選黙(Choosing Silence)
@konohara_jin
第一部:第1幕 沈黙の中の想い
プロローグ・第一章 置き去りの春
「私は、諦めることしかできなかった...」
――夢も、家族も、住む場所さえも。
中学を卒業したあと、私の“それまで”は一変した。
でも、それは自分で選んだわけじゃない。
ただ、仕方なく、そうするしかなかった。
私の『意志』なんて、誰にも聞かれなかったから。
「咲……お母さんとお父さん、離婚することにしたから」
「お姉ちゃんはお父さんと暮らすんだって。だから咲はお母さんと暮らすのよ」
「3月中にこの家を出るから。荷物の整理、お願いね」
「このアパート、家賃が安いの。学校は少し遠いけど、我慢してね」
「高校生になったんだから、もうバレエのことは――」
本当は、言いたいことなんて山ほどあった。
でも、口にすれば、きっと誰かが困ると思った。
だから私は、黙って受け入れた。
――姉は、自分の意志で選べたのに。
比べても仕方がないと分かっていても、
その悔しさだけは、どうしても消えなかった。
私は孤独だった。
誰にも心を開かずに、高校一年を過ごした。
気づけば、春はまた巡っていた。
でも、あの季節を“綺麗だ”と思える心は、
まだ、どこか遠くに置き去りのままだった。
第一章 届かない声、始まりの春
春の風がまだ冷たい。
制服のブレザーの袖口をぎゅっと握りしめて、立花咲は早足で校門へと向かった。
高校二年生。始業式の朝。
桜は満開を少し過ぎ、舞い落ちる花びらがアスファルトの色をやわらげている。
でも、その“綺麗だ”と思える気持ちは、まだ心の奥に眠ったままだった。
昇降口の前。咲は立ち止まり、自分の下駄箱の番号を探した。
ふと視界の端に――誰かの姿が映った。
校門のあたり、影のように静かに立っている男の子。
咲は高校に入ってから、ほぼ毎朝のように見かけていた。
名前はたしか……織原大河。
いつも一人で、周囲から少し離れた場所に立っている。
その姿が、なぜか咲の目には、自然に映った。
その日も、咲は言葉をかけることはなく、視線だけをそっと逸らす。
だけど、大河は――ほんの一瞬だけ、こちらを見た。
「……おはよう。」
咲は思わず口の中でつぶやいた。届かない声。
でも、誰かに向けて言葉を出したのは、いつぶりだろう。
昇降口の扉が開く音がして、数人の生徒が通りすぎていく。
咲は再び歩き出した。新しいクラスが、待っている。
不安と、ほんの少しの温度を胸に――。
第二章 教室のざわめき
教室のドアを開けた瞬間、咲は一歩だけ躊躇した。
変わることに、期待なんてしていなかった。
だって、諦めることしか、できなかったから。
しかし新しい教室には、春の陽射しと、ざわめきが満ちていた。
その明るさを、どこか遠いもののように感じた。
窓際の席に目をやると、すでに何人かが談笑していて、
どこかのグループが再会の挨拶で盛り上がっている。
咲はその輪に入るでもなく、静かに自分の名前を探した。
「……立花咲……ここ。」
後ろから三列目、廊下側。
目立たないけれど、窓から少し陽が差し込む。
「大丈夫、ここなら静かに過ごせる」――咲はそう思っていた。
鞄をおろし、席に座った瞬間、斜め前の席の子がふり返った。
「あ、はじめまして。立花さんだよね? 私、美園真帆。よろしくね!」
咲は一瞬、返す言葉を探した。
明るい声。でも、どこか自然で、押しつけがましくない。
「……よろしく、お願いします。」
小さな声。でも、それでも真帆はにっこりと笑った。
「立花さんって、前のクラスどこだったの? なんか、見たことある気がするなぁ~。」
咲はその質問に答えようか迷った。
けれど口を開く前に、チャイムが鳴り、教室が一斉に静かになった。
担任の朝倉先生が入ってくる。
若くて、少し緊張した様子の先生。
クラスの視線が一斉に前に向かう中、咲は横目で真帆を見た。
(この人、たぶん――)
自分と同じ「誰かとつるまなくても大丈夫なタイプ」なのかもしれない。
そんな予感が、なぜかした。
第三章 昼の光、におい、声
昼休み。
教室の窓が少しだけ開いていて、春の匂いが風に混ざって入ってくる。
咲は机の上にお弁当を出したけれど、まだ開けていなかった。
