第4話 荒れ狂う実家と怒涛の日々

 あの庭園での一件からも、私は養女の件について考え続けました。

 ですが最大の懸念であったヴァレフ様の了承を得られた今、気持ちは一気に傾いていきました。


 もともと、公爵夫妻に対しては何の不安もありませんでした。ダリオン様は誠実に私を遇してくださり、エルリーゼ様はいつも穏やかな笑みで支えてくださる。加えて、約束された報酬も確かに保障されています。


 であれば、答えはひとつしかありません。


 私はこの家に来たとき、教育係としてヴァレフ様を導くと誓いました。ならば今度は、義姉として務めを果たせばよいのです。


「……決めました」


 静かにそう口にした夜、胸の奥が不思議なほど澄み切っていました。


 そして翌朝。場所は公爵家の応接間。

 窓から差し込む朝の光が白い大理石を柔らかく照らし、赤い敷物に細い金糸の文様が浮かび上がっていました。


 私は深呼吸をひとつ、ふたつ。胸の高鳴りを宥めつつ、ダリオン様とエルリーゼ様の前に歩み出ます。


「おはようございます、ダリオン様、エルリーゼ様。――昨夜はよく考えました」


 ダリオン様は、いつもの静かな眼差しでうなずかれました。隣のエルリーゼ様は、あの柔らかな笑みで私の背をそっと視線で押してくださる感じ。


「それで、結論は?」

「はい。私はヴァレフ様を導くためにこの家に参りました。――ならば今度は、義姉として務めを果たしましょう。お申し出、謹んでお受けいたします」


 言い切った瞬間、背中のこわばりがふっとほどけました。同時に、胸の奥のどこかが熱くなりました。


「そうか……よく決心してくれた」


 低く、しかし確かな安堵が混じった声。ダリオン様は大きく息を吐かれ、口元に柔らかな笑みを刻まれました。


「本当に嬉しいわ、セレイナ。これからは娘として、どうぞよろしくね」


 エルリーゼ様も立ち上がり、私の手を包み込むように取ってくださいました。


「こちらこそ……不束者ですが、よろしくお願いいたします」


 深く頭を下げると、ダリオン様の笑い声が低く響き、エルリーゼ様が静かに頷かれるのが見えました。


 この瞬間から、私はヴァルケスト公爵家の一員となったのです。


「手続きについては、こちらで段取りを整えよう」


 ダリオン様が卓上の書類を示されます。貴族院への願い出、帝都官庁での登録、家内での身分切り替えに伴う諸書式――ざっと見ただけでも、めまいがしそうな紙の山です。


「まずは内定の形で関係各所に触れを回す。正式な布告と披露は、段取りが整い次第だ。……それから報酬として約した件――ロズバーン家の伯爵位は、陛下への上奏が済み次第しかるべく。君の屋敷も帝都南区に目星をつけてある。研究に向いた静かな場所だ」

「そこまで……ありがとうございます」


 さすがお仕事が早いです。いえ、これはもう事前に準備していたということでしょうね。私が申し出を受け入れるという確信があったのでしょう。


「それとあなたのお披露目の場は少し先になるわ。準備がいろいろと必要だから」


 エルリーゼ様が愉快そうに目を細められます。

 養女とはいえ大貴族の一員となるわけですから、当家主催で関わりのある各貴族たちに私の存在を紹介するためのパーティーを開きます。そうしないと、いきなり社交界に参列した際に「え、誰あなた!?」と驚かれてしまいますしね。

 ま、仕方ありませんね、こればっかりは。正直なところ煩わしい話ですけども。貴族と言うのは何かとそういうものですから。


「礼装、立ち居振る舞い、舞踏の所作。あなたはもう充分に基礎を身に着けているけれど、“ヴァルケスト家の令嬢として”の細部は、やっぱり少し手直しが必要。侍女長のオルネッタがつくわ。少々厳しいけれど根は優しいし、魔法を極めたあなたなら問題ないでしょう」

