第5話
井の中の蛙──そう、僕は、大海を知らなかったんだ。
そんな意識に苛まれながら、昼休み、一人で大学のキャンパスを歩いていた。音大なだけあって、昼時だって絶え間なく様々な音色が聞こえてくる。特にウチは、バレエ科もあるから……声音や、楽器の音だけじゃない、ダンスをする音も聞こえる。入学して一か月経つけど──なんだか不思議な感じ。
でも今の僕は、そんなBGMもどこか心地が悪い。
(……先生に怒られると、やっぱり、自信無くしちゃうなぁ)
声楽科の僕の、必修科目──そして一番自信があった歌の授業。それなのに、3限の授業では『魂から歌ってない』なんて、哲学めいたことお叱りを講師から受けてしまった。
(怒られる……か。そういえば僕、高校生までずっと、褒められてしかこなかったなぁ)
音楽の先生にマイナス評価をされたことなんてなかった。部活でも優秀だった。親友にも『僕の歌声は天使のよう』なんて、言われていたのに。
(でも音大は、そういうすごい生徒しかいない──)
それに講師の人だって、名の知れた音楽家も少なくない。
元より、覚悟していたことだけど……やっぱりへこんじゃう。
さらに──。
(ここにはつぐみがいないんだから……)
励ましてくれる彼女もいない。
(こういう悩みに……深町くんもぶつかっているのかなぁ)
ジャンルは違えど、同じ表現者として。あるいはクリエイターとして? かつての友達の顔が浮かんだ。
「はぁ……」
ため息が、零れる。空に、上っていく。
「魂からの……歌声──」
講師に言われたその言葉が、胸に、心にこびりついて離れなかった。
◆◇◆
夜になっても──僕の心は霧がかったままだった。
こう、気落ちしたときは──かつて、イジめられていたときは、音楽が心の支えだった。クラシックを聴いて、その音韻が僕の心を浄化してくれた。
でも、今は……僕はその”音楽”に、悩まされている。
(……お兄さんは、こういう悩み、あるのかな)
僕と同じ、音大に通ってる2つ上の風雅お兄さん──思えば、僕はお兄さんの影響で音楽を好きになった。
お兄さんが専攻しているのはピアノで……僕は声楽。行きつく先は違ったけど、僕が歩んできたレールの始まりに居るのはお兄さんだ。
(好きな音楽の趣味も、似ているし……僕は、僕だけの音楽……できてないのかな……)
そう思うと、また心が沈んだ。そして、そんな僕の心を無理やり呼び起こすように──ノックが聞こえた。「ちょっといいか」と、静謐としたお兄さんの声。「いいよ」と僕が言うと、お兄さんは静かに部屋に入ってきた。
「……奏音、元気ない?」
そして開口一番、そう聞かれた。
「え、どうして……?」
「いや、なんとなく。帰ってきたときの顔見てそう思った」
「そう、なんだ……」
お兄さんは、寡黙で、一匹狼な印象だけど……人のことはよく見ている。冷徹な印象持たれることも多いけど、根は優しい。そういう不器用なところは、兄妹なんだなっていつも思う。
「あのね、僕……少し、悩んでて……」
「そうか」
「うん……えと、その……」
喉の奥に言葉がつかえる。
お兄さんにはこういう時いつも助けられるけど……やっぱり、家族だからこそ悩みを相談するのが恥ずかしい気持ちもちょっとあった。
「言葉にしなきゃ分からないぞ」
「うん……」
「別に奏音が一人で解決できるならそれでいいけどな。一人で乗り越えたからこその成長はある」
お兄さんの声は淡々としている。多分、初対面の人には至極冷たく見えるんだろうなぁって僕は思う。実際、自分にも他人にも厳しいタイプだけど……でも、だからこその優しさを僕は知っている。
頼っていいことも──知っている。だから僕は、悩みを打ち明ける。
”魂からの歌”──その不明慮で……だけど僕に必要なパーツであるとなんとなく分かるものを。
「……魂からか」
顎に手を当て思案するお兄さん。
「でも僕、手抜いたことないし、いつだって本気で歌ってるから……」
「なら、才能だな」
「え、才能……?」
「あぁ。音大には化け物みたいな才覚を持った奴が沢山いるだろ」
「僕には、才能がない……?」
「さぁな。それを探すことも音大ですべき学びだ」
冷や水を浴びせられたように、僕は言葉が止まった。
才能……そう、僕は才能があると思ってた。むしろ謙遜する方が失礼だと思ってた。
下に俯きそうになったけど、お兄さんの声に視線を引き戻される。
「だけど、才能が全てじゃない」
「……えっと、じゃあ、努力?」
「音大の学生と簡単に努力量で差をつけられると思うか?」
「それは……」
お兄さんの、平然と紡がれる真実が胸に突き刺さる。
下に視線を逃がそうとすると──頭に柔らかい感触。手の平が僕の頭に乗っていた。お兄さんの顔を見ると、凛然としているけど、どこか優し気な雰囲気も感じ取れた。
「もっと曲に、お前だけの個性を乗せてみろ」
「僕だけの、個性……?」
「あぁ、そういうの、得意だろ?」
「得意、なのかな……それもよくわからなくなってきてて……」
個性は、ある方だって自負しているけれど。
「……なるほどな。環境が変わって、いまいち出し切れていないのか」
お兄さんは、またもや声音に強い感情を乗せず、呟くようにそう言って。
「奏音、次の土曜日の夜、空いてるか?」
唐突に、そう訊いてきた。
戸惑いながらも、僕は「うん」と頷く。すると、「じゃあ土曜日な」とそれだけ言って、お兄さんは部屋を出て行った。
悩みを解消してくれる直接的な言葉じゃなかったけど──お兄さんの背中は、なぜだか頼もしく見えた──。
◆◇◆
