第8話

「よしっ!」


 空気を一転させるように、姉ちゃんがパチンと手を叩いた。


「じゃ、気分入れ替えて!この前買ってあげた誕プレ、開封式しましょ~!!」


 唐突すぎて、一瞬ついていけない俺を無視して、姉ちゃんはリビングの隅に置いてあった紙袋をずずっと引き寄せた。


「え、今?」


「今でしょ。せっかく渡しに来たんだから~」


 言いながら、紙袋の中から一つずつ取り出していく。


 ダークグレーのマフラー、白色のセーター、手袋、ニット帽。全てあの時に買ってもらったものだ。触れてみればどれもふわふわして、手馴染みもいい。さすが高いだけある。自分では手に取ろうと思っても臆してしまうものが、次々にテーブルに並べられていく。


「栞季、首まわり寒がるからさ、これ巻いとけばマシでしょ。ほらいい感じじゃん」


「うわ……やっぱこれ、めっちゃ手触りいいな」


「でしょ?絶対似合うと思って選んだんだから。ちゃんと着るんだよー?」


 姉ちゃんは俺の首に巻かれたマフラーを見て、得意げに胸を張る。


 ひとしきり並べ終えた紙袋の中を、何気なく覗き込んだ瞬間。袋の底に、見覚えのない小さな箱がひとつ、ひっそりと沈んでいるのが目に入った。


「……ん?これ、買ったっけ?」


「それはねー、サプライズ分です!」


 まるで待ってましたと言わんばかりの笑顔で、姉ちゃんが両手を合わせてにこりと微笑んだ。


 箱を取り出してみる。手のひらに収まるほどの白い箱。リボンがかけられていて、なんとなく開けるのがもったいなく感じるほど、きちんとした雰囲気だった。


「開けてみて?」


 促されるまま、そっとリボンを解き、箱の蓋を外してみると、中にはシンプルな銀のピアスが一対。飾り気のないシンプルなデザインなのに、どこか品があって、静かに光を返していた。


「この前一緒に出かけたとき、ピアスホール空いてるの見えてさ。栞季、自分のためにアクセサリーとか買わないでしょ?なんか、一個くらい持っててもいいかなって思って」


 そう言って笑う姉ちゃんの顔は、少しだけ照れているようにも見えた。


 そっと指先で、ピアスを摘む。

 金属の冷たさに、自分の鼓動だけがひときわ強く響いた。


「……ありがと。大事にする」


 かろうじてそう告げると、姉ちゃんは「でしょ~!」と、またいつもの調子で笑った。


「ね、つけてみて?」


 手を合わせて小さくせがむような声に、俺は一度だけ軽くため息をついてから、ピアスのひとつを手に取った。

テーブルの下に置いていた鏡を引っ張り出して、指先でそっとピアスを耳たぶに刺し込む。


「……どぉ?」


 鏡の中の自分に問いかけるように呟いた声に、すかさず姉ちゃんの反応が飛んできた。


「うん、似合うじゃん!」


 いつのまにかすぐそばまで来ていた姉ちゃんが、満足げに頷く。


「やっぱ栞季、顔が整ってるんだからもっとアクセつけなきゃ損だよ。シンプルなの選んだから、どんな服にも合うと思うよ?」


 嬉々としてしゃべるその横顔が、どこか誇らしげだった。まるで自分のことのように喜んでくれている、それだけで胸の奥がくすぐったくなる。


「ほめすぎ」


「事実だし?」


 鏡越しの自分を見る。

 耳元で小さく光るピアスは、思ってたより悪くない。派手すぎないその存在は、きっと姉ちゃんが“俺の性格”をよくわかってくれてるからだ。


「ありがと、ほんとに」


「うん、どういたしまして~」


 姉ちゃんは笑って、俺の頭を軽くぽんと叩いた。


 そのあとは、姉ちゃんに連れられて近くの店で外食した。いつもなら自分じゃ選ばないようなちょっと洒落たレストラン。食後のデザートまでしっかり奢ってもらって、帰りはマンションの下まで送ってもらった。


 あの日、借りた服も無事に返すことができた。


「じゃあね、また連絡してね」


 車に乗り込む前、姉ちゃんは小さく手を振って笑った。


「うん、ありがと。気をつけて」


 部屋に戻ってドアを閉めると、静けさが一気に戻ってきた。賑やかだった分、余計にそれが際立つ。


 脱いだ服をハンガーにかけ、バスルームの扉を開ける。湯船に湯を張っている間、洗面所の鏡に映った自分の顔をじっと見た。

 耳たぶには、姉ちゃんにもらったピアス。シンプルな銀が、明るい照明の下で控えめにきらめいている。


 これまでなかった重さに触れると、さっき姉ちゃんが言った言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。


「うちに住みなさい、ねぇ……」


 正直、姉と一緒に住むのは、俺にとってはメリットしかない。家賃も光熱費も、生活の面倒も。ひとりで全部抱える必要がなくなる。


 けど、それで本当にいいのか、って思う。


 俺がいたら、姉ちゃんは不便なんじゃないか。たとえば彼氏を家に呼びたい時とか、そういう自由もなくなるだろうし。


 迷惑だろって言っても、あの姉のことだし「迷惑じゃないよ」って言ってくれるだろう。でも、それが本音なのか、わからないしなぁ。


 そもそも、姉ちゃんが「この人になら預けてもいいかな」って思える人。そんな存在が、俺にできる日なんて、来るんだろうか。


 そんなことをぼんやり考えていたら、湯船が満ちたことを知らせるメロディが、機械的に空気を切り裂いた。我に返る。思ってたより、長く突っ立っていたみたいだ。


 「……ぼーっとしすぎたな」


 そう呟いて、ピアスを外す。

 丁寧に棚の上に置いて、バスルームへと足を踏み入れる。


 湯船に浸かると、全身がじんわりと緩んでいく。あたたかさが肌を包んで、冷えていた指先も、次第に柔らかくなる。はぁ、と息をついて天井を見上げる。


 最近は、ほんといろいろあった。気づけば、誰かと一緒に過ごす時間が少しずつ増えている。


 不思議だな、って思う。慣れないけど、悪くない。誰かがいるのも、案外、いいもんだなって。


 湯から上がり、シャワーで軽く流してから、体を洗いはじめる。何気なく首元に手をやった瞬間、ピリッとした痛みが走った。


「……っ」


 ボディソープの泡が、じわりと首の一点に沁みる。そこには、依織に噛まれた痕が、うっすらとまだ残っていた。


 制服を着てるときはギリギリ見えない位置だ。けど、こうして風呂に入るたびに、この痕を見るたびにあの夜の依織を、思い出す。


 逃げようとしても押さえ込まれて、身体が思うように動かなかったあの瞬間が、こうして何日経っても、傷跡と一緒に、肌に、記憶に、残っている。


「……はぁ」


 泡を流しながら、小さくため息を吐く。あのあと依織は、何事もなかったみたいな顔をして普通にしてた。俺も、酔ってたし、依織も酔ってた……だから、あれは何かの、間違いだった。そうだよな。


 指先が傷跡に触れる前に、思考を断ち切るようにシャワーを止めた。


 浴室の扉を引くと、わずかに冷えた空気が肌を撫でる。湯気がつくった世界から一歩踏み出して、いつもの静けさが戻ってくる。

 タオルで髪を拭きながら、鏡越しに目が合った自分に、苦笑いをひとつ。


 「寝よ」


 心も体も温まってるはずなのに、何かが引っかかったままだった。

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