隣の席のグループが笑いながらスマホをのぞき込み、
廊下側では男子たちが何かを賭けてじゃんけんしている。
そのざわめきの中で、咲は音を立てないように息を吸った。
「ねえ、立花さん。一緒に食べてもいい?」
振り向くと、さっき話しかけてきた美園真帆が、お昼ご飯を持って立っていた。
「え、あの……」
「一人で食べるの、慣れてないんだよね。だから、もし迷惑じゃなかったら。」
笑顔。でもどこか、ほんの少しだけ無理をしているような。
咲は、断る理由を探しかけたが、思いとどまった。
「……うん。いいよ。」
それは、自分でも少し意外な返事だった。
真帆は向かいの机に寄り添うように座った。
紙袋から取り出したのは、パンと紙パックのカフェオレ。
「お弁当作るの苦手なんだよね~。って言っても、作ってくれる人いないんだけどさ。」
サラッと言って笑うその表情の奥に、少しだけ空気の揺らぎを感じる。
咲は、黙ったままお弁当のふたを開けた。
「わあ、美味しそう。……立花さんって、自分で作ってるの?」
「うん、まあ。簡単なやつ。」
「凄いなあ~。私ほんと、料理とか無理。お米、固く炊けるタイプだもん。」
咲は、ふっと笑ってしまいそうになったが、それを抑えた。
「……美園さんって、にぎやかな子だと思ってた。」
「でしょ? よく言われる。でもね、そうでもないよ、ほんとは。」
その言葉は不思議と響いた。
咲は、その「ほんとは」に少しだけ興味を持った。
「私ね、仲良くなるの、ゆっくりでも大丈夫なタイプだから。」
真帆はパンをちぎりながら、まるでひとりごとのように言った。
咲は、その言葉に何かを掴まれるような気がして、そっと目を伏せた。
「……ありがとう。」
短く、それだけ。
けれど、教室の中で初めて、咲の心の温度が少しだけ上がった。
第四章 静けさの通り道
放課後のチャイムが鳴ったあと、教室の中にはしばらく賑やかな声が残っていた。
誰かが黒板に落書きをしながら笑っている。
廊下からは部活のかけ声が響いてくる。
咲は、机の中にプリントをしまいながら、
自分がそのざわめきの中に溶け込めないことを感じていた。
でも、今日は少し違った。
真帆が「じゃあね立花さん、また明日」と声をかけてくれた。
それだけで、肩の力が少し抜けた気がした。
(帰ろう)
鞄を持って教室を出た咲は、昇降口に向かって歩いた。
けれど途中、ふと思い出した。
(ノート……机の中に入れっぱなしだった)
引き返そうと階段を折り返したとき――
ちょうど下の階から上がってきた誰かと、視線がぶつかった。
「……」
それは織原大河だった。
今日もまた、ひとりで、静かに歩いている。
目が合った。けれど、すぐには視線を逸らさなかった。
咲が立ち止まると、大河も足を止めた。
彼は一瞬だけ視線を下に落とし、それから言った。
「……忘れ物?」
「うん、ノート。机の中に……。」
しばらくして、大河がふと口を開いた。
「……今日、昼、楽しそうだったね。」
「え?」
「正面にいたの、美園さんだよね。中学でクラス一緒だったから」
咲は少し驚いた。
彼がそんな風に話すなんて、思ってもみなかった。
それだけの言葉なのに、胸の奥が少しだけざわついた。
どこにひっかかったのか、自分でもよく分からない。
「……見てたの?」
「うん。廊下を通ったとき、なんとなく視線を向けたら立花さん、笑ってた。……。」
その言葉に、咲は目を伏せた。
自分が笑っていたことに、気づいていなかった。
「……そっか。……私、笑ってたんだ。」
大河は階段の手すりに手を置き、窓の外を見た。
夕方の光が彼の横顔を柔らかく照らす。
そして、ぽつりと――
「また、笑える日が来るといいね。」
それだけ言って、大河はふたたび階段を上っていった。
咲はその背中を見送りながら、胸の奥がほんのりと熱くなるのを感じた。
(……あの人、やっぱり変わってる)
だけど、悪い意味ではなかった。
むしろ、どこか懐かしいような。
「……また、会えるかな。」
小さな声が、廊下に吸い込まれていった。
第五章 足音の記憶
四月の終わり。
新しいクラスが始まってから三週間ほど経った頃、咲はずっと、空気のように教室を漂っていた。
誰とも目を合わせず、会話も交わさず、ただ静かに席に座っていた。