「覚悟しておきます」


 魔法と舞踏。どちらの方が難しいかと問われたら――正直、後者です。

 雷は私の内側から出ますが、舞踏は世界のリズムに私が合わせるもの。……うん、稽古、頑張りましょう。


「ただ、その前に里帰りだな」


 ああ、そういえばそうですね。父も母も私がどんな顔をするでしょう。

 まさか家庭教師に派遣した娘が公爵家に入ると知ったら腰を抜かしてしまうかもしれません。


 数日後、私はヴァルケスト家の紋章が押された正式な書状を携えて、ロズバーン男爵家へ戻りました。

 久方ぶりに見える屋敷の屋根は、どこか頼りなく歪んで見えます。けれどその不格好さが懐かしく、胸の奥を締めつけるようでした。


「セレイナ!」


 玄関口に母が飛び出してきました。小柄な体で私を抱きしめ、すぐに首をかしげます。


「……え? その後ろの立派な随行はなに?」

「お母様、落ち着いてください。まずはお父様に」


 そう言って応接間へ向かうと、すでに父と兄たちが揃っていました。机の上には山積みの帳簿。そこに紋章入りの書状を差し出すと、父は怪訝そうな顔で開封して目を走らせました。

 数呼吸ののち、父の手が震えました。


「……うちの娘が……公爵家に……?」

「まさか冗談でしょう!」


 母が書状を覗き込み、顔を真っ赤にしました。


「どういうことなの!? もしかしてダリオン様とご結婚するということ!?」

「いいえ、違います」

「ではご子息のヴァレフ様と!?」

「だから違います。養女です。そう書いてあるでしょう」

「あ、ええ……たしかにそうね」

「というか、手紙でもそう説明したはずだけど」

「ごめんなさい、中央デビューで浮かれた娘のジョークだとばっかり……」


 どういうジョークですか。


「実はお前の手紙が届いてから、我が家ではこれが嘘か真か毎日のように議論をしていてな。つい昨日、これは嘘であると結論が出たばかりだったのだ」


 なんですかその世界一無駄な時間は。まったくお母様もお父様も。

 ……はぁ、要するに信じてもらえてなかったと言うわけですね。


「ああ、お父様。それからこちらも」


 私はさらに一通の封を差し出しました。重々しい筆致で記された上奏案です。


「ロズバーン家の爵位を伯爵へと昇格させる件について、陛下への伺いがすでに準備されています」


 お父様の書状を握る手がぶるぶると震えます。


「わ、我が家が伯爵に……!?」


 その瞬間、応接間は一気に大騒ぎになりました。

 嫁ぎ先からわざわざ帰省していた妹たちは悲鳴を上げ、兄たちは顔を見合わせ、現場は混乱を極めます。


「……夢ではないのか」


 今一度書状の署名と印影を見比べたお父様が、ついには椅子から崩れ落ちて白目を剥いてしまいました。想像よりひどい有り様でしたね。


 一方で妹たちはきらきらした目で私を囲み、「すごいわお姉さま!」「まさか公爵令嬢だなんて!」「もしかして帝都でドレス着放題!?」などと口々に囁きました。中には「え、私たちも親戚として中央の夜会に行ってもいい!?」などと現金な質問もありましたが。

 ともあれその後はいとこや親戚たちまでも次々と駆けつけてきて、応接間はもはや市場のような熱気でしたよ。

 羨望と戸惑いと狂喜が渦巻き、お父様はとうとう「静まれ!」と机を叩きました。


「セレイナ。お前は本当にこの件を望んで受け入れたのか?」

「はい」

「……怖くはないのか」

「少しは。ですが、務めを果たしたいのです」


 お父様は長く息を吐き、そして笑いました。


「昔、納屋を焦がしたときも同じ顔をしていたな」

「お父様、今それを蒸し返しますか」


 部屋に小さな笑いが広がり、混沌としていた空気がやっと和らぎました。

 その日の午後、領内では早くも噂が広がっていました。


 “雷神のお嬢様が、公爵家の娘に迎えられるらしい”


 道端で囁かれるうちに尾ひれがつき、夕方には「雷雲を従えて帝都入りするらしい」と神話めいた話にまで膨れ上がっていました。……まあ、否定するのも面倒ですし、放っておきましょう。


