第3話 命じられる快感

「直樹くんって、ほんと素直だよね」


昼間、何気なく渡された書類と一緒に投げかけられた言葉。

周囲の誰にとってもただの雑談。

けれど俺の胸には、特別な言葉のように残っていた。

褒められたのに、妙にざわつく。

素直――それはこの人の前では、従うことと同義なのかもしれない。



夜。

蛍光灯の半分は消され、フロアは不自然なほど静かだった。

時計の針が乾いた音を刻み、コピー機の電源ランプだけが小さく光っている。

真理子さんと俺。

残っているのは二人だけ。

昼間の賑やかさが嘘のように、呼吸の音すら響いてしまう。


彼女は机の上に散らばった書類をまとめ、眼鏡を外してこめかみを押さえていた。

髪が揺れ、淡いウェーブが頬にかかる。

何度も見慣れた仕草のはずなのに、夜の静けさに包まれると、それだけで色を帯びて見えた。


「直樹くん、こっち来て」


呼ばれて歩み寄った瞬間、ネクタイをつかまれる。

布地が喉を締め、息が止まる。


「緩んでる。……動かないで」


低く湿った声。

指先が喉元を滑り、結び目を持ち上げる。

冷たいはずの指が、皮膚に触れるたび熱を残していく。

胸が一気に締めつけられ、心臓が暴れ出す。


「……どうしたの、そんな顔して」


挑発めいた視線。

答えられないまま吸い寄せられる。

逃げ場がなく、目の奥まで見透かされる。



次の瞬間、背中が机に押し付けられた。

腰に硬い感触が走り、肩に置かれた手が軽く押す。

それだけで全身が縛られたように動けない。


「疲れてるでしょ? 少し休もうか」


耳元に落ちる声。

息が首筋を撫で、全身が震える。

寄りかかるなと言われたわけじゃない。

でも、寄りかからずにいられなかった。


「……動かないで」


命じられた途端、全身が硬直し、呼吸だけが荒くなる。

耳元で囁かれ、背筋が焼けるように熱い。


指先が鎖骨をなぞり、爪の先で軽くかすめられる。

電流みたいな痺れが走り、思わず脚が震えた。

布越しに胸元を撫でられる。

そこだけが火照り、喉から声が漏れそうになる。

必死に噛み殺しても、息の荒さは隠せなかった。


「声も出さないでね」


低い囁き。

それは命令であり、縛りでもあった。

喉を締め付けられるように苦しいのに、痺れる快感が背骨を駆け上がる。


下半身が脈打ち、硬さを自覚した瞬間、羞恥と興奮が一度に押し寄せる。

隠したいのに隠せない。

体が勝手に反応してしまう。


「……体も素直ね」


耳元で囁かれ、唇の端が触れそうなほど近づく。

吐息が耳を濡らし、背筋が震える。

言葉も視線も奪われて、ただ従うしかなかった。



彼女の顔がさらに近づく。

唇が触れる――そう思った瞬間、わざと止められた。

あと数ミリで世界が変わる。

吐息だけが重なり、濡れた声が落ちる。


「……して欲しいの?」


挑発。

胸が爆発しそうに高鳴り、全身が震えた。

答えられない。

でも、反応は全部読まれている。


彼女は唇を寄せるのをやめ、ゆっくり笑った。

「ふふ……ほんとに素直」


指を離すと、何事もなかったように机の上の書類をまとめ始める。

さっきまでの熱が幻だったみたいに。

それでも、身体はまだ彼女の支配の余韻に縛られていた。



改札に並ぶと、真理子さんはもう昼間の顔に戻っていた。

「気をつけて帰ってね」

手を振る声は優しくて、誰が見ても頼れる先輩だ。


けれど俺は知っている。

机に押しつけられ、耳元で命じられたあの声を。

それを思い出すだけで、下半身の昂ぶりが蘇る。


ネクタイに指を添える。

そこにはまだ、掴まれた感触が残っていた。


――これは恋じゃない。尊敬でもない。


胸を焼くのは、しびれるような快感。

命じられて従わされる悦びだった。


俺は今、この人に支配されたいと願っている。


認めた瞬間、全身が熱で包まれた。

もう後戻りはできない。

それでも心の奥はぞくりと悦んでいた。

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