第21話 河野洋平という漢
一行がル・マンを観光していたその頃、日本国内では、ある重大なプロジェクトの進行が急がれていた。
それは、富士スピードウェイ完成である。
この世界では、史実よりも早く日本初の公式サーキットとして鈴鹿サーキットが誕生し(昭和34年)、更に当時公式扱いではなかったものの、事実上日本初のサーキットと解釈する向きもある鈴ケ峰テストコース(昭和28年)もあった。
富士スピードウェイの建設構想は、世界初のパーマネントサーキットとして知られるブルックランズに触発され、既に戦前にはあった。だが、時代が悪すぎ、戦争で一時計画は凍結。そして、再び構想が浮上したのは、戦後10年が経過した、昭和30年のこと。
日本では、戦前から国策産業として特定企業に自動車の開発生産を促していた。元より機械化を企図していた軍の関与した計画であったが、トヨダAA型、ダットサンフェートンといった、いくつかの成果も生み出している。
戦後、富士スピードウェイ構想自体は戦時中も燻り続けていたのだが、昭和30年になって本格化したのは、ある理由からだった。
それは、この年トヨペットクラウンが誕生したのだが、日本国内では満足いくレベルであったものの、国際的な自動車の性能及び道路事情を知る一部の者からは、決して満足のいくものではなかった。
これでは、世界ではとても通用しないと。
そう考えていた政治家の一人に、当時鳩山一郎内閣で農林大臣を務めていた河野一郎がいた。購入したトヨペット・クラウンを確かに意欲作且つ一定の及第点に達したと認めていた一方、これの輸出計画を聞いた時にはトヨタに抗議しに行ったという。
そして、彼の危惧は的中してしまった。
世界水準を超える自動車が作れなければ、我が国は欧米に呑み込まれる。その危機感から、彼は日本の二輪産業が既に世界を向いていたのに刺激される形で、富士スピードウェイ構想を本格的に浮上させることを独断で決めた。
この頃、アメリカ人のドン・ニコルズが日本でレーシングカーや関連パーツを輸入販売する事業をしており、まだ軍籍の傍ら、NASCARの日本版構想を計画していたのだが、そこへ富士スピードウェイ建設計画を知ると、そこに参画している。
日本側としても、海外レース事情に詳しい彼とのコネ及びアドバイスは有意義として彼の計画参加には賛成であった。
最終的にこの参画は取りやめとなるが、彼自身はその後もビジネスは大いに成功を収め昭和43年まで日本に留まり、日本のモータースポーツ発展に大きく貢献した一人として忘れる訳にはいかない。
河野一郎は、老獪且つ時局を読むことには非常に長けていた。彼の打つ手は早く、知己の総合商社丸紅や、更に三菱地所などにも声を掛け、参画を呼び掛けていた。後にこれが大きく功を奏する。
尚、富士スピードウェイは当初から国策と結びついていた政治的産物であり、戦後の自動車産業の発展を促すのが目的であるならば、性能向上という意味では高速サーキットとなるのは必然であったと言えよう。
最高速度を確認する場としては既に谷田部があったが、純粋に性能を確かめることと、レースの中での性能向上では、その意味が大きく異なる。
こうして、様々な後ろ盾を得て、富士スピードウェイ建設が始まったのが、昭和32年。しかし、その工事は予想以上に大規模なものとなった。
当初オーバルをベースにしたコースの予定だったが、招聘したF1ドライバーのスターリング・モスをして、『こんな場所でそれはナンセンスだ、寧ろ高速テクニカルにすべきだろう』とアドバイスしており、全面的には採用されなかったが、コースレイアウトを検討するにあたっては大いに参考とされている。
確保した用地でそのまま建設は不可能であり、二つの尾根を切り崩し、三つの谷を埋めるという造成工事だけでも難事業であった。移動した土砂の量は実に300万㎥に上ったという。
また、建設にあたり、最大の難問が待ち構えていた。そう、30度バンクをどのように造成すべきか。
この時、建設計画の指揮は、河野一郎から一人の息子にバトンタッチしていた。それが、当時まだ大学生の身であった河野洋平である。
慰安婦問題や河野談話などで国内からの評価は低いが、日本の自動車産業及びモータースポーツ発展に多大な貢献をした恩人であることをなかったことにする訳にはいくまい。