……ただ、真帆だけは少し違った。
「お昼、一緒に食べよ」
そんなふうに、気負いのない声で時々話しかけてくれる。
咲はうまく返事ができないまま、
それでも昼休みには、教室の隅の小さな机にふたり並んでお弁当を開いていた。
会話は多くないけれど、真帆がそばにいると、教室のざわめきが少しだけ遠くなる気がした。
それが少しずつ変わり始めたのは、ゴールデンウィークを過ぎたころからだった。
教室の空気が馴染みはじめて、誰かの名前を呼ぶ声や、笑い声が少しずつ身近に響くようになってきた。
咲も、時々なら笑えるようになってきた。
けれど、まだ輪の中には入れなかった。
校舎の裏にある並木が、新緑に染まる頃。
咲はひとり、図書室からの帰り道、正門とは反対の通路を歩いていた。
誰もいない廊下に、遠くから聞こえてくる軽い足音が響く。
トン、トン――と、床をたたくようなリズム。
それは、誰かが体育館で練習している音だった。
その音に、咲の足が止まった。
(この音……)
思い出す。
バレエシューズが床を擦る音。
鏡張りの稽古場。
朝焼けのようなライトの下で、何度も何度もターンを繰り返したこと。
そして――母の笑顔。
「咲、すごいわ……あなた、本当にきれい。」
けれど、あれはもう一年も前のこと。
親の離婚が決まった日、稽古場に行くことをやめた。
(お月謝、もう払えないのよ)
母はそう言って、申し訳なさそうに笑った。
そのときの母の顔が、何よりつらかった。
だから咲は、「いいよ」と言った。
「もうやめようと思ってたから」と、嘘をついて。
バレエをやめた日、トウシューズをしまった引き出しはまだ、そのままだ。
(見ないようにしてるだけ、なんだよね)
バレエをやめたあの日から、咲はずっと、一人きりで舞台を降りたままだった。
そのとき――風が吹いた。
5月の、くすぐったいような、やさしい風。
並木の枝からこぼれた小さな花びらが、ふわりと咲の髪に舞い降りた。
彼女はそっとそれを指でつまみ、ため息をひとつだけ吐いた。
「……また踊りたいなんて、思っちゃダメでしょ」
それは、自分自身への言い聞かせみたいだった。
その声は、誰にも聞かれないように、そっと地面に消えていった。
咲は足元の花びらを見つめたまま、もう一度だけ、体育館の方を振り返った。
遠くで続く足音は、まだリズムを刻み続けている。
第六章 傷ついたものが、結ぶもの
五月の夕方、帰り道の空気が少しひんやりしはじめた頃。
咲は、帰宅途中に立ち寄った小さな公園で、古びた時計台のそばのベンチの下に目をとめた。
そこには、段ボール箱がひっそりと置かれていて、咲は思わずしゃがみこんだ。
小さな段ボールの中に、震える三毛猫がうずくまっている。
目が合うたび、小さく『ミィ』と鳴く。
その声が、胸にひっかかった。
――どうしよう。
通り過ぎようとしたはずなのに、気づけば足が止まっていた。
助けたい。でも、うちでは飼えない。
アパートはペット禁止だし、母は猫アレルギー。
手を差し伸べることもできず、ただじっと見つめていた。
「……どうした?」
不意に、背後から静かな声が届く。
咲は、びくっとして振り返る。織原大河だった。
その瞳が、自分じゃなくて――段ボールの中の猫を見ていた。
「この子、たぶん捨てられてる……」
咲はそう言って、視線を落とす。
大河は少しの間だけ黙っていたけれど、しゃがみ込んで猫に目線を合わせた。
「……猫、好きなんだな」
彼の言葉に、咲は小さく頷く。
「うん……昔は飼ってた。でも、今の家じゃ無理」
そう答える声が、自分でも驚くほど弱かった。
「諦めるしかないんだよね……こういうことって……。」
咲は、言葉を落としたあと、小さく息を吐いた。
風がそっと頬をかすめる。
大河はしばらく猫を見つめたあと、静かに言った。
「……俺が、引き取るよ」
その一言に、咲は思わず、大河の顔を見た。
「え……いいの?」
戸惑いながら尋ねると、大河は小さく頷いた。
「家にもう一匹いる。ケンカしなきゃ、大丈夫だろ」
段ボールをそっと持ち上げる彼の横顔が、いつもより優しく見えた。
咲は少しだけ笑った。
自分でも、それが久しぶりだと気づいた。
ふたりの足が自然と歩き出す。
