物書きのすゝめ

氷野 陽馬

創作四要素論

小説を書きたいが、書くなら自分が納得できる完成度で出したいという思いも抱えていて、定期的に書いては消すことを繰り返す悲しい所業を繰り返してはいないだろうか。私もそのうちの一人である。そこで、「とっ散らかっていない」という意味でまとまりのある、自然にすらすらと読めるような小説を書くにはどんなことを意識すれば良いかについて、私なりに考えたものを書き記しておこうと思い、筆を執った次第だ。本題に入る前に、私は、プロの小説家とか物書きの専門学校に通っている等といったステータスを保持している訳では無いし、私の考えが全ての人に当てはまるなんてことは言いきれないのでご容赦賜りたい。

さて、小説の根幹となるのは、「何を書くのか」(=what)と、「どう書くのか」(=how)なのは間違いないだろう。文字通り、前者は小説の内容、後者は出力の方法となる。小説を書きたいという人は、書きたいことがあってどう書くのかで悩んでいる人がほとんどだろうし、実際、「林檎を地球に例えたいのでこの物語を創りました!」みたいなことを言う人には残念ながらお目にかかったことがない。では、どうすれば出力方法を適切に選定し、満足のいく小説を書けるようになるのか。そのために、物書き(小説家などとは口が裂けても言えないのでこのように自称させていただくことを許していただきたい)が、自身の伝えたいことを小説を媒体として、どのように読者に届けるのかを示してから、どうすればそのプロセスを上手にこなせるようになるのかについて述べていく。

まず私が喚起しておきたいのは、「how」は、極めて境界が曖昧な、ミクロ的役割を持つものとマクロ的役割を持つものに分類されるということだ。前者は、「言いたいこと」をどのように言い表しているのか、後者は、その文が、作品全体の中でどのような意味づけをなされているのか、というものである。また、「what」は、具体的whatと、抽象的whatに(howと異なりこれははっきりと)分類される。前者は、硬い言い方をすれば〇〇イズムや××主義などに代表される自身の人生哲学であり、ゆるい言い方をすれば「自分は何を思っているのか」である。後者は、そのままの意味だが、具体的whatを描くための素材のようなものである。煌びやかな青春を描きたいなら、舞台を高校にして、頼もしい仲間が沢山いて、たまにすれ違うけど、最後はなんとかなる、といった大雑把なストーリーの土台を形作る力がここで発揮される。

より深く言えば、howについては、「出来事の順番」や「回想を差し込むタイミング」などがマクロ的howにあたり、「場面描写の方法や寡多」、「人物・心情表現」などがミクロ的howにあたる。これらのうち、どこを境界線とするのかは、早々決められたものではない。というのも、ミクロ的なhowの使い方を特定の内容について多用するほど、その内容がもつ、小説全体の中に占める意義が大きくなることを示すからだ。これはつまり、両者は決して独立的なはたらきをしている訳ではないということも示している。

上記のwhatとhowについてを踏まえた上で、本題に入ろう。我々物書きが、小説によって伝えたいことの本質は、数十ページも数百ページもかけて主張するようなことではなく、極論を言えば、脚色を除いてゆくとものの数ページに収まるようなものなのである。これは抽象的whatにあたり、書き手は、それを体現しているような物語(=具体的what)を創造する。それに説得力を持たせたり、それの輪郭を明確にしたりするのが、二つのhowの役割なのだ。

つまり、読者が読むのは、数%にも届くかという割合の抽象的whatと、残りの具体的whatと二つのhowということであり、この三つを駆使して、どれほど高い解像度で本当に伝えたい「抽象的what」を読者に届けることができるのかが、物書きの腕の見せどころなのである。

では次に、これら四つの表現力を高めるには、どうすれば良いのかを、それぞれの特性から分析してみる。

抽象的what力(そろそろ書いている自分でも術語の多用にいささか頭が痛くなってきたが多めに見て欲しい)とはどのように身につけられるか。これは、自分がどのような人生経験を積んできたかと、どれだけ多様な本を読んできたのか、そして、命題についてとことん考え抜いた経験の多寡に起因するだろう。というのも、自身のイデオロギーを確立するということは、多くのイデオロギーを知り、それを理解し、自分の中での思考、あるいは他者との語らいを通して、自分の考えにいちばん近いものを自身のものとする、というプロセスが必要だからである。これがはっきりしているほど、具体的whatの唯一性が向上する上、何より、書いている途中で、「根本から迷走する」ことはほとんど無くなるだろう。この力を高めるには、優しく噛み砕いて説明されているような哲学書を読んでみることを勧める。他にも、〇〇主義と世間で言われているような古来からの著作(主に欧米のものになるだろうが)を読んでみるのも良いだろう。しかし、ただ読んで理解するだけではなく、とことん考え抜くという過程こそが最も重要であることは再び言っておきたい。