建設開始当時、洋平はまだ20歳だったが、モータースポーツに対する知見は高く、高校時代から何度か短期留学の折、主に欧州のサーキットを訪ね歩いている。それは父一郎の命を受けていた。
彼はFIAなども密かに訪れており、その際主要サーキットの建設及び施工データなどを頭に叩き込み、これが富士スピードウェイ建設にも大いに参考となっていることは、あまり知られていない。
また、宍戸重工を訪れ、鈴が峰テストコースのサンプルや図面、施工データなども提供してもらっている。
そして、30度バンクについて、どう施工すべきか誰もが悩んでいたところへ、洋平が一言添えた。
『それなら、アブスが参考になる』
洋平は大学生時、経済学部に籍を置いていたものの、地質にも詳しく、当初オートレース場のように地盤に杭を打つ予定だった。そうすれば地盤が固まるので、将来バンクが劣化して舗装面が沈降して不規則な起伏が生じるリスクが減る。
しかし、富士の地質は不安定であり、杭を打つ過程で地殻変動を引き起こしかねないとアドバイスし、それならアヴスと同じ構造のバンクにすべきだと主張したのだ。
アブスはベルリン南西にあるサーキットで、全長はおよそ9㎞。二本のストレートが近接し、且つヘアピンで結んでいるという非常にシンプルなコースであった。
そのバンクは43度もあり、レンガを敷き詰めた上で徹底して研磨するという非常に手間の掛かる方式だった。1913年に着工、途中第一次大戦や資金難もあって完成したのは1921年 (大正10年)とはいえ、このバンク造成も完成に手間取った原因なのは間違いない。
43度にも及ぶそのバンクは別名死のバンクとも呼ばれ、実際多くの事故が発生している。それでもレースは幾度となく開催され、その役目を終えたのは1999年 (平成11年)のことである。
その構造を検討した結果、行けそうだとなり、史実とは異なる構造で30度バンクが建設された。尚、このバンクの造成だけで一年を費やし、更にバンク部分の建設費用は当初の倍に膨れ上がった。
だが、このバンクのお陰で富士スピードウェイは世界屈指のサーキットへと成長していくことになる。
この間、洋平は丸紅にも出入りしつつ基盤を整え、父一郎も自分への万一の事態を見越して様々な銀行や企業を回り、政界にも働きかけていたのだが、洋平の大学生とは思えぬ機動力もまた圧巻だった。
父の後ろ盾も功を奏したとはいえ、一先ず完工を間近に控えた昭和35年初頭には、運営会社としてフジ・インターナショナル・スピードウェイ・カンパニー、『FISCO』設立まで漕ぎつける。
こうして昭和35年3月。まだ一部は未完成の状態で富士スピードウェイがオープンし、こけら落としとして日本ツーリングカーレースが開催される。後のJAFGPの前身とも言えよう。
戦後日本に於ける本格的な四輪レースは予想以上の観客を集め大成功となった。懸念された30度バンクも、レースを盛り上げるのに大いに貢献した。
しかし、これで満足する洋平ではなかった。
彼は密かに欧州へ飛び、FIA及びACOを訪問したのである。件のレースの映像を見せつつ、国際レース招聘に奔走したのであった。
余談ながら、この独断専行とも言える行為が、後に通産省の顰蹙を買い、元より父はその個性のキツさから敵も多かったことも災いし、この頃から体調を崩しがちだったのもあり、彼の影響力低下にも繋がる事態をも招くこととなる。
そして、昭和40年、父の死去とそれに伴う二年後の政界入り以降、大いに苦労するハメになった。自民党総裁で総理大臣とならなかったのは、現時点で彼と谷垣禎一だけであるが、一部の関係者からは、FISCOの呪いだと噂されることに。
尚、史実と異なり、洋平は政界入りした後もFISCOに籍を置いていた。それでも総裁まで上り詰めているため、単なるやっかみに過ぎないと一蹴している。
また、富士関連のイベントには、必ず顔を見せてもいる。
そして昭和36年6月。まだ大学を卒業したばかりで24歳の洋平は、一路フランスへと向かった……
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