でも、数歩進んだところで咲がふと思い出したように立ち止まる。
「……あ、そういえば名前。私、“立花咲”っていうの。……えっと、咲って呼んで」
少しだけ照れたように、でも真っ直ぐに彼を見る。
大河は短く頷いて、言葉を返す。
「……織原大河。じゃあ、また」
どこか照れくさそうに視線をそらしながら、彼は猫を抱えたまま歩き出す。
咲も小さく頷いて、その背を追いかけるように歩き出した。
咲は、大河の背中をぼんやりと見つめた。
あの猫だけじゃなく、私自身も、ほんの少し救われた気がした。
胸の奥で、小さな何かが確かに芽生えた気がしていた。
「……ありがとう。」
その言葉は、夕暮れの空に溶けていった。
第七章 見られていた手
木曜日の放課後、空は少し曇っていた。
咲は職員室に提出物を出した帰り、昇降口へ向かう途中で、また彼とすれ違った。
織原大河。
その日は、誰かを待っているように壁にもたれていた。
制服のポケットに手を入れ、うつむきがちに視線を落としている。
「……あ。」
咲が小さく声を漏らすと、大河がゆっくり顔を上げた。
「……立花さん?」
「……うん。さっき、職員室行ってて……」
ぎこちない会話。
でも、逃げようとは思わなかった。
「……昨日はありがとう。おうちの猫とは大丈夫だった?」
大河は少し照れたように視線を逸らしながら答えた。
「うん、大丈夫だった」
「名前はつけたの?」
「二葉にした。おでこの模様が双葉みたいな形だったから…」
「なるほど、ぴったりだね」
咲は、猫を思い浮かべながら微笑んだ。
大河は咲の手元をふと見つめる。
その視線の先には、咲が無意識に握りしめていた、薄く折れた小さな紙の端。
それは、図書室でもらったバレエのポスターの一部だった。
その紙は、咲が「偶然もらったもの」――でも、どうしても捨てられなかった。
「……それ、何?」
大河がゆっくり聞いた。
咲は咄嗟に隠そうとする。
でも、彼は追及しない。
「……ごめん、なんか、苦しそうな顔してたから。」
咲はドキッとした。
苦しそう――なんて、言われたのは初めてだった。
「……別に……なんでもないよ。」
そう言ったけど、自分でも言葉が浮いているのがわかった。
大河はしばらく黙っていた。
でも、ただ静かに隣に立ってくれていた。
しばらく黙っていた大河が、ゆっくりと視線を咲へ向けた。
そのあと、小さな声で――
「……昔、何かやってた?」
その声は、真帆に言われたときより、もっと静かで、もっと深く届いた。
咲は言葉に詰まったまま、答えなかった。
だけど、大河はそれ以上何も聞かなかった。
代わりに、小さく微笑んだ。
「……じゃあ、また明日。」
そう言って、彼はゆっくり昇降口を出ていった。
咲はしばらくその背中を見送っていた。
手の中の紙が、少しだけ柔らかく感じた。
第八章 冷たい声、ぬくもりの下に
夜。
咲はキッチンのテーブルにノートを広げていた。
バイト帰りの母が、いつものように静かに帰宅する音が聞こえる。
「ただいま……」
「おかえり」
互いに目を合わせず、交わすだけの言葉。
母は台所に立ち、咲の好きな野菜スープを温め始めた。
けれど咲はそれに気づかないふりをした。
「……もう、食べたから」
母の手が止まった。
「そっか。……早いのね、今日は。」
その声が、どこか寂しげに響いた。
その空気に、咲の胸が少しだけ締めつけられた。
(……どうしてだろう。話しかけられるのが、つらい)
沈黙が流れる中、母がぽつりとつぶやく。
「……この間、郵便でバレエ教室の案内届いてたわよ」
咲の手が止まる。
そして、思わず顔を上げる。
「……捨てたでしょ」
「まだ捨ててないわ。取ってあるだけ」
「もう、やめたんだから。見たくもないよ」
その声に、母の表情がこわばった。
「……あんた、そんな言い方しなくても……」
「だって、そうでしょ? もうバレエなんて――関係ないじゃん」
咲はそう言って立ち上がった。
自分でも、どうしてこんなに尖った言い方をしてしまうのかわからなかった。
母はなにも言わず、スープを火から下ろしていた。
湯気が小さく揺れて、部屋の静けさを埋めていた。
咲は部屋に戻り、ドアをそっと閉めた。
机の上の古い写真立てが目に入る。
バレエの衣装を着て、笑っている自分と、隣にいる母の笑顔。