 数日後。馬車に乗り込む私を、家族や近隣の住人の皆さまが見送ってくれました。

 私は窓を開け、ただ一言。


「それでは行ってまいります」


 その直後、子どもたちの声が背に届きました。


「雷神さま――じゃなくて、お嬢さま、ファイトー!」


 私は思わず吹き出してしまい、口元だけで小さく答えました。


「ええ、任せて」



 ***



 帝都に戻ると、待ち構えていたのは怒涛のような準備の日々でした。


 「ヴァルケスト公爵家の新たな令嬢」としてお披露目される式典――その段取りがすでに走り出していたのです。

 式典の準備といえば、招待状の手配、宮廷楽団の手配、式場の飾りつけなどが山ほどあるそうですが、私に直接関わるのは「礼装」と「所作」でした。


「セレイナ……これからは “お嬢様”とお呼びしなければならなくなりますね」


 侍女長のオルネッタが、眼鏡の奥で穏やかに笑いました。

 彼女はもともと几帳面で皮肉屋なところがありつつも、面倒見のよい人柄でした。家庭教師として滞在するようになってからも、何かと助言をしてくださり、食堂で顔を合わせれば私より年上ですがお互い軽口を交わすくらいには馬が合っていたのです。


 けれど立場が変化した今、彼女の手にある杖のような指示棒は私の肩の角度を容赦なく突いてきました。


「背筋はこう。肩を開きすぎず、しかし胸元は閉じない。視線は三歩先を、常に。……そうです。その姿勢を十五分維持なさってください」


 はい、やはり厳しいです。

 雷魔法の詠唱を十五分続けろと言われてもまだ楽にできますよ。なのに、何もしないで立つだけがこれほど苦行だとは……。


 事ここに至って、私はロズバーン領での生活のツケを感じました。貴族としてのマナーや常識はひと通り身に着けているつもりでしたが、やはり中央貴族に求められるレベルは一味も二味も違います。

