水底の楓(仮題)
低泉ナギ
序文
”最も大切なことは、最も言いづらいこと"
海外文学コーナーのポップに、でかでかと赤文字で書かれたフレーズ。それを目にした俺は足を止めていた。
俺は同じ一文で始まる本を知っている。
その本の持ち主のことも。
目の前に積まれた本を一冊手に取ろうと腕を伸ばしたとき、鼻の奥で匂いがした。
ずっと忘れていた匂い。
いつ、どこで嗅いだのか。
瞬間、俺は記憶の底に沈んだ。
約束も、誕生日も、再会も、コーヒー豆も、連勤明けにこの書店まで運転してきた現在のすべては、どこかに消えてしまった。
俺は、海外文学コーナーの片隅から消え去った。
”オレ”は小学校の図書室にいた。
砂の熱いグラウンドで寝転んでいた。
屋台が並ぶ夜の境内を駆けていた。
誰かと被った毛布の暗闇に、静かな熱を感じていた。
あるいは誰にだってなれた、けれど誰でもなかったあの頃にいた。
ここではない、どこか遠くの少年時代に。
鼻を通って口の中にまで広がる匂いを飲み下そうとして、喉を鳴らした。
深い懐かしさには味まである。
寝不足でグラつく頭を抑えて、ぼんやりした意識を腕時計の盤面に落とす。もう夕方だ。
俺が座り込んでいても時間は進んでくれる。
俺だけの思い出は、俺だけから離れていく。
一秒につき一歩ずつの速さで。
ふと疑問が頭をよぎった。
”オレ”はあの時、本当はどうしたかった?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます