地球、息切れ。

クソプライベート

男はただ、深呼吸したかっただけだ。

肺野剛(はいの ごう)は、生まれた時から「肺野」の名に恥じない、脅威の肺活量を誇っていた。子供の頃、深呼吸するたびに教室の窓がガタつき、プールの底で平気で1時間潜水し、中学の合唱コンクールでは彼の声だけで全パートをカバーできた。

​「俺は、もっと深く、もっと長く、呼吸したいんだ」

​彼の夢は、海だった。広大な海に潜り、無限の水中世界を酸素ボンベなしで泳ぎ続けること。そのためには、地球上の酸素を全て吸い込めるほどの肺活量が必要だと、彼は無邪気に信じていた。

​大学の研究室で、剛の肺は解析不能なレベルにまで発達していた。もはや彼の肺は、通常の器官というより、ブラックホールのように空気を吸い込む無尽蔵のポンプと化していた。

​ある日のこと。剛は、地球の裏側にあるという、誰一人として潜ったことのない海底洞窟のドキュメンタリーを観ていた。その神秘的な映像に、彼の探究心が沸点に達する。

「…今だ。この星全ての空気を吸い込めれば、俺はあそこまで行ける!」

​彼は、自宅のマンションの屋上へ駆け上がった。両腕を大きく広げ、胸いっぱいに膨らませる。そして、深海への憧れを込めて、ゆっくりと、しかし確実に、息を吸い込み始めた。

​「スゥーーーーーーーッ…………」

​その瞬間、世界中の人々が、一斉に息を詰まらせた。

​まず、彼のマンションの隣で飼われていた犬が、「クゥン…」と情けない声を上げ、パタリと倒れた。

次に、近所の公園で遊んでいた子供たちが、「パパ…息が…」と顔色を悪くしてしゃがみ込む。

瞬く間に、症状は都市全体に広がった。信号待ちの車のエンジンが止まり、人々の意識が遠のき始める。

​剛は、まだ気づいていない。彼の壮大な深呼吸が、地球規模の大災害を引き起こしていることを。

​【国連緊急会議室】

​「酸素濃度が、急速に低下しています!地球全体で、平均2%を切りました!」

「な、なんだと!?一体何が起きている!?」

モニターに映し出されたのは、酸素濃度のグラフがジェットコースターのように急降下していく映像だ。ニューヨークも、ロンドンも、東京も、人々が次々と意識を失っていく。

​「データ解析の結果、酸素が一点に集中していることが判明しました!」

「どこだ!?」

「東京です!…いや、正確には、東京にある一人の人間が、全てを吸い込んでいるようです!」

​モニターに、肺野剛の顔写真が大写しになった。彼はまだ、目を閉じ、口を大きく開けて深呼吸を続けている。その顔は、恍惚に満ちていた。

​「このままでは、地球は数分で完全に酸欠状態に陥ります!人類は、全滅します!」

「何とかして、彼に吐き出させろ!」

​しかし、誰も彼を止める術を持たない。ミサイルを撃ち込んでも、酸素のない大気圏では火薬が燃焼しないだろう。

​剛は、ようやく深呼吸を終えた。

「フゥーーーッ!」

​そして、ゆっくりと息を吐き出した。

​その瞬間、世界中の人々が、一斉に大きく息を吸い込んだ。

​「はぁっ、はぁっ…生きてる…!」

倒れていた人々が次々と意識を取り戻し、犬は尻尾を振って立ち上がった。地球の酸素濃度は、通常のレベルに戻っていた。

​剛は、何が起きたのか全く分かっていない。彼はただ、達成感に満ちた顔で、自分の肺に語りかけていた。

「やったぞ…俺は、地球全ての空気を吸い込んだ!これで、どこまでも潜れる!」

​その日から、肺野剛は「歩く地球の酸素ボンベ」として、世界中から厳重な監視下に置かれることになった。彼が深呼吸をするたびに、国連は緊急アラートを発し、各国は国民に「呼吸を止める準備を」と呼びかける事態となった。

​剛は、いまだに海底洞窟への夢を諦めていない。そして、今日も彼は、誰にも気づかれぬよう、小さく、そっと息を吸い込む練習を続けている。そのたびに、世界中の気象衛星が、ほんのわずかな気圧の変化を感知し、戦々恐々とするのだった。

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