 魔法の研究を優先して生きてきた私にとってはなかなかにオルネッタの指導はハードでした。


 数日後にはダンスの訓練も始まりました。

 磨かれた大広間に鏡を並べ、音楽を流しながら、私は指導役の侍女たちとステップを踏みます。


「もっと足を滑らかに。――いいえ、そこは雷を撃つような勢いではなく!」


 耳まで熱くなりました。確かに踏み込みが強すぎたかもしれません。つい普段の魔法の練習で培った癖が出てしまいました。

 ただ、オルネッタは溜息をつきつつも最後には必ずこう言ってくださいます。


「……ですが、覚えが早いのは確かです。やはり筋の通った方ですね」


 褒めているのか、からかっているのか。けれどその声音に温かさが混じっているのはわかります。


 衣装係の仕立て屋が幾度も出入りし、仮縫いの礼装を次々と持ち込んできました。

 布地は帝都随一の職人が織ったもので、触れるとひやりと滑らかで、羽のように軽い。

 袖口や裾には細やかな金糸の刺繍が入り、裾を広げると光の加減で星座のように瞬きました。


「お嬢様のお肌の色には、この青が映えますわ」

「いえ、この銀糸の方が威厳を引き立てると思います」


 侍女たちが真剣に議論を交わす中、私はただ鏡の前でくるりと回されるばかり。

 雷魔法の暴走なら制御できますが、衣装合わせのこの流れには抗う術がありません。


 けれど、不思議と嫌ではありませんでした。

 かつて夜会では壁際で肩身を狭めていた私が、今は堂々と中央で礼装を纏い、帝都の誰もが目にする舞台に立つ準備をしている。

 そんな現実が、じんわりと胸を温めていました。


「セレイナお嬢様」


 オルネッタがそっと声をかけてきます。


「大変でしょうが、これらすべてはあなたを守る盾にもなります。社交界は恐ろしい戦場ですが、礼装や所作は最初の防御壁となりますから」


 その一言に、私は思わず背筋を正しました。

 魔法ではなく、所作や礼儀もまた武器であり守りなのですね。


「わかりました。……覚悟して挑みます」


 オルネッタの眼差しがやわらかく細められました。


「さすがはセレイナお嬢様。では次は、公爵家の歴史について一から振り返りましょう」

「い、一から?」

「当然にございましょう。歴史ある公爵家の一員たるもの、その歩んできた道はすべて把握しておかねば」


 ……苦行は、まだまだ続くようです。



 ***



 そんな忙しい日々でしたが、それでもヴァレフ様への指導の時間はこれまで通り設けられていました。元々このために呼ばれたわけですしね。当然っちゃ当然です。


「ふっ。聞いたぞ、師匠」


 その日の稽古の締めくくり、模擬戦の途中でヴァレフ様が不意に悪戯っぽく笑いました。


 乾いた砂を踏む音とともに、氷の刃が稽古場をかすめます。杖を振り抜いたヴァレフ様の動きは、以前と比べて驚くほど鋭くなっていました。

 私は杖先を軽く振り、雷光を走らせました。閃きとともに氷片が砕け散ります。


「何をです?」

「オルネッタから相当厳しく指導されているそうじゃないか。礼装にダンス、歴史まで。教える側だったはずの師匠が、今度は教わる側に回るとはな。どうだ? 養子となったことを少しは後悔してるんじゃないか?」


 クックと愉快そうに笑うヴァレフ様。

 私は稲妻で残滓を弾き飛ばしつつ、静かに息を整えました。


「後悔はしておりません。ただ、大変だとは思っております」

「ほう?」


 その素直な返事が気に入ったのか、彼の蒼い瞳がわずかに細められました。普段とはどことなく逆転した立場に満足げとも言えますね。

 とはいえこちらもその態度は癪です。私はあえて皮肉っぽく投げかけました。


「ヴァレフ様こそ、どうでしたのです? オルネッタはこの屋敷で長く仕えておられると伺っています。同じように厳しい指導を受けられたのでしょう。それこそヴァレフ様のことですから、罵詈雑言を吐きながら教室から逃げ出したりしたのではありませんか?」

「ないな」


 意外にも即答でした。迷いを含まぬ声音に、私は思わず動きを止めました。


「私は生まれたときから公爵家の人間だからな。歩けるようになったその日から貴族として指導を受けるのが当たり前だったし、大抵のことはすぐに覚えられた。それに、作法や歴史を学ぶのは貴族の義務だ。避けては通れん」


 思わず、少し感心してしまいました。

 そういえばオルネッタも言っていましたっけ。「ヴァレフ様は物覚えが早く、基本さえ与えればすぐに形にされます」と。なんでも幼少期のヴァレフ様は、ダンスのレッスン中に一度示した足運びをすぐに真似し、講師の方々の舌を巻かせたのだとか。

 その素養に胡座をかいたがゆえに、あの傲慢さが生まれた……なるほど、筋が通ります。


「ふふっ。立派なお言葉です。師としても鼻が高いですよ」


 感心を隠せず漏らすと、ヴァレフ様は肩をすくめました。

 あの尊大な笑みではなく、淡々とした仕草。それがかえって大人びた印象を強めます。


「立派かどうかは知らん。ただ、義務を果たしてきただけだ」


 義務を義務と認めて受け止める――言うは易しですね。

 どうりで魔法の覚えも早いわけです。やはり根はダリオン様の血を引く優秀な貴族の子息。

 ちょっといろいろ性格面が歪んでしまっただけで、本質はきちんと努力を惜しまぬ方だったのですね。


 数か月前、散らかった部屋でいきなり氷の矢を放ってきた姿を思い出し、私はつい内心で苦笑しました。

 けれど感慨に耽る暇はありません。私は杖を握り直し、あえて声を強めました。


「いやはや、本当に素晴らしい心持ちですヴァレフ様。まさに今のお言葉は貴族の鑑。これから同じ公爵家の人間として生きていく私としても、見習わなければなりませんね」


 そうだろうそうだろう、とヴァレフ様が得意げに頷きます。


「……ですが」

「?」

「今はダンスでも歴史でもなく、魔法の稽古の最中。師を笑うとは何事です!」


 杖先から放たれた雷光が砂を裂き、地面を焦がします。空気が一瞬だけ震え、稽古場に火花が散りました。


「どわぁああっ!? お、おいっ、急に本気を出すな! わかった! 謝る! 謝るからやめてくれ!」


 雷から逃げ惑うヴァレフ様。それを追いかける私。

 傍から見れば、ある意味で微笑ましい光景に映ったかもしれません。



 ……この時の私は想像もしておりませんでした。これから私たちに、あんな運命が待ち受けているなんて。


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