(……お母さんだって、本当は一番応援してくれてたのに)
咲の胸が、じんわりと痛くなった。
第九章 ふたりきりの音
金曜日の放課後。
空はほんのり茜色。校舎の影が長く伸びる。
咲は、図書室の窓際の席にいた。
誰もいない静かな時間。
いつものようにノートを広げ、勉強しているふりをしていた。
けれど、心はどこか上の空だった。
(昨日、あんな言い方しなきゃよかった……)
ふと、小さな足音が近づく。
顔を上げると、大河が数冊の本を抱えて歩いてきた。
「あ……」
思わず声が漏れる。
彼も気づいたようで、ほんの少し驚いた顔をしてから、静かに微笑んだ。
「また会ったね」
「……うん」
それだけのやりとり。
でも、咲の心にほんのり火が灯る。
大河は咲の少し離れた席に腰を下ろした。
机に本を広げ、静かにページをめくっている。
しばらくして、咲の方がふと口を開いた。
「……昨日、お母さんとちょっとケンカしちゃって」
その言葉は、意図せずこぼれた。
大河は手を止めて、ゆっくりと咲の方を見た。
驚いた様子はなく、ただ静かに聞いてくれている。
「……あたし、全然素直じゃないの。
言いたくないのに、言っちゃいけないことばっか言って……」
「……俺も、よくあるよ」
「え?」
「口下手だからさ。黙ってる方がいいって思って……
でも、あとで後悔するんだよね。何も伝わらなかったなって」
咲はその言葉に、思わず小さく笑った。
「……そんなふうに見えない」
「よく言われる。でも、案外みんな、言葉が足りないまま生きてるんじゃないかな」
そう言って、大河は視線を窓の外に向けた。
春の風がカーテンを揺らす。
咲はそっと視線を落としたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……バレエ、またやりたいって思ってる。
でも、そんなこと言ったら、また泣いちゃいそうで……」
「言ってもいいと思うよ」
大河の声は、まっすぐで優しかった。
咲はそのとき初めて、大河に「何も聞かずに受け止めてくれる人」の顔を見た気がした。
何も話さなくてもいい。
でも、そばにいてくれるだけで、ちょっと楽になる。
そんな誰かが、咲の世界にいるということ。
第十章 あの子のこと
夕方。
大河は近くのスーパーで、頼まれた買い物を終えたところだった。
エコバッグを片手に自転車を停め、ふと空を見上げる。
そのとき――
「すみません、それ……落としましたよ」
声をかけてきたのは、優しそうな女性だった。
エコバッグの中からこぼれ落ちたネギを拾って、手渡してくれる。
「あ、ありがとうございます」
大河が受け取ると、女性はにこっと笑った。
制服の襟元と学年章を見たのだろうか、女性は少し首をかしげて言った。
「……2年生? もしかして……咲のお友達?」
「え……あ、はい。立花さんは隣のクラスで……たまに話すくらい、ですけど」
大河は少し驚きながらも、素直に答えた。
(あ……似てる。立花さんに……)
目元や、笑ったときの口元。
その優しさが、どこか咲と重なって見えた。
女性は、ふっと小さくうなずき、少し安心したように微笑んだ。
「そう……あの子、自分からあんまり話そうとしないの。
だから、誰かが声をかけてくれてるなら、それだけで……うれしくて」
その言葉に、大河は一瞬、胸の奥が温かくなるのを感じた。
咲がどれだけ強がっていても、家ではちゃんと心配されていること。
そのまなざしを目の当たりにして、彼は自然と口を開いた。
「咲さん……すごく頑張ってると思います。
無理してる感じ、伝わってくるけど、それでも毎日ちゃんと……来てる」
母親の目が、少し潤んだ気がした。
「……ありがとう」
それは、母としての、素直な感謝だった。
しばらくして、母親は小さく頭を下げた。
「……よかったら、これからも……あの子のこと、少しだけ気にしてあげてくださいね」
「はい」
そう答えた大河の声は、いつもよりはっきりしていた。
二人はそれぞれ、別の方向へと歩き出した。
だけど――咲を想うふたつの気持ちが、静かに重なったような午後だった。
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