具体的what力についても考えてみる。この段階で如実に発揮されるのは、なんと言っても想像力の豊かさだろう。これが発揮されないようなものは、ノンフィクションドキュメンタリーを始めとする伝記物に分類されるべきであり、想像力が全く働いていないものは小説ですらないと私は考えている。自身の抽象的whatをもとに、いかにしてそれを上手に体現しているような物語を紡ぐのかが焦点となるのだが、重要なのは、その物語の完全性だと私は考えている。例えば、失恋モノが書きたいという場合に、ある登場人物のもつ属性についてに絞って設定を考えてみても、「中学二年生/女子/テニス部/失恋する」という設定だけをもとに物語を書き始めようものなら、迷走することは間違いない。人についてであれば、立場や身体的・精神的特徴(性格)、これまでの人生、将来の夢、現在の交友関係、(学生ならば)成績や通学手段と通学時間、普段の就寝時間といった風に、一人の生きている人間として「質量(=リアリティ)」が読み取れるような設定を考えてから書き始めるべきだと私は思う。たとえ考えた設定のすべてが完成したものに反映されることはなくとも、この過程で生まれた質量が裏目に出ることはないはずだ。では、この力はどうすれば高めることができるだろうか。端的に言えば、読書をしよう、ということになるが、より細かく言えば、ファンタジー小説を読むことを強く勧める。文章のみから想像力を働かせる練習をした方がためになると考えているため、映像化されたものは避けた方が良いだろう。とはいえ、ただ文字の羅列を目に入れてゆくのではなく、場面を常に頭の中に思い浮かべながら読み進めていくことができるのであれば、小説のジャンルはどうでもいい、とも言えるのだが。

さて、次はミクロ的how力である。一般的な、文学的表現力と呼称されるものがここに該当する。この力は、ほとんどの人が一定以上の力を後天的に身につけることができるものであると私は考えている。なぜなら、そういった表現の多くは、常にある言い回しの組み合わせにすぎず、ただ先人が作った碁盤の目の線上を、手を変え品を変え、多様なルートで進んでいるようなものに過ぎないからである。一方、どうしようもないほど才能のある人も少なからず存在する。こういう人は、他の多くの人が線上をさまよっている中で、隔絶した点どうしを直接線で繋いで道としているようなものだと私は考えている。これは、まったくの新しい表現を生み出しているということであり、常人には到底できない所業である。話を戻すと、この力をある程度まで伸ばすのは比較的容易である。ただ本を読めばよい。前述の具体的whatと異なる点は、読み流しているだけでも少なからずこの力は身につくという点であろう。まあ、どうせ読むのだから具体的what力も同時に伸ばすという意味でも、想像力を働かせた方が効果的だと私は思っている。

最後にして最大の難関が、マクロ的how力だ。自己を明確に認識し、書きたい内容を練り上げ、十分な表現力を身につけたところで、この力が無ければ、その作品は歪な文章の羅列に堕してしまう。この力は、端的に言えば、具体的whatの内容を、どの順番で読者に届けるのか、ということに過ぎないが、たったこれだけのことと侮ってはならない。この力の向上が難関である理由の一つは、単純に思われるかもしれないが、ストーリー展開とは、本質的に自由なものであり、したがって、話の構成の仕方が途方もないほどあるからだ。

whatについての造形を深めた人には、これは簡単に見えることもあるだろうが、whatを深めたはずなのに上手く書けない、という人も多くいると思う。その原因は、まさに二つ目の理由にあたる。その理由とは、「読者の視点と作者の視点は互いに相容れないものである」ということだ。この文章で私が最も伝えたいことはこれだ。私たちは普段、読者の視点に慣れきっている。しかし、いざ作者になろうとして内容を諸々考えていっても、何を書いていいのか分からない。これは例えるなら、コース料理を提供する側とされる側、というのがしっくりくるだろうか。食べる側である読者は、目の前に出されてゆく料理を順に食べて存分にその味を堪能する。しかし、提供する側の作者となると話はがらりと変わる。食べる側が最も快く食べられるようにするには、作る側を志し、特別な練習を積まなければ到底出来るはずがない。タチが悪いのは、コース料理は大抵のものが先達が残した定石をどれだけ巧妙に再現できるか、が肝になるのに対して、物書きにとって、セオリーのようなものは存在するだろうが、確立された定石というものは存在しない。自身で試行錯誤し、最後には自分のセンスに頼ってなんとか形にすることになるだろう。このセンスは、少なくとも小説を読むことでの開拓は厳しいものがある。なぜかと言うと、世間に出ている小説を読むことでそのスキルの吸収を試みようとしても、私たちが読むのは、完成された小説なのだ。完成された小説から、どう組みたてたのか、自分ならどう組み立てるのかを考えてみても、それは、一度タネがバレたマジックを見るようなつまらないものとなってしまう。ではどうすべきかというと、自分で、時には他人に読んでもらうことで試行錯誤するしかない。私も大部分を占めておきながらこれくらいのことしか言えず、不甲斐ないばかりだ。

長くなったが、以上で、私の話は終わりである。端的にまとめると、「自分を知り、小説を意識的に読み込んで、自分で何度も何度も書いてみよう」になる。一般によく言われることだが、結局は地道なことをきちんとこなすことでしか成長の道はないのだと思う。それでは。

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