第2話 帰り道の距離

「直樹くん、昨日はありがとうね」


昼のオフィスは電話や人の声で賑わっている。

真理子さんがデスク越しに微笑むと、同僚も自然に笑顔を返す。

その場を明るくするのが上手な人だ。

俺にとっては、憧れであり、救いであり……いつも眩しい存在だ。


「……いえ。僕も勉強になりました」


返した声は少し固かった。

周囲にはたくさんの人がいるのに、昨夜の指先の温度が頭から離れない。

俺だけが知っている秘密を抱えているみたいで、顔が熱くなった。



昼休み、給湯室。

「直樹くん、ブラックでしょ?」

「え? あ……はい」

「やっぱり。そんな気がした」


笑いながら差し出されたカップ。

一瞬触れた指先に、心臓が跳ねた。

ただの気遣いのはずなのに、俺には大きな出来事だった。


「昨日は遅くまで悪かったね。疲れ残ってない?」

「大丈夫です。真理子さんこそ」

「私は慣れてるから。でも直樹くんは無理しすぎないで。真面目すぎると損するよ」

「……そうかもしれません」

「ふふ、そういうとこ嫌いじゃないけど」


昼間の彼女は、優しくて、可愛らしい。

この人が夜に見せた仕草と同じ人だなんて、まだ信じられなかった。



退勤後。

「方向、一緒でしょ?」と声をかけられ、並んで駅へ向かう。

湿った夜風。人混みで肩が触れるたび、呼吸が浅くなる。


「学生時代は何してたの?」

「バイトばかりでした」

「真面目だね。私は演劇サークル」

「真理子さんが? 舞台に?」

「ふふ、意外でしょ。でもね、立つより人を動かす方が性に合ってた」


その言葉に、妙な説得力があった。

人を動かす彼女――昨夜、俺を縛るみたいにネクタイを締めた指先を思い出す。


改札前で真理子さんが鞄を探す。

「……あれ、どこに入れたっけ」

少し困ったように笑う姿が可愛くて、胸が揺れる。

足元に落ちていた切符を拾い上げ、差し出した。


「これ、ですよね」

彼女の指が俺の指に重なった。

受け取るだけなら一瞬で終わるはずなのに、数秒そのまま。

指の腹がじんわりと熱を伝えてくる。

「ありがと、直樹くん」

視線を絡めて微笑まれ、息が詰まった。



ホームに並ぶ。

電車の風が吹き抜け、真理子さんの髪がふわりと揺れる。

耳にかける仕草は昼と同じはずなのに、夜の静けさに混じると艶めいて見える。


「直樹くんといるとね、なんだか困らせたくなるんだよね」


冗談めかした口調なのに、笑顔の奥に別の色が潜んでいた。

その言葉は軽いはずなのに、胸の奥に鋭く突き刺さる。

挑発に近い響きに、体が勝手に反応してしまう。


――俺は、この人に翻弄されたいのかもしれない。


電車の接近を知らせる風が吹き抜ける。

視線を逸らせないまま、車両が滑り込み、鼓動の音が重なる。


「じゃあ、また明日」

改札に消えていく背中を、人混みに紛れるまで見つめ続けた。


首元のネクタイに指を添える。

そこにはまだ、彼女の指の温度が残っていた。

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