蓮の花の上で踊って

佐渡 寛臣

蓮の花の上で踊って

 記憶の中の彼女は孤独を厭わない少女であった。休み時間も一人で小説の頁を捲り、過ごす。夏の風が揺らすカーテンに見向きもしないで、彼女はただ静かに本に目を向けていた。

 サッカー少年だった私はつまらないものを見るようにふんと鼻を鳴らして中学の校庭へと駆けていったことを今でも覚えている。

 ボールが高く蹴り上げられた。私はそれを見送ると、視線の先、教室の窓辺からカーテン越しに彼女が見えた。あの日からずっと、私の心は彼女の横顔に釘付けとなってしまっていた。


 細い枯れ木のような自分の手を眺める。あれから時が過ぎ、すっかりと老人になってしまった私は独り、祭りで賑わう神社の片隅でパイプ椅子に腰かけて、一休みをしていた。孫たちは娘たちと屋台を回っているのだという。ちんどんと聞こえる祭囃子に耳を傾け、いつまで経っても懐かしさを感じるこの空気に一人微笑む。色とりどり装飾された屋台が立ち並び、小学生やら中学生やらの集団が、あちらこちらで楽しそうに遊びに興じる姿が見える。その姿が昔の自分に重なって思い出される。


 子どもの頃、友人と集まり、屋台を回ったものだ。べったりと汗をかきながらうるさく鳴く蝉の声をかき消すぐらいに大はしゃぎをして、走り回っていた。誰かが、かくれんぼでもしようと言いだして、私は境内の裏で息を潜めた。しんと湿り気を帯びた空気に祭りの喧騒はどこか遠くに行ってしまったみたいになったのを、今でも覚えている。


 そんなことを思い返していると、ふと懐かしくなって私は座っていたパイプ椅子から重い腰を上げた。神社の境内へと向かい、おみくじを引くための行列を横目に、賑やかな祭りを避けるように境内の裏側へ回った。そこは記憶の通り、湿った空気に包まれて、しんと静まり返っていた。

 昔と同じように腰を下ろしてみる。目を閉じると、あの日のことが鮮明に思い出される。




 あの日、あの時、彼女が来たのだ。かくれんぼではない、静かな場所を探していたら辿り着いたらしかった。


「隠れてんだ。あっちいけよ」


 私がそう言っても、彼女は表情1つ変えずに勝手に人一人分くらいの距離を開けて座った。


「なにしてんだよ。あっちいけよ」

「声をだしたら見つかるわよ」

「う……」


 これで見つかったらつまらない。そう思って私は仕方なく黙ることにした。気まずい沈黙が流れ、私はちらりと彼女の横顔を眺めた。学校で見たときと変わらぬ無表情の横顔。彼女――岩城蓮子はにこりともしない少女であった。何とも付き合いづらい相手が隣に来たものだと、私は居心地の悪さを感じていた。

 そんな私の気持ちなど気にも留めず、岩城は鞄から本を取り出してみるものの、周囲の暗さに目を細めた。


「こんなところで本読んだら、目、悪くするぞ」


 眉をひそめて、そっと本を片付ける。退屈そうにため息を吐いた。そんな表情すらもほとんど変わらず、岩城はぼんやりと遠くを眺めた。心配をしてやったというのに、岩城はこちらをちらりとも見ない。自分ばかりが岩城を気にしているようで、私は何とも言えない嫌な気持ちでいた。


 無視されているような、そんな気持ち。私はかくれんぼなんてそっちのけで、岩城と話ができないか試してみることした。それは遊びの延長だった。表情ひとつ変えない岩城から何か感情の1つでも引き出せないものかと、そんな悪戯心が芽生えたのだ。


「――岩城、本ばっか読んでるよな」

「……」

「そんなんだから友だちできねえんじゃねぇの」

「……」


 悪態をついても岩城は答えず、反応せずにその能面のように変化のない顔でこちらを見ようともしない。


「――今日のお祭りだって、お前誰にも誘われてないんじゃねぇの?」

「……そうね。誘われてなんてないわ。気まぐれに様子を見に来ただけだもの」


 そういってぷいとそっぽを向く。表情は変わらないが、その態度はつっけんどんとしている。多少なりとも反応を見れたことに、しめしめと私は笑った。が、しかしそこで疑問が浮かぶ。一人ぶらりと来たのなら、なぜこんなところに隠れるようにしているのか。

