第4話 引っ越し初日の夜①【未来8歳/沙織20歳】

 夕食が終わって、ゆっくりと、のほほんとしている。

 お腹が膨れているのが分かる。ぽんぽんと手を当ててみる。まんまるだ。お母さんの作ってくれた料理が、たくさんこの中に入っているんだな、と感慨深くなる。

 今日の夕食は楽しかった。

 引っ越しして最初の夜の食事だったから、いつもと雰囲気が違ったからかもしれない。

 ううん。

 やっぱり一番の違いは。


「沙織さん、美味しかったねー」

「…うん。久々の、姉さんの料理…」


 沙織さんがいてくれたことだった。

 テーブルを片付けた後、お母さんと沙織さんは横に並んで食器を洗っている。

 2人は楽しそうに、笑いながら食器を洗っている。


 私だって、食器を流しまで運ぶという大仕事をしたというのに、お母さんは褒めてもくれなかった。

 沙織さんだけは、「えらいね、未来ちゃん」と褒めて頭を撫でてくれた。

 嬉しい。


「ねーねー、お話してー」

「もう少し待っててね」


 2人がお皿洗いをしている後ろ姿を眺めながら、私はソファに座ったまま、足をぶらぶらさせながら声をかける。

 楽しそう。

 私も混ざりたい。


「ねーねー」

「あら?ねずみかな?」

「にゃーにゃー」

「わんちゃんだった」

「もうっ」


 お母さんに適当にあしらわれてしまう。いつものことだった。そんな私たちのやりとりを見て、沙織さんがくすっと笑ってくれた。わぁ。可愛い笑顔…やっぱり、好き。


 ちなみに、お父さんはテレビをつけて野球の試合をみている。

 さっき食べたばかりなのに、ビールと、それにおつまみまで完備している。


「今日はよく働いたからね。自分にご褒美さ」


 そう言ってビールを飲んでいるお父さんも上機嫌だ。

 いつもなら、お母さんが横にちょこんと座って、「私もー」と言いながら一緒にビール飲んでいるのだけど、今日は沙織さんがいるから、お母さんは沙織さんにとられてしまっているみたいだった。


 ある程度は引っ越しも終わったけど、まだ部屋のあちこちに手を付けられていない段ボールが置いてある。

 今は4月のあたまで、学校が始まるまでもう少し休日が続くから、明日から私も手伝って引っ越し作業を終わらせよう。


(新しい学校)


 少しだけ、不安。

 私が今まで通っていた小学校は田舎の学校だったけど、こっちの学校は…いや、やっぱりこっちも田舎だった。

 田舎だから、一クラスの人数も少ないし、人間かんけーもすでにもう構築されている。

 その中に新しく入っていくのは…


(ま、なんとかなるか)


 悩んだところでしょうがないし、しょうがないことは悩まないことにして、今はもっと目先で大事な問題について悩むことにしよう。

 すなわち。


(沙織さんと、もっと仲良くなること)


 目下のところ、一番大事なのはこの一点だった。

 私の一番の望みは、今はそれだけだった。


(がんばるぞー)


 と、私が思っていた時。


「沙織、もう遅くなったし、今日はうちに泊まっていきなさいよ」


 お母さんが、とっても素敵な提案を沙織さんにしてくれていた。

 これこそ、棚から牡丹餅?


「え…悪いよ」

「何言ってるの。姉妹じゃないの。それにこんなに遅くて暗い外に若い子を出すなんて、それこそ許されないわ」


 お母さんがそう言う。たまにはいいこと言うね、お母さん。


「おーい、陽子、もうビールはないのかな?」

「あれ?あなた、もう飲んじゃったの?」

「いやね、僕の分はあるんだけど、君が飲む分がないんだ」

「あちゃー。それは大変…このあたりにビール売ってるところあるのかな?コンビニもないみたいだし」

「酒屋の田中さんのところなら、まだあいていると思うよ」

「あらー、そうなの。さすが地元民、さすが私の妹ね。じゃぁ沙織、ちょっとビール買ってきてくれる?」

「…いいけど…夜道に若い子をだすなんて許されないんじゃなかったの?」

「おほほほほ」


 口に手をあてて笑うお母さん。

 沙織さんは「やれやれ」といった感じで少しほほ笑むと、「うん。分かった。ちょっと行ってくるね」といって、手を洗う。


「私もついていくー!」


 こんなチャンスを逃す手はない。

 私はソファから勢いよく立ち上がると、とててっと走って沙織さんの手をとった。


「未来ちゃん、こんな夜中に外に出るのは…」

「いいじゃない、別に、一緒に出てきなさいよー」

「姉さん…さっきの言葉、録音しておけばよかったかな」


 苦笑いする沙織さんに財布を渡すと、「ついでに未来に美味しいものでも買ってきてあげて」とお母さんは一言付け加えていた。


「…じゃぁ、行ってきます」

「いってきまーす!」


 私は沙織さんの手をとり、沙織さんは私の手を引っ張ってくれて、家を出た。

 一歩外に出ると、潮風が顔にあたる。

 暗い夜道の向こう側から、波の音が聞こえてくる。

 街灯はついていないけど、星が綺麗にまたたいていて、乳白色の月の光も降りそそいでいて、なんていうか、幻想的な雰囲気だった。


「きれい」


 思わず、声が漏れる。


「うん。気に入ってくれたら、私も嬉しいよ」


 沙織さんが笑う。

 私が「きれい」っていったのは、この風景の中に混じりこんだ沙織さんのことなんだよ、と言おうかと思ったけど、なんとなく、やめておいた。

 だって、沙織さんが嬉しそうに笑っていたから。


 月明かりの下、手をつないで、2人で歩く。

 2人の足音と、波の音と、ときおり吹いてくる風の音と、山の方から聞こえてくる鳥か獣の鳴き声と、いろんな音につつまれる。


 でも。

 一番大きな音は、私の胸の中の音。

 心臓の音だった。


 どくん。どくん。どくん。


 ドキドキする。


「でー」

「デー?」

「でーと」


 私は目をつぶって、沙織さんの手の暖かみを感じながら、いった。


「デート、楽しいねっ」


 一瞬の沈黙。

 その後。


「あははっ」


 沙織さんが笑ってくれた。

 ぱぁっと、周囲が明るくなった気がする。

 なんとなく、お母さんの笑い声と似ている気がした。


「うん。楽しいね」


 沙織さんが私を見て、笑って、月明りの下で、笑って、ほほ笑んで、可愛くて、綺麗で。


「デート楽しいね」


 いつまでも、どこまでも、この時間が止まってくれればいいのに、と、私は思った。





 ビールを買って。

 にこにこ笑顔で帰ってきて。

 ただいまー、と扉をあけて。


 そしたら。


 お父さんの隣に座っていたお母さんが振り向いて。


「未来、沙織、ありがとー。待ちきれなくて、お父さんのビールとっちゃった」

「とられたよ」


 手にビールを持ったままにっこりと笑うお母さんと、やれやれ、といった風ながらそれでも悪くなさそうなお父さんがいて、それで、お母さんが、言葉を続けた。


「お風呂の準備できているから、沙織、未来と一緒にお風呂お願いね」


 お、ふ、ろ。

 さおりさんと、いっしょ、に。

 えーっ。


 わーっ。


 私の初でーとは、まだまだ、つづいていくみたいだった。


 わぁ。

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