第2話 帰り道の距離
「直樹くん、昨日はありがとうね」
昼のオフィスは電話や人の声で賑わっている。
真理子さんがデスク越しに微笑むと、同僚も自然に笑顔を返す。
その場を明るくするのが上手な人だ。
俺にとっては、憧れであり、救いであり……いつも眩しい存在だ。
「……いえ。僕も勉強になりました」
返した声は少し固かった。
周囲にはたくさんの人がいるのに、昨夜の指先の温度が頭から離れない。
俺だけが知っている秘密を抱えているみたいで、顔が熱くなった。
◇
昼休み、給湯室。
「直樹くん、ブラックでしょ?」
「え? あ……はい」
「やっぱり。そんな気がした」
笑いながら差し出されたカップ。
一瞬触れた指先に、心臓が跳ねた。
ただの気遣いのはずなのに、俺には大きな出来事だった。
「昨日は遅くまで悪かったね。疲れ残ってない?」
「大丈夫です。真理子さんこそ」
「私は慣れてるから。でも直樹くんは無理しすぎないで。真面目すぎると損するよ」
「……そうかもしれません」
「ふふ、そういうとこ嫌いじゃないけど」
昼間の彼女は、優しくて、可愛らしい。
この人が夜に見せた仕草と同じ人だなんて、まだ信じられなかった。
◇
退勤後。
「方向、一緒でしょ?」と声をかけられ、並んで駅へ向かう。
湿った夜風。人混みで肩が触れるたび、呼吸が浅くなる。
「学生時代は何してたの?」
「バイトばかりでした」
「真面目だね。私は演劇サークル」
「真理子さんが? 舞台に?」
「ふふ、意外でしょ。でもね、立つより人を動かす方が性に合ってた」
その言葉に、妙な説得力があった。
人を動かす彼女――昨夜、俺を縛るみたいにネクタイを締めた指先を思い出す。
改札前で真理子さんが鞄を探す。
「……あれ、どこに入れたっけ」
少し困ったように笑う姿が可愛くて、胸が揺れる。
足元に落ちていた切符を拾い上げ、差し出した。
「これ、ですよね」
彼女の指が俺の指に重なった。
受け取るだけなら一瞬で終わるはずなのに、数秒そのまま。
指の腹がじんわりと熱を伝えてくる。
「ありがと、直樹くん」
視線を絡めて微笑まれ、息が詰まった。
◇
ホームに並ぶ。
電車の風が吹き抜け、真理子さんの髪がふわりと揺れる。
耳にかける仕草は昼と同じはずなのに、夜の静けさに混じると艶めいて見える。
「直樹くんといるとね、なんだか困らせたくなるんだよね」
冗談めかした口調なのに、笑顔の奥に別の色が潜んでいた。
その言葉は軽いはずなのに、胸の奥に鋭く突き刺さる。
挑発に近い響きに、体が勝手に反応してしまう。
――俺は、この人に翻弄されたいのかもしれない。
電車の接近を知らせる風が吹き抜ける。
視線を逸らせないまま、車両が滑り込み、鼓動の音が重なる。
「じゃあ、また明日」
改札に消えていく背中を、人混みに紛れるまで見つめ続けた。
首元のネクタイに指を添える。
そこにはまだ、彼女の指の温度が残っていた。
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