息をひそめるような一瞬。
ポケットに差し込んだ手が小さく震える。
掌の中で触れたら、消えてしまいそうな衝動。
差し出せば触れられる。
でも、守られた距離を壊すのが怖くて、立ち尽くした。
「……また、お店で」
沙耶の声。口元の笑み。
歩き出す彼女がふと振り返る。
街灯の光が横顔をかすめ、視線が一瞬だけ重なる。
それはすぐに離れた。
胸の奥の温度は消えない。
*
残されたのは沈黙と、夜にひそむ鼓動の余韻。
耳を澄ませば、まだあの爪音が胸の奥で鳴っている気がする。
それは孤独を告げる音ではなく、
誰かと生きる未来の扉をそっと叩く音。
彼はその確かさに気づき、目を閉じるしかできなかった。
波紋の中心に、ほんの少しの希望を抱きながら。
コーヒーと小説家と柴犬 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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