 制服ではない、シャツにショートパンツというラフな格好は普段の岩城からは想像できない姿だった。私はなんとなく疑問をぶつけることに躊躇いを覚え、言葉に詰まる。

 そうしてしばしの沈黙のあとに出た他愛のない話題がこうだった。


「どんな本読んでんだ?」

「どんなって…………聞きたいの?」


 本当は興味なんてまるでなかった。本を読む趣味ももちろんなかったし、これから読もうとも別に思ってもいない。単なるつなぎの話題だった。


「まぁ、多少は?」


 ふぅ、と岩城は吐息を零してから、話し始めた。


「これは蓮の花の妖精の話」

「蓮の花?」


 私は花のことなどまるで知識がなく、その花がどんな形なのかも想像できなかった。


「水辺に咲く花。こうたまごみたいな蕾をつけて、パッと開くのよ。こんな感じに」


 岩城は手でたまごを作るみたいにしてパッと開かせて見せる。ふぅん、岩城の作った手のひらの花を眺める。白く細い指先が花弁一枚一枚に見えて、それはどこか美しく思えた。

 どきりとした。私は高鳴る心臓に気づかないふりをして岩城の話を聞いていた。


 蓮の花の妖精は、卵のような蕾から出ていくのが怖くて仕方がなかった。そこへ蜂の王子様が現れて、踊りに誘う。そんな他愛もない話なのだという。


「なんかファンシーだな」

「児童向けの童話だからね」


 あの時、岩城は何を思って話してくれたのだろう。淡々と話す岩城はそんな話をしながらやはりどこか遠くを見つめているようだった。


 そこへ女子の声が聞こえてきた。女子経由で居場所を知られるわけにはいかないと、私は息を潜めた。

 お参りにきたのだろう、聞き覚えのあるクラスメイトたちの声が近づいてくる。岩城もじっと口元を手で隠して身を小さくしていた。


「で、誰か岩子のこと誘わなかったの?」


 岩子……とは岩城のあだ名であった。本人の前では言われない、これは蔑称であった。


「誰が誘うのよ。あんなネクラ」

「えー、私、声かけたよ?」


 岩城の体がびくりと動いた。


「じゃあ断られたの?」

「違う違う。別の公園集合場所にしといたの」


 ギャハハ、と女たちの笑い声が響いた。その声が遠ざかり、岩城はふぅと息を吐いた。


「岩城…………」

「時間になっても誰も来なかったから。鉢合わせるのも気まずいでしょ。帰っても良かったんだけど……」


 バツ悪そうに岩城は俯き、首の後ろを掻いた。


「家にいるよりはマシだから」

「マシって……」


 当時の私には岩城の事情などまるでわからなかった。私の家は裕福とまでは行かずとも、普通の家庭であったし、働き者の父と気の強い母、バカだけど明るい弟に囲まれた笑いの絶えない家。それが一般的などこにでもある、誰も彼も貧富の差はあれど、同じようなものだと思っていた。


 だからクラスメイトに仲間はずれにされることの方がマシというのが、理解できなかった。


「それに、あんなことをするほうが心がさもしいのよ。だから私は悔しくなんてこれっぽっちもないのよ」


 顔を上げて岩城はそう言い切った。笑顔もこぼさないけれど、涙もひとつもこぼさない岩城の瞳は凛として力強く思えた。


 その時、私はなんの言葉もかけられなかったし、何より岩城の強さを見た気でいた。今にして思えばそれは強がりで、そう言って心を立たせていた。そうしていなければ、今にも崩れそうな危ういバランスでいることに当時の私は気付けないでいた。


「ちょっと待ってろ」


 私はそう言い残して屋台へと走った。母から与えられた小銭を握りしめていた。なぜそうしたのかはわからない。けれどこの祭りをあんな物悲しいことで終わらせたくなかったのだ。

 屋台で二つ綿飴を買い、元の場所に戻ると、岩城はきょとんとした顔をしていた。


「んっ! やる! じゃあな」


 返事も待たず、顔も見ずに岩城に綿飴を押し付けて私は祭りを後にした。顔から火が出るようなくらい熱く、途中で出くわしたクラスメイトに適当な言い訳をして家へと逃げ帰り、布団へと飛び込んだ。


 それから、何が変わるわけでもなく、岩城は相変わらず能面みたいな表情で過ごし、私も彼女に話しかけることはなかった。クラスで浮いている女子と、お調子者の自分の接点は結局あの日の祭りのときだけに終わった。


 そうして一年が過ぎた頃、岩城は転校した。両親が離婚したのだと風の噂で耳にした。




 今にして思えば、岩城蓮子は蓮の花の妖精だった。小さな卵の中から世界を見て、怯えているだけの少女だった。

 能面のようなその顔は、彼女が自分を守るために作った卵の殻だったのだ。


 皺だらけになった手のひらを見つめる。あの日、あの時岩城の手を引いてやれたら。そんなことを時折考える。

 蓮の花の妖精を連れ出した蜂の王子のように。あの細く白い手を取って、祭りへと連れ出していれば。


 捲れる白いカーテンの向こう側、校庭ではしゃぐ私たちを見て、一人頬をつねって悲しげにしていた彼女の支えになれたのではないだろうか。

 目を瞑り、静かに呼吸する。祭囃子は遠ざかり、私の体はあの日の私と重なっていく。


「蓮子さん……」


 名を呼ぶ。何度も呼んだその名前。もう返ってくることはないけれど、私は心の中で何度も呼んだ。

 その時だった。


「――どうしたのよ。あなた」

 

 響くような声。しわくちゃの老婆がひょっこりと、顔を出した。私に近づくほどに、その姿は若返っていく。白髪は黒く変わり、すらっとした背丈に、ウェディングドレス、再会したときの大学生の姿を経て、中学時代の彼女が私の前に立った。


 これは夢だろう。私はきっとこの泡沫うたかたのごとき夢の中に揺られているのだろう。


「ずっと心残りだったんだ。あの日君を連れ出さなかったことが。こんな暗いところに、一人残してしまったことが」

「――いいじゃない。あの時はあれが二人の精一杯だったんだもの」


 あの日見せなかった微笑みを彼女は浮かべる。私の身体もいつの間にか中学生の、あの頃の姿へと変わっていた。


「それでも君が抱えた心の傷を思うとどうにもやるせない気持ちになる」

「――だけどもう一度出会ってくれて、それからずっと私を支えてくれたじゃない。私、とても幸せだったのよ」


 それでも。そう言いかける私の口元に、彼女は人差し指を立ててみせた。

 気が付くと、辺りは蓮の葉の浮かぶ水面の上に立っていた。見渡す限りの湖に、一面の蓮の葉。そこから伸びる卵のような蓮の蕾が色を飾っていた。


 蓮子の目の前のひと際大きな蕾が花開く。光の粒がきらめくように月の光を反射する。蓮子は蓮の花の上に乗って、私を手招いた。


「物語の最後は、踊りで締めくくるのよ」


 私は蓮子の手を取って、蓮の花の上に登る。輝く花の上で、私はぎこちなくステップを踏み、腰に手を添え、くるりと回った。




 目を開けると、見慣れた天井があった。首を傾けて、部屋の片隅に視線をやると、仏壇の傍に蓮子の写真が飾ってある。


「――お父さん、起きた? こんな時間まで寝てるなんて珍しい。お祭りに疲れちゃったかしら」

「あぁ。今しがた起きたところだよ。ちょっといい夢をみていたんだ」

「あら、よかったじゃない。――さ、子どもたちはみんな学校行ったし、朝ごはんいただきましょうか」


 身体を起こして、ベッドから足を下ろし、大きなあくびを漏らす。そうしてそっと静かに仏前に座って、鈴をひとつ鳴らして手を合わせた。目を瞑り、音の響く間、ずっと蓮子の姿を思い浮かべた。


「久しぶりに会いに来てくれてありがとうなぁ。まだそっちには行けないから、次に会うまで随分待たせるかもしれないけれど」


 閉じた瞳の片隅で、蓮の花がりんと静かに揺れた気がした。


「――お父さん、ご飯、冷めちゃうよ」

「あぁ、はいはい。わかりましたよ」


 食卓へ向かう途中、窓から真っ青な空が見えた。青空の向こう側を見るように、私は目を細めて微笑む。


「――なぁ、どこかで社交ダンスなんて習えないものかな」

「やだ。よぼよぼのおじいさんが躍るの?」

「ちょっとは踊れるようになっておきたくってね……」

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蓮の花の上で踊って 佐渡 寛臣 @wanco168

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