そうして、お兄さんとの約束の日が訪れ……夜、外へと連れ出された。行先を聞いたけど、「とりあえず付いて来い」って教えてくれなかった。コバンザメのように……黙って後ろをずっと歩いていた。でも、不安はなく、ただ家族と出かけるような気持ちだった。
電車に乗って──音大の最寄り駅まで到着した。
そして、見慣れた景色に囲まれながら数分ほど歩いて……。
「ここだ」
お兄さんは足を止めて言った。
「ここって……」
建物と建物の間の、路地裏のような場所。だけど、路地裏じゃない。地下に続く階段がある。
「知ってはいるだろ? ライブスタジオだ」
「うん。え、ここに入るの?」
「あぁ。お前の悩みの”答え”を見つけるためにな」
「答え……。でも、ライブスタジオは、なんというか……」
違和感が芽生える。お兄さんはそれを見透かすように──。
「俺達が専攻するジャンルとは違うって?」
「……うん」
「だからこそ、吸収すべきものがある。それに──音楽であることに変わりはない」
それだけ言って、お兄さんは階段を下りていった。
僕はモヤモヤした心──アンダーグラウンドな雰囲気にどこはかとなく緊張感を抱きながら、後に続いた。
ライブスタジオ──箱って言ったりするんだっけ? そこのキャパシティは、それほど多くなさそうだった。僕たち以外に、ほとんどお客さんはいなくて……いわゆるインディーズな人たちがライブするらしい。
そしてお兄さん曰く、社会人の傍ら、趣味でバンドが好きな人達で構成されているグループだとか。お兄さんはあぁは言うけど……やっぱりジャンルが違いすぎてる気がする。
そんな気持ちに駆られている中──ライブは始まった。若い男性4人グループのバンドで、全員がスーツを着用してるという、なんとも異質な人たちだった。それでいてギター、ベース、ドラム、そしてボーカルという一般的な構成──だけど、きちっと着こなすスーツ姿に似合わない、ハードロックな曲調だった。
(こういうこと思うのダメだと思うけど……やっぱり、音大の人はすごい……)
音大で耳が肥えたのもあるし、趣味としては上出来だけど、失礼な感情が沸き上がった。
(でも……なんだろう、すっごい……心に響く……)
まるで曲に、命が宿ってるみたい。
好みで言えば、やっぱりクラシックな曲調が僕は好き。耳に届く歌詞も、社会への不満を歌った……ネガティブなもので、あまり好んで聞かないもの。
だけど、飲み込まれていた。彼らの顔に輝く汗のように、彼らは全てがキラキラして見えた。
(そっか……これが──)
技術じゃない。才能じゃない。
これが……魂から刻まれる歌なんだ──。
うまく形容できないけど、僕はその感情が浮かんでいた──。
◆◇◆
駅まで向かう帰り道……僕の心は、満たされていた。歌いたくて、歌いたくて……そんな静かな情熱が湧き上がっていた。
「……お兄さん、僕、分かったよ」
隣を歩くお兄さんに、今の感情を目いっぱい言葉に込めるようにして言った。
「ならよかった」
相も変わらず、平坦な返事。僕はそれに、くすっと笑ってしまった。
「……なんだ?」
「いや、お兄さん……ライブ見たあとのテンションじゃないなぁって思って」
「そうか? 逆に、奏音は涼しい顔になったな」
「うん……あの人達の歌には、魂がこもってた。僕にも……それがおすそ分けされたみたいに、魂に響いたの」
「おすそ分け──奏音らしい表現だな。……これは、同じ学部の奴から聞いたことだが。バンドというのは、最高潮な自己表現的音楽らしい」
「最高潮な自己表現?」
今の僕ならわかりそうだったけど、その欠片を埋めるためにオウム返しした。
「今ある感情を、全身全霊で込める。ネガティブも、ポジティブもな。だから──奇しくも、”人生最大の不幸”が訪れているときこそ、”人生最大のいい曲”が作れ、歌うことができることもあるらしい」
「……なるほどぉ」
さっきの人達は、社会への不満を歌っていた。澱みのない本音だからこそ、魂から紡がれていた……。
(合唱コンクールで、みんなをまとめたいと思ったとき。つぐみを元気づけたいと思ったとき──僕のパフォーマンスも、最高のものになった)
そう、確信をもって言える。
だって、その時の僕は──どこまでも個性を、僕だけの色を……解き放っていたはずだから。
「……僕の歌は──僕の自己表現は、多分、”誰かのために”って思うことで、発揮されるんだと思う」
自分にも言い聞かせるように、そう言った。
「かもしれないな」
要領を得ない言葉だったけど……お兄さんは小さく口端をあげて、同調してくれる。
「お兄さんの言う通り……環境が変わって、人間関係がリセットされて……高校までのパフォーマンスが、発揮できていなかったんだと思う」
「なら、その誰かのためにって思えるように、友達を作るか?」
「そうだね。でも、しばらくは──」
僕は体を翻し、お兄さんの前に出る。お兄さんは静かに足を止める。僕は眼鏡の奥の瞳を覗き込むようにして見つめて──。
「しばらくは、お兄さんへの感謝を魂に──歌に乗せてみようと思う。今日の──ううん、今までのありがとうを、込めて」
僕がそう言うと──月夜に照らされるお兄さんの顔が、ほころんだ。優しい笑顔を咲かせた。
「……応援してる」
お兄さんはそう言いながら、ゆっくりと歩みを再開した。
どこはかとなく、照れ臭そうにしていた気がする──いや、気のせいかな。
そんな僕たちを──大海のように果てのない夜空が、星々を輝かせながら見つめていた──。
筆先に宿る月下美人 @